13
ほんの少し手を伸ばせば、触れられるくらいまで、グレモリイは近づいていた。
彼女の、薄紅色の唇のあいだから、人のものとは違う、長く鋭い犬歯がのぞいている。
首筋に、彼女が触れた。
ひやりとした指に、僅かに体が震える。
彼女から目を逸らすことも、動くこともできずにいた。正確には、彼女の瞳に、視線と思考とが囚われていた。
赤みを帯びた榛が、段々と近づいて。
彼女の牙が。
首に。
私は、彼の名前を呼んでいた。
「じょうだん」
彼女が何を言ったのか、わからなかった。少しの間を置いて理解した時には、彼女は先ほどより一歩引いたところに立っていた。その顔は、変わらず微笑んでいた。
「本当に噛むと思った?」
「グレモリイ、あなた……」
「ねえ、わかったでしょう?」
「え?」
「どうしたいか、誰が良いのか、ね?」
刹那、緊張の糸が切れ、長いため息が零れる。先ほどのことが、彼女なりの後押しだったとわかり、体の力が抜ける。そんな私を見下ろして、彼女は笑みをいっそう深くした。
もう危険はない。にもかかわらず、自分の鼓動が、妙に大きく聞こえ続けていた。
(――あれが、吸血)
逃げよう、という気が起きなかった。
彼女の長い睫毛に縁どられた眼が、柔らかい微笑みが、流れる金糸のような髪が、黒いドレスから覗く白い肌が、彼女のすべてが――魅力的に見えた。元々可愛らしいとは思ってはいた。が、まるで恋い焦がれるように、只々、彼女に惹きつけられ、視線を離せなくなった。
早く、噛んで欲しいとさえ――
先ほどの余韻を振り払うように、頭を振る。
吸血された人間は、吸血鬼になる。すべての血を吸い尽くされない限りは。しかも、吸血された人間は、吸血をした相手に逆らうことも出来なくなる。
(吸血鬼、か……)
自分の首筋に触れ、ぼうっと扉の先を見つめる私に、ねえ、とグレモリイは言う。
「わたしね、ソフィア様が大好きよ。いつだって、幸せを祈ってる。吸血鬼だけどね。――だから、後悔してほしくないの」
降ってきた優しい言葉を聞きながら、知らず知らず握りしめていた拳から、ゆっくりと力を抜いた。
後悔。
これまで、私は後悔なんて殆どしたことはなかった。
たとえ、それが、両親の本当の心情を知った時でさえもだ。確かに悲痛と衝撃を受けた。それも、自身を保てないほどの。
けれど、そこに後悔はなかった。両親は心配してくれていると幻想を抱いて、過去に縛られたまま生きていくよりは、ずっと良かったのだ。
グレモリイの言う通り、今、行動を起こさなければ、後悔する未来が見えているのはわかっていた。
そう、わかっていたのだ。
後悔することも、諦めることもできないことも。それを、私は、見ないようにしてきた。
恐れを抱いて何もしないのと、成功も失敗もするかもしれないけれど、一歩踏み出す。
そのたった一歩が、長い間、踏み出せずにいた。
――けれど。
少し前まで話していたフィンの顔が浮かぶ。
そして、心配そうなグレモリイが目の前にいる。
静かに唇を結び、俯く。
しばらくの間、沈黙が降りた。
「……――私、やるわ」
もう逃げない、静かな空気を裂くようにそう告げて、グレモリイを見上げる。
彼女は榛の目を大きく見開き、次いでその顔を華やぐような笑みで満たした。
「その意気よ! 体調が良くなったら、一気に仕掛けましょう!」
私を指差し、そうのたまう彼女に、苦笑いが漏れる。
「仕掛けるって……」
「大丈夫、わたしも一緒に考えるから」
「グレモリイ」
「なあに?」
「――ありがとう」
「ふふ、わたしは何もしてないわ」
そういって、再び彼女は、軽やかに傍の椅子へ腰を下ろした。
「じゃあ、さっそく作戦を考えましょ!」
「ええ」
そうして、私たちは作戦会議に興じた。あれこれと意見を出し合って、自分だけでは出し得なかった考えに、私は何度も頷いた。
話の途中、突然、彼女は、私の唇の上に手を当てた。だが、すぐに意図することが飲み込めた。グレモリイと顔を見合わせ、口を閉じる。しばしの間、静寂が続いた。呼吸音さえ聞こえるような静けさだった。程なくして、ノック音が響いた。
話を聞かれたのでないかと不安が過り、心臓が煩くなる。
「大丈夫、あの距離なら」
グレモリイが私を安心させるように、背を軽く叩いて、返事をするよう促した。
私の返事の後、扉から現れたヴィネ様は私たちを見て、柔らかい笑みを浮かべた。いつも通りの笑顔だった。それに安堵し、ひっそりと息を漏らす。続いて入ってきたヴィネ様より少し高い位置にある精悍な顔は、苦笑していた。金の髪、榛の瞳。グレモリイの兄ハウラスだった。
ベッドの傍までやってきた彼は、私が身構えるよりも早く「思ったより、元気そうじゃないか」と言って、私の頭を撫でた。本人は撫でているつもりだろうが、力が強くて痛い。その上、乱暴なので髪が乱れる。
「止めて! 髪がぐちゃぐちゃになっちゃうわ!」
両手で押し返すと、腕は簡単に引いた。すぐさま手鏡を取って、頭の方へ向けてみる。ひどく乱れた髪に、顔が強張るのがわかった。髪を乱した張本人は腰に手をあて、薄ら笑いを浮かべている。そのニヤついた顔面に向かって、なにか物でも投げてつけてやりたくなったが、ぐっとこらえる。手鏡を見ながら、手早く櫛で整えたところへもう一言。
「元々ぼさぼさだったから、問題ないだろ」
「はあ!?」
冷めた視線で彼を射る。
手鏡と櫛を脇に置いて、なにか投げるのに適した、壊れても問題のない物はないかと、ベッドの周りを見回した。とても残念なことに何も見当たらなかったので、代わりにベッドの上から自分の拳を突きだす。分かってはいたが、拳は一度も当たることはなかった。睨むことしかできない私を見て、彼はニヤケ面を引っ込めたかと思うと、明るい笑い声を上げた。
彼はいつもこうだった。
落ち着いた物腰のヴィネ様とは正反対で、言葉にしろ、仕草にしろ、そのひとつひとつが、大仰で自信に満ち溢れていた。加えて、意地も悪い。それは気を許しているからだと、ヴィネ様は言っていたが、今でも納得はしていない。
初めて会った時、最初から私を受け入れてくれたグレモリイとは違い、彼からは、どこか人を下に見ているような雰囲気が感じられた。たまに見せる榛色の瞳の冷たさが、それを如実に語っていた。正直、彼との仲は、良好とはいえなかった。だが、それも出会ってから七年の時と、紆余曲折を経て、今ではすっかり消えたように思う。
妹に肘で小突かれて、笑いを抑えた後、まあ、と彼は零した。
「せいぜい死なないように、ちゃんと飯を食わせてやれよ」
彼の隣に立って、こちらを眺めていたヴィネ様に向かって言う。
「当然だ。だが、内容を見直すことにしよう――早く良くなるように」
そう柔らかい視線を注いでくれる彼に、頬がほんのりと熱を持つのがわかった。
四人で話していると、日付が変わってしまうこともあった。しかし、兄妹は私の体調を気遣ってか、いつもよりもずっと早く暇を告げた。
帰り際、グレモリイは私の手を握り、目を合わせて強く頷いた。それに答えるように、しっかりと頷き返した。
幼馴染たちを見送るために、ヴィネ様も一緒に部屋を出て行った。
扉が閉まった後、先ほどまでの楽しい空気を纏ったまま、枕へ頭を沈め、なんとはなしに部屋の中を見つめた。しばらくして、余韻の引いた頭で、グレモリイが出してくれた案をどう実行に移そうかと、あれこれ考えを巡らせた。