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 ほんの少し手を伸ばせば、触れられるくらいまで、グレモリイは近づいていた。

 彼女の、薄紅色の唇のあいだから、人のものとは違う、長く鋭い犬歯がのぞいている。

 首筋に、彼女が触れた。

 ひやりとした指に、僅かに体が震える。

 彼女から目を逸らすことも、動くこともできずにいた。正確には、彼女の瞳に、視線と思考とが囚われていた。

 赤みを帯びた榛が、段々と近づいて。

 彼女の牙が。

 首に。

 私は、彼の名前を呼んでいた。



「じょうだん」


 彼女が何を言ったのか、わからなかった。少しの間を置いて理解した時には、彼女は先ほどより一歩引いたところに立っていた。その顔は、変わらず微笑んでいた。


「本当に噛むと思った?」

「グレモリイ、あなた……」

「ねえ、わかったでしょう?」

「え?」

「どうしたいか、誰が良いのか、ね?」

 刹那、緊張の糸が切れ、長いため息が零れる。先ほどのことが、彼女なりの後押しだったとわかり、体の力が抜ける。そんな私を見下ろして、彼女は笑みをいっそう深くした。

 もう危険はない。にもかかわらず、自分の鼓動が、妙に大きく聞こえ続けていた。


(――あれが、吸血)

 逃げよう、という気が起きなかった。

 彼女の長い睫毛に縁どられた眼が、柔らかい微笑みが、流れる金糸のような髪が、黒いドレスから覗く白い肌が、彼女のすべてが――魅力的に見えた。元々可愛らしいとは思ってはいた。が、まるで恋い焦がれるように、只々、彼女に惹きつけられ、視線を離せなくなった。

 早く、噛んで欲しいとさえ――


 先ほどの余韻を振り払うように、頭を振る。

 吸血された人間は、吸血鬼になる。すべての血を吸い尽くされない限りは。しかも、吸血された人間は、吸血をした相手に逆らうことも出来なくなる。

(吸血鬼、か……)

 自分の首筋に触れ、ぼうっと扉の先を見つめる私に、ねえ、とグレモリイは言う。


「わたしね、ソフィア様が大好きよ。いつだって、幸せを祈ってる。吸血鬼だけどね。――だから、後悔してほしくないの」

 降ってきた優しい言葉を聞きながら、知らず知らず握りしめていた拳から、ゆっくりと力を抜いた。


 後悔。

 これまで、私は後悔なんて殆どしたことはなかった。

 たとえ、それが、両親の本当の心情を知った時でさえもだ。確かに悲痛と衝撃を受けた。それも、自身を保てないほどの。

 けれど、そこに後悔はなかった。両親は心配してくれていると幻想を抱いて、過去に縛られたまま生きていくよりは、ずっと良かったのだ。

 グレモリイの言う通り、今、行動を起こさなければ、後悔する未来が見えているのはわかっていた。


 そう、わかっていたのだ。

 後悔することも、諦めることもできないことも。それを、私は、見ないようにしてきた。

 恐れを抱いて何もしないのと、成功も失敗もするかもしれないけれど、一歩踏み出す。

 そのたった一歩が、長い間、踏み出せずにいた。

 ――けれど。

 少し前まで話していたフィンの顔が浮かぶ。

 そして、心配そうなグレモリイが目の前にいる。

 静かに唇を結び、俯く。

 しばらくの間、沈黙が降りた。


「……――私、やるわ」


 もう逃げない、静かな空気を裂くようにそう告げて、グレモリイを見上げる。

 彼女は榛の目を大きく見開き、次いでその顔を華やぐような笑みで満たした。


「その意気よ! 体調が良くなったら、一気に仕掛けましょう!」

 私を指差し、そうのたまう彼女に、苦笑いが漏れる。


「仕掛けるって……」

「大丈夫、わたしも一緒に考えるから」

「グレモリイ」

「なあに?」

「――ありがとう」

「ふふ、わたしは何もしてないわ」

 そういって、再び彼女は、軽やかに傍の椅子へ腰を下ろした。


「じゃあ、さっそく作戦を考えましょ!」

「ええ」

 そうして、私たちは作戦会議に興じた。あれこれと意見を出し合って、自分だけでは出し得なかった考えに、私は何度も頷いた。

 話の途中、突然、彼女は、私の唇の上に手を当てた。だが、すぐに意図することが飲み込めた。グレモリイと顔を見合わせ、口を閉じる。しばしの間、静寂が続いた。呼吸音さえ聞こえるような静けさだった。程なくして、ノック音が響いた。

 話を聞かれたのでないかと不安が過り、心臓が煩くなる。


「大丈夫、あの距離なら」

 グレモリイが私を安心させるように、背を軽く叩いて、返事をするよう促した。



 私の返事の後、扉から現れたヴィネ様は私たちを見て、柔らかい笑みを浮かべた。いつも通りの笑顔だった。それに安堵し、ひっそりと息を漏らす。続いて入ってきたヴィネ様より少し高い位置にある精悍な顔は、苦笑していた。金の髪、榛の瞳。グレモリイの兄ハウラスだった。

 ベッドの傍までやってきた彼は、私が身構えるよりも早く「思ったより、元気そうじゃないか」と言って、私の頭を撫でた。本人は撫でているつもりだろうが、力が強くて痛い。その上、乱暴なので髪が乱れる。


「止めて! 髪がぐちゃぐちゃになっちゃうわ!」

 両手で押し返すと、腕は簡単に引いた。すぐさま手鏡を取って、頭の方へ向けてみる。ひどく乱れた髪に、顔が強張るのがわかった。髪を乱した張本人は腰に手をあて、薄ら笑いを浮かべている。そのニヤついた顔面に向かって、なにか物でも投げてつけてやりたくなったが、ぐっとこらえる。手鏡を見ながら、手早く櫛で整えたところへもう一言。


「元々ぼさぼさだったから、問題ないだろ」

「はあ!?」

 冷めた視線で彼を射る。

 手鏡と櫛を脇に置いて、なにか投げるのに適した、壊れても問題のない物はないかと、ベッドの周りを見回した。とても残念なことに何も見当たらなかったので、代わりにベッドの上から自分の拳を突きだす。分かってはいたが、拳は一度も当たることはなかった。睨むことしかできない私を見て、彼はニヤケ面を引っ込めたかと思うと、明るい笑い声を上げた。


 彼はいつもこうだった。

 落ち着いた物腰のヴィネ様とは正反対で、言葉にしろ、仕草にしろ、そのひとつひとつが、大仰で自信に満ち溢れていた。加えて、意地も悪い。それは気を許しているからだと、ヴィネ様は言っていたが、今でも納得はしていない。

 初めて会った時、最初から私を受け入れてくれたグレモリイとは違い、彼からは、どこか人を下に見ているような雰囲気が感じられた。たまに見せる榛色の瞳の冷たさが、それを如実に語っていた。正直、彼との仲は、良好とはいえなかった。だが、それも出会ってから七年の時と、紆余曲折を経て、今ではすっかり消えたように思う。

 妹に肘で小突かれて、笑いを抑えた後、まあ、と彼は零した。


「せいぜい死なないように、ちゃんと飯を食わせてやれよ」

 彼の隣に立って、こちらを眺めていたヴィネ様に向かって言う。


「当然だ。だが、内容を見直すことにしよう――早く良くなるように」

 そう柔らかい視線を注いでくれる彼に、頬がほんのりと熱を持つのがわかった。

 四人で話していると、日付が変わってしまうこともあった。しかし、兄妹は私の体調を気遣ってか、いつもよりもずっと早く暇を告げた。

 帰り際、グレモリイは私の手を握り、目を合わせて強く頷いた。それに答えるように、しっかりと頷き返した。

 幼馴染たちを見送るために、ヴィネ様も一緒に部屋を出て行った。



 扉が閉まった後、先ほどまでの楽しい空気を纏ったまま、枕へ頭を沈め、なんとはなしに部屋の中を見つめた。しばらくして、余韻の引いた頭で、グレモリイが出してくれた案をどう実行に移そうかと、あれこれ考えを巡らせた。


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