屋敷を前にして
屋敷は、一等地とはいえ、その外れにあった。さすがに一等地のど真ん中みたいな、うまい話はない。しかし敷地面積は広く、この近辺の屋敷で順位をつけるとすれば中の上といったところだろうか。元手がかかっていないことを考えれば、十分満足できるものだ。
この屋敷のもとの持ち主は、さる侯爵家で、10年ほど前に諸般の事情から屋敷を手放したとのこと。物件の性質上、誰もがお金を出せば買えるというものではないため、以来、政府の管理下にあったらしい。
男は屋敷のカギを手渡し、
「すいませんが、ここに受領のサインをいただきたいのですが……」
と、書類とペンを差し出した。
わたしがサインをすると、男は深々と頭を下げ、そそくさと馬車を動かして帰っていった。
「さて、とりあえずは、屋敷の中を一通り見ておかないと……」
わたしがカギ穴にカギを差し込むと、
「マスター、それはまずい」
プチドラがわたしの腕を抜け、ぴょんと地面に飛び降り、スカートのすそを引っ張った。
「迷子になるかもしれない……というか、マスターのことだから、きっと迷子になるよ」
言われてみれば、わたしは極度の方向音痴だった。自分の家で迷子に…… わたしなら、十分に有り得る話だ。先に使用人の手配をしておけばよかったけど、今更言っても仕方がない。
「マスター、どうしよう」
「心配いらないわ。こういう時こそ、バカが付くほど単純だけど、理屈抜きで頼れる男がいるから」
頼れる男とは、すなわち、ツンドラ候のこと。本当の意味で頼りになるかどうかは別だけど、便利に仕える男と言い換える方が正確かもしれない。わたしは、本来の姿に戻った「隻眼の黒龍」の背中に乗り、空からツンドラ候の屋敷に向かった。
ツンドラ候の屋敷の庭では、2メートル30センチを超える大男が小柄で痩せた男を蹴飛ばし、
「オラオラ、どうした! もっと気合を入れて掛かって来い!!」
「ひぃ~、侯爵様、お許しを……」
端から見ていると虐待しているようにしか見えないが、ツンドラ候の言葉を借りれば「これは伝統ある侯爵家の日課であり、侯爵家にに仕える使用人には武術の心得が不可欠なので、稽古をつけてやっている」とのこと。
侯爵はわたしを認めると、
「おお、ウェルシー伯よ、もう戻ってきたのか。予想よりも早かったな」
そして……
例によって、その日は恒例のドンチャン騒ぎが始まるのだった。