第二話「幽霊だってお風呂に入りたい」
『へー、ここが夕貴の家なんだ。うわぁあ、マンションだ! おお、たっかーい! 何階だっけ? 地上何メートル? 凄い、うわっ! ねぇねぇ? 夕貴、夕貴っ! 車がミニカーに見えるよ! ねぇねぇ? ここから飛び降りたら死んじゃうかな? とうっ! なんちゃって! てへ!』
「…………はぁ……」
終始喋りだす弓子さん、そしてわたしはため息以外終始無言だった。路上でパンツを履いてから……いや、訂正――弓子さんに憑かれから二十分近く経ったが、弓子さんのマシンガントークは止まらなかった。
その会話中でわたしは二点のことに気がついた。
一点目、どうやら弓子さんの声はわたし以外には聞こえていないらしい。あれだけ騒いでも通り過ぎる人は誰も注意しない。弓子さんの姿が見えていないため、何となく予想はついていた。
そして二点目――これは結構致命的だ。
どうやらわたしの考えが全て弓子さんに筒抜けになってしまっているようだ。喋らなくて見えなくても弓子さんと会話することが出来るが、考えたことが全て弓子さんに伝わってしまう。これほど不愉快なことはなかった。
『うーうーうー、夕貴無視しないでよぉー弓ちんに泣いちゃうぞー』
究極に無視すればきっと弓子さんは話しかけることを諦めてくれるだろうと思ったが、結果は上手くいかなかった。わたしが話さなくてもこの人はうるさいのだ。どうしたら一人であんなに喋ることが出来るのか、わたしには理解出来なかった。何も考えないように無心を貫き通したわたしのほうが精神的に追い込まれていた。
「……はぁ……」
何回目か分からない小さなため息をしてドアを開いた。
『お、おーっ! ここが夕貴の家か~おぉっ! マンションなのに玄関が広いっ!』
もはや何でも弓子さんは驚いている。市内にある一番高いタワーマンションの一室である。確かに普通の家よりは玄関は大きめかもしれない。
『夕貴? 鍵閉めなくていいの?』
「……オートロックですから」
『うわっ、オートロック! ホームセキュリティー! 目からビーム打ってくるんでしょ?』
「一体、何の話ですか?」
『ねぇねぇ、夕貴ん家の中見てきていい?』
「ホント自由ですね……どうぞ、好きにしてください……はぁ……」
わたしの許可を取ると弓子さんはすうっと壁を通り抜けて、部屋の奥へ進んでいってしまった。ようやく少しの静寂が訪れた。弓子さんが居ないとこんなに静かになるだなと思い知らされた。
「…………ただいま」
返事がこないのは分かっている。パパは夜遅くまで仕事だ、もしかしたら今日は帰ってこないかもしれない。
帰って来ない日は良くあるため、あまり気にはしていない。だが、そうとなるとわたしは弓子さんと一緒に過ごさなくてはいけない。
まあ、パパがいないほうがよかったかもしれませんね。弓子さんに何されるか堪ったものではない。
自分の部屋に入ると弓子さんがわたしのベッドで寝ていた。
正確に言えば、ベッドの上で仰向けになった状態で浮かんでいた。わたしに気が付くと流れる雲のようにふわふわっとこちらへと向かってく。
『あはっ、ねぇねぇ? ここが夕貴の部屋でしょ? 夕貴の私物漁りたいんだけどさぁ~なんか透き通っちゃうんだよ』
弓子さんは、わたしの机の上の教科書を掴もうとするが教科書だけではなく机まで通り抜けていた。机の引き出し部分から腕が生えていた。
「ほらほらこの通りすり抜けるんだよ、何とかして下さいよ」って言いたげな顔をしている。
なんか無性にあのドヤ顔が腹立ちます。
「漁りたいって素直ですね……まぁ、物に触れないなら安心です。わたしの部屋でゆっくりしていてくださいね」
『あれ~夕貴はどこに行くの?』
「もちろんお風呂です。シャワーを浴びたいし、着替えとかもその……したいので」
『あぁ~お漏らししちゃったからね~。うん、あたしも行く~。夕貴が洗っているところ見たいな~』
「変態ですか。わたしはあなたに見られたくありません。絶対に入ってこないでください、絶対ですよ」
『それは入って来て欲しいってことかな?』
「そんなフリではありませんから! ちゃんと大人しくしてくださいね」
遮りように自室のドアを強めに閉め、風呂場へ向かう。持ってきた着替えを洗濯機の近くのカゴに入れ、真っ先に下着から脱いだ。びしょびしょに湿った下着を見つめ、わたしは小さくため息をついた。汚れと一緒に今日という黒歴史も一緒に綺麗サッパリ消えて欲しいという願いを込めて洗濯機に抛りこむ。
はぁ……何でこんなことになってしまったのだろう。
リア充ロードに行ったら死にかけてお漏らしして、その上幽霊にとり憑かれる羽目になった。泣きっ面に蜂からの交通事故と言うべきであろう。今日一日で一生分の不幸が押し寄せてきた気がした。
そもそも何で弓子さんはわたしなんかにとり憑いたんだろうか?
わたしと弓子さんの共通点といえば、学年は違うが同じ学校の生徒であることだけだ。それ以外はわたしは知らない。それにリア充を恨んでいるならお門違いもいいことだ。もっとリア充度が高い人をとり憑くとか呪ったりすればいいのに。
「まったくよく分からない人ですね、弓子さんは……」
わたしは常に無表情であるため他人から良く何を考えているのか分からないと言われるが、逆に弓子さんは表情が豊か過ぎても何を考えているのか分からない。
処女喪失を経験したいというのも正直バカらしい。あれは弓子さんの嘘である可能性が高いと思う。
なぜ成仏できなかったのでしょう……そもそも一体あの人は何がしたいのだろう……。
弓子さんのことを考えながらわたしは着ているものを全て脱いだ。
情報が無さ過ぎて考えるだけで疲れてくる。ゆっくりと湯船に浸かっていれば何か答えが出るかもしれない。
「今日は気分を変えて新しい入浴剤を使いましょう、ふふ」
鏡に映る自分は無表情で喜んでいた。わたしはお風呂が大好きである。
しかも後ろにも隣にも近くにもうるさい幽霊はいない。たった数時間しか一緒に居ていないのに、久しぶりの自由を手に入れた謎の解放感があった。
「お風呂、お風呂~♪ お風呂は~たららら~」
わたしのオリジナルソングを歌いながら曇りガラスのドアを開くと――そこには全裸の弓子さんがいた。手を腰に置き、大きな胸を張っている。
『お? 夕貴、遅かったね~トイレでも行ってたのかにゃ?』
弓子さんがしてやったりと言いたげな顔をしている。その顔にカチンと来たわたしは何も言わず曇りガラスを閉めた。
『ちょ、ちょっと~夕貴っ! 何か、リアクションとってよ、弓みん寂しいぞ』
曇りガラスから首だけをニョキッと出していた。まるでガラスによって首を落とされた死体のように見える。結構怖いというか軽いホラーだった。
「ひ、何でお風呂にいるんですか……?」
『いや~見た目通りあたしは女じゃん? いや、中身もちゃんとした乙女だよ! あははははっ!』
ついついじっと弓子さんの胸を凝視してしまう。動くだけでプルンとプリンのように揺れている。
う……まだ、わたしだって成長中です。
『まあ、夕貴はこれから大きくなるよ、大丈夫だよ。あたしは幽霊だから成長しない、ぷぷっ! はっはっはー』
「それで何でそんなところにいるんですか? しかも全裸になって……わたしに見せびらかしているんですか? そうですね……きっとそうですね」
『ん? お風呂入るのに服はいらないでしょ? さあ、夕貴一緒に入ろう! いいでしょ? この通り、あたし女だよ! ならオッケーだよね! お邪魔します!』
「いや、女であることは確かですけどその前にあなたは幽霊です。幽霊がお風呂に入る必要ないです」
『あぁ~幽霊差別だ。差別は良くないよ、幽霊にもお風呂入る権利あるんだよ! さあさあ、行こうか! 湯船も広いし!』
弓子さんはそう言ってわたしの腕を掴んだ――掴んだ!?
幽霊であるはずの弓子さんが……ありとあらゆる物が透き通ってしまう弓子さんが、わたしの腕を掴んだのだ。物凄く冷たい弓子さんの手に思わずわたしは悲鳴を上げてしまった。
「きゃああっ、ちょ、ちょっと! 放してください! え、ふ、触れられるんですか!? わたしに! な、ななっ! 何で!?」
『あ、うん。だってあたしと夕貴は繋がってるからね~。一緒に入らないと抱きついちゃうよ~』
その脅しはわたしを屈服させるには充分すぎた。弓子さんの身体はあまりにも体温が無さ過ぎる。氷のように冷たいというよりは氷その物だった。こんな冷えた身体で抱きつかれる、それを考えただけでぶるっとわたしの身体は震えてしまった。
さっきよりも間抜けな悲鳴を上げてしまうことは間違いないだろう。これ以上弓子さんに醜態や弱みなどを見せたくはなった。
「わ、分かりました……わたしの負けです……くっ、弓子さんと入ります……」
『うん、待ってたよぉ~。女騎士のようなセリフは聞かなかったことにするよ。さあ、一緒にお風呂に入ろうね~』
「分かりましたから……はぁ」
仁王立ちしている弓子さんを見て再度わたしはため息をついてしまう。見れば見るほど羨望の眼差しが嫉妬や恨みに変わってくる。本人はそのつもりはないと思うが、貧弱な身体であるわたしを見下しているようにも見えてしまう。
『お風呂~お風呂っ! まずは入ろう入ろう~っ!』
わたしは弓子さんに言われ湯船に浸かる。わたしの家のお風呂は結構大きいから二人分は入ることが出来る。
弓子さんもわたしの隣に座っている。正確に言えば浮いているのだがもはやそこを気にしたら負けな気がする。
『ふぃ~い、いいお湯だねぇ~。お風呂最高だね~! ね、夕貴』
「いや、弓子さん幽霊ですから関係ないじゃないですか」
『うん、まー、そうなんだけど~。こういうのは思い込みっしょっ!』
案外プラス思考な幽霊なのかもしれない。
って……プラス思考な幽霊ってなんだろう……。この非科学的な状況に少し慣れてきたのかもしれない。
そもそも幽霊との裸の付き合いしているこの光景も考えてみると少しおかしい。せっかくのお風呂なのにいい気分が台無しになってしまった。
微妙に弓子さんの冷たい身体が触れているのが気になって仕方がない。
「はぁ……何でこんなことになってしまったのでしょう」
『う~ん、お漏らしをしたからじゃないの?』
「あなたはそのネタはいつまで引っ張るのですか。もうやめてもらいたいです。思い出すだけで虚しくなってきます」
『もっと止めて感を表情に出さないと分からないぞ~』
弓子さんの冷たい指先がわたしのほっぺをつんつんと突っつく。
表情に出すことはないが五回を超えたところでわたしは不機嫌になる。
『ん? ちょっと夕貴、機嫌が悪くなったでしょ? ふふ~ごめんごめん、もう怒っちゃや~よ』
弓子さんが優しくわたしの頭を撫でてくる。妙に慣れた手つきのせいか、少し気持ちが良く、不思議と怒りが収まったしまう。
「……弓子さん、わたしが不機嫌になってるってよくわかりましたね」
『んー。まぁ、夕貴とあたしは繋がってるしね。もっと夕貴は笑ったほうがいいよ。笑うと幸せ度数が増えるんだよ』
「まぁ、あたしはもう死んでるだけどね」と弓子さんは満面の笑みでそう言う。
『……わたしだって笑いたいです。でも笑えないんですよ。わたしだって……もっと自分の感情を表に出したいんです。でも表に出すことが出来ないんです。もう何年も笑ってないですよ……わたしは』
膝をぎゅっと抱え、無表情でそう言った。最初は表情がなくて辛かった。誰にも理解されないし、何よりも『不気味』、『変』『キモチワルイ』……色々言われた。今ではもう……わたしの感情なんて理解されなくていいと思っている。
だって表情がなくてもわたしはこれまでやって来れたから。
これがわたし。
表情がないのがわたし……七草夕貴なのだ。
でも……本当は好きな人には笑みを見せたい……一緒に笑いたい!
『表情が出せない……か……大変だね~。夕貴は~あはっはっは~』
シリアスな話をしても弓子さんは全然気にしなかった。むしろ笑い飛ばすという、本当に読めない人だった。相変わらずマイペースだった。この人はけして他人合わせることはないのだろう。空気を読むって言葉を知らないかもしれない。
『でも夕貴の身体は笑うことが出来たような気がするよ~ちょっと身体貸してくれる』
「ちょっ……何を言っているんですかっ! シャーペン貸してみたいに言わないでください! 無理ですって……あ、あ、こら……」
許可なしに弓子さんはわたしの身体を乗っ取ってしまった。身体はそこにあるのに感覚がまったくない。これが幽霊になった感覚なのかもしれない。
「おおおおっ! おぉおおおおおお、あたたたたたたたかいっ! 懐かしい、お風呂! 超気持ちいい!」
テンションの高いわたしがお風呂の中でばしゃばしゃと暴れている。
あの弓子さん早くわたしの身体を返してください。そもそも何でわたしが身体を貸すノリになったのですか?
「おぉーっ! すっかり忘れていた。見てみ、これが夕貴だよ~」
鏡の前にはわたしがいた。
髪の毛が少し濡れており、ほんのり頬が赤く染まっている。弓子さんのスタイルとは真逆で起伏が乏しい身体だった。
見ているだけ残念な気持ちがこみ上げてくる。相変わらず仏頂面をしているわたしがそこにはいた。
……見ましたけど……何ですか?
「見てみて! 今から夕貴が笑うことが出来るというか、表情を作れることを証明してあげるね!」
そう言って弓子さんはわたしの貧しい胸を揉み始めた。
凄く手つきがいやらしい。
「ん、ふあ……思ったより感度がいいね……んふ」
ちょっとっ! 弓子さんっ! わたしの身体で何やっているんですかっ!
「見てみてっ! 夕貴のアへ顔~。夕貴はエッチな女の子、十五歳です」
鏡の前で両手でピースを作り、目はだらしなく上を向いている。虚ろになった目と広く開けた口から出た舌を出している姿はかなり気色悪い。
止めてください! わたしの身体を使って変な顔を作らないでください!
「やっぱりちゃんとイクべきだね……ごめん……ふぁ、んんん!」
弓子さんは自分の身体を慰めるように手を動かしていた。鏡にわたしは映る片目をつぶり、微弱な快感を必死に我慢していた。ゆっくり円を描くように動かす指使いに思わず息を飲んでしまう。
見るからにエロい……。凄くエロい。
自分であるが、自分ではない。自分に似た別人がそこにはいた。
そんなわけの分からない感覚になってくる。幽体離脱して、身体の感覚がないはずなのに、そこに居る別の『夕貴』の感覚が流れてきた気がした。
「どうかな……夕貴? 夕貴の身体は表情を出すことが出来るよ。気分の問題じゃないかな……ふぁあ」
物凄い表情だった。顔を真っ赤にさせて必死に羞恥を押し殺している。恥ずかしい……いけないことをしている……でも指が止まらない……そういう気持ちがこの表情から読み取れる。
こんな表情が出来るとは思ってもみなかった。
すごい……わたしって……こんなにエッチだったんだ……そうだったですね……って! えええええええ! な、ななななな何してんですか!
「はぁはぁ……ん、きもち……いい……ひゃううううう!」
ひ・と・の・は・な・し・を・き・け! どこに手を伸ばしているんですかっ! これ以上わたしの羞恥を見せないでくだい!
「ふえ? あ、ごめん……ついつい毎日の日課で……でも我慢は身体に毒だよ。一回達したほうがよくない? この感じならあたしのテクで三十秒もかからないよ」
よくないです! やらなくていいですっ! てか、バカですかあなたはっ! 早く返してください! 元々表情を作れるかどうかの話でしょ! そ、その……えっちは許可してません!
「はいはい。返すって~。そう怒らないでよ~。ん……おぉ~凄いピンク色! 濡れ具合は……ふふ……夕貴の身体もなかなかえっちいね」
弓子さんは粘液で濡れた人差し指をわたしに見せつけて、ゆっくり舌で舐め取っていた。
「えへへ……おいしい……夕貴のココすごく綺麗だよ……穴小さいし、絶対自分の指とか入れたことないでしょ~へっへっへ」
わたしの声で下衆な声を出している。弓子さんはもはやわたしの想像以上の愚行に出ていた。人間は自分で処理し切れるキャパシティーが超える状況が生まれると無言になる。それを初めてわたしは知ってしまった。
そして……ようやく状況の処理が始まる。
ぴちゃりぴちゃりと淫らな音と共にわたしは声を荒げる。
い、いやぁああああああっ! 弓子さん! 本当に止めてくだいっ! あなたの望みはなんですかっ!
「いや~他の人の身体とか結構気になるじゃん。いやぁ~もうちょっと見たいから広げるね……うわぁ~小指入るのかな?」
この通りです! 止めてくださいっ! もう……本当にやめてくだいざい……ぐずん……。
「あははは、ごめんごめん。夕貴可愛いからさ、つい。あたしはそっち方面でも『あり』だと思っているから、ほいほい。身体を返すよ」
わたしの声で弓子さんがそう言った瞬間、自分の身体が戻ってきた。温かい感覚と妙にけだる感覚が混じり合った初めての感覚にわたしは戸惑いを隠せない。妙に身体が火照っているし、股がむずむずしているのは、弓子さんが中途半端な状態で終わらせた結果だろう。
しかし……今はそんなことはどうでもよかった。放心状態とはこういうことだろう……。
『あれ? 夕貴怒ってる?』
「怒っているといえば怒ってますけど……今は泣きたいです……涙が出てきます……」
もちろん無表情で涙を流している。目の色が完全に消えてしまった。まさにレ◯プ目というのはこういうものであろう。
先輩……パパ、ママ……わたしの身体……幽霊に汚されました……。
『あ、夕貴もしかしてむらむらしてる? 中途半端だったからね、大丈夫! そん時はあたし席を外すから』
「……もう、いいです……何も言わないでください。お願いします」
「いや~大丈夫、むらむらするのは夕貴だけじゃないから。あたしなんか生きてた時は一週間で十回ほどしたぐらいだから……ふふ、夕貴って濡れ易いね」
「……もう嫌です……止めて下さい……」
この時わたしは大事なものを失った気がしたのだった。幽霊の前で失礼だが、不覚にも死にたいと思ってしまった。
お風呂から上がったわたしはドライヤーで髪を乾かしていた。さっきのことは思い出したくなかった。必死に忘れようとするが、あまりにも衝撃度が大きすぎて忘れてることが出来ない。
多分わたしの中でもブラックな思い出として胸にしまい込むのだろう。きっと誰にも話すことが出来ない恥ずかしい話として……。
今日という日は最悪な日であることは間違いない。これほど最悪な日はない……ホントなんて日だ……。
『ということで夕貴は表情を表に出すことが出来るとわかったね~やったね!』
「……そうですね……わーい、はは……」
何が「やったねだ」ですか。
当の本人の弓子さんはまるでさっきの出来事がなかったかのように平然としていた。
だが、確かに弓子さんの言う通りわたしには表情があった。思い出したくはないが弓子さんに身体を乗っ取られた時、明らかにわたしはえっちぃな顔をしていた。つまり、精神的な問題でわたしは表情を表に出せていないかもしない。
それが彼女の……弓子さんの結論だった。
『んで、一つ提案なんだけど……そこをあたしがカバーすれば夕貴は笑うことが出来ると思うんだよね』
すなわちそれはわたしの表情を乗っ取るということと等しい。わたしの中では弓子さんの評価は大暴落。あんな辱めを受けたのだ、もはや身体の一部はもちろん、髪の毛の一本たりとも弓子さんに貸したくはなかったのだ。
ましては表情だ。わたしの表情を弓子さんに貸す……想像するだけで何かとんでもないことが起こるに違いない。
「そもそも表情だけ乗っ取ることなんか出来るんですか?」
『うにぃ? 多分出来るよ。オセロットの右腕にリキッドが乗っ取るようなのは可能だよ』
「分かりにくい例えですね」
『あれ~? あたしはわかりやすいって思ったんだけど? まぁ、いいかな? 任せて夕貴! 夕貴を大爆笑させてあげるね! うへへ』
「全然安心して任せられないんですけど……。いいですよ、表情がなくても……死にませんから」
本当は欲しいが弓子さんに任せる勇気はわたしにはなかった。弓子さんは不安そうにぶーぶーっと唾を飛ばしてくる。
あぁ……この人うざいですね……死ばいいのに……あぁ……もう死んでいるか、残念です……。
『夕貴……さすがにそれは言い過ぎたよ……むう、せっかく夕貴に恩返しが出来ると思ったのに……むむ、無念』
「はー? そうですか……とりあえず、恩返しはしなくていいです。仇返しになっているので。弓子さんが何もしないことが唯一の恩返しだと思っています」
『ぶーぶー、働かせろ! 家賃程度払わせろ! ぺっぺっぺっぺ』
「唾を飛ばさないでください。不愉快です」
幽霊だから本物の唾は飛んではいないが生理的に受け付けない。
『それじゃ、あたしがつまんないよぉ~』
「つまんなくていいです。わかりましたか、何もしないでくださいね」
無駄だと思うが一応釘をさしておく。一つを許してしまうとずるずると弓子さんの言いなりになってしまうだろう。力関係がわたしのほうが上であることを示しておく必要がある。
それに弓子さんは悪い人……悪い幽霊ではないのは分かっている。
わたしのために動いてくれるし、何よりも本気でわたしの身体を乗っ取ってこないからだ。お風呂での出来事でも『ちょっと借りるよ』って許可を取りに来た。
その気になればいつでもわたしの身体を乗っ取れるはずなのに弓子さんはそれをやらない。
わたしが本当に嫌なことは絶対にしない。きっとちゃんと言えば従ってくれる。話せばわかるはずだとわたしは思っていた。
……過去形だ。
わたしも油断をしていた。そして忘れていた。
弓子さんは何よりも楽しいことが好きなのことを……。