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優しい月と、江戸のまち  作者: 伊那
一幕.はじまりの予感
7/52

 早朝。わたしはひどい寒さに震えて目が覚めた。目を開けると同時にくしゃみが出た。それも何回も。

 かなりさむい――どこか窓を閉め忘れただろうか。

 窓はどこも閉まっている。布団を身に手繰り寄せながら気づいた。ゆきは、大丈夫だったろうか。見るとわたしの隣ですっかり寝入っている。何の寒気も感じていないような様子で。

 鼻水が出そうでわたしはすんと鼻をすする。本格的にやばそうだ。結構寒い夜だったらしい。わたしは立ち上がって一階に下りる。歩くとなんとなく気だるい。それに寒くて背筋が震えそうだし、喉がイガイガするし鼻水が出そうで仕方ない。ちり紙を手にして店の方に行くと、調理場に父さんがいた。

「……なんでい、優月。その格好は」

 父さんは奇妙なものを見た顔をしている。確かにわたしは寝間着のままだし布団を肩掛け代わりにしてるし、もう仕事着になった父さんからしてみればだらしのない格好だろう。とにかく先に火元に行きたかったっていうか、そうでなくとも火のついた炭をもらいたかったっていうか。寒くて身なりに構う余裕がなかったのだ。

「さては風邪引いたな」

 頭がぼんやりして上手く反論できない。そう言われると寒気や気だるさに鼻水やら――これは風邪の症状かもしれない。

「今日も雪は止まねえ。店なんかやめだやめ」

 店を開けるには体調不良の者がいては問題だという事か。はっきりしない頭でわたしは声をあげる。

「わたしは大丈夫だよ」

 火の入った竈の前にいたらあったかくて随分楽になったし。喉の痛みと気だるさは消えないけど、寝込むほどじゃないはずだ。たぶん。

「どうせ雪で客も来ねぇからいいんだよ」

 諦めたように言う父さんは首に巻いていた手ぬぐいを引っ張って首から外した。

 ゆきのこと、どうしよう。

 ぼんやり思った。


 部屋に戻るとゆきは起きていた。昨日寝る時にわたしの寝間着を貸したけど、既に前日着ていた着物に着替えている。窓の外を眺めていたゆきは、振り返るとつぶらな瞳でじっと見上げてくる。

 今日はゆきと一緒に彼女の保護者もしくは探し人を捜索に行くつもりだった。だけどわたしのこの体調では、外に出るのは得策とは思えない。

「ゆき、今日は人探しつきあえそうにないんだ。ごめんね」

 まだ風邪の引きはじめだろうし、鼻水が出そうなこと以外は気だるいとか軽く頭が熱っぽいぐらいしか症状はない。寝込むほどじゃないけど、悪化しないように安静にしとかないといけない。

 ゆきは最初、怪訝そうに首を傾げていたが急に頷いた。

「わたし、さがしにいく」

 言葉は少ないが、どうやら一人でも行くと言いたいらしい。風邪引きゆえか、わたしはその事に気づくのに遅れてしまった。立ち上がっていそいそと居住まいを正すゆきが、部屋の入り口を出ようとしているのでやっとわたしは我に返る。

「え、ゆき、待ってよ」

 父さんにはこの少女の事を何も告げていない。別に隠すほどの事ではないのに、一度そうしてしまうと、訳の分からない焦燥が隠し通せと訴えてくる。わたしはゆきを引き止めて、父さんが下のどこに居るのかを確認しに行く。

 店である一階では物音がなく、調理場を覗いても父さんの姿はなかった。今だ、と思ったわたしは完全に目的を間違えていた。父さんに見つからないうちに、ゆきに声をかけるとわたしも着替えて二人で家を出た。


 家を出たところで、あれ? とわたしは自分の行動のおかしさに気づいた。風邪気味だから家で大人しくしていようと思ったのに、どうして雪の降る屋外にいるのか。疑問に思った頃には、傍らにゆきの姿がなくなっていて、わたしは慌てて周囲を見渡した。少し行ったところにあの目立つ、白と緑の頭を見つけた時には、わたしは駆け出していた。

 小さな雪の欠片が肌にあたって、少し熱っぽい頭には気持ちがいいくらいだった。けれど寒さで鼻水が凍ったかのように、鼻での息が苦しかった。やっぱり外に出たのは間違いだったかもしれない。

 思ううちにゆきに追いついた。

「ゆき、待ってって」

「おもいだしたの」

 振り向いたゆきは、淡々と言った。

「あのひとの、いえ、さざんかがさいてた」

 山茶花(さざんか)が。それはあまり大きな手がかりではないけれども、当てがまったくないよりましなのかもしれない。それに、上手くいけばゆきはもっと多くの事を思い出せるかもしれないのだ。

「山茶花……の他には何か思い出せないかな?」

 問われて、ゆきはじっと地面の上に視線を落とす。そこに答えが書いてあると思っているかのように、一心に見つめる。地面に家までの道のりが書いてあるのなら楽だったんだけど、そこには雪に覆われた土しかない。

「……おおきなはしと、おてら?」

 大きな橋と、お寺。それなら山茶花よりももっと大きな手がかりになる。山茶花だけよりは場所は絞られるとはいえ、思い当たるところがありすぎる。一体この江戸にどれだけの橋と寺があると思っているのか。いろんな意味で頭が痛くなってきた。

「まあ、大きな橋ならまだ少ない、かな……」

 昨日のゆきの様子から、とても長い間江戸の町を歩き回っていたとは思えない。多摩川、荒川まではいかないものと仮定して、爽亭のある尾形町とそう遠く離れていない場所からはじめよう。身なりがいい事から、いっそ武家屋敷の立ち並ぶ辺りまで歩いて行った方が効率的かなとも思ったけど、ゆきは自分の家が武家なのかも分かっていない様子だった。いっそ、江戸の人じゃないと考えた方がいいのだろうか。それなら江戸の地理に詳しくないのも頷ける。

 つらつらと思いながら、最初の候補地である宗達寺(そうたつじ)に向かった。宗達寺の近くには水路があって、それなりに大きな橋がある。たどり着いてゆきを窺うと、困ったような下がり眉を更に下げて、首をかしげていた。

 どうやら宗達寺は違うらしい。辺りを見てみれば、山茶花の木もどこにもない。まあ、宗達寺は一番近くにあったからとりあえず来てみただけだ、次をあたろう。

「もっと、おおきなはしだったかも」

 それにゆきは更なる手がかりをくれた。橋の事をもっと聞けばよかったのだと、わたしは意気込んだ。

「道みたいに長い橋?」

「……たぶん」

 相変わらずゆきの情報は曖昧だ。少し拍子抜けしたけど、大きな橋があるなら隅田川まで出た方がいいかもしれない。隅田川の近くには大小様々なお寺があるけど、一番有名なのはやっぱり浅草寺(せんそうじ)だろう。浅草寺に山茶花があったか覚えていないが、あの寺なら何度も行った事があるし、わたし以外の人だって訪れやすい場所のはずだ。ひとまず浅草寺を最終目的地にして、わたしたちは歩き始めた。


 雪は少しまばらになっていた。たまに思い出したように顔にあたる程度。道中、寄るつもりはなかったのに甘酒を出している屋台があって、わたしはゆきと二人でそれを飲んで身体をあっためた。

 尾形町から隅田川まで少し距離がある。その間に寺はそれなりの数があったからそれらを示したのだが、ゆきは顔色を明るくはしなかった。

 わたしはというと、鼻をすする回数が増えていった。空は雪を降らす雲で覆われていて時刻の移り変わりが分かりにくが、昼九つの鐘が鳴ったので昼前だという事が分かった。

 一度、昼休憩を挟んだ方がいい気がする。爽亭まで戻るのもなんだし、どこかの茶屋にでも入ろうか。そう思って店を探すが、うちの店と同じように暖簾が下げられたところも多かった。出歩く人もほとんどいない雪の日で、うちと同じく臨時休業をするところがあるのは当然といえば当然か。

 そうしてご飯処を探していたせいか気がつくと、ゆきの姿が消えていた。

「……あれ? ちょっと、ゆき?」

 辺りを見回しても、姿は見えない。まただ。一体どこに行ってしまったのか。ぐらぐらする頭を抱えながら、わたしは少し小走りになってゆきの姿を探す。

 彼女には隅田川に向かうと伝えてある。隅田川を目指して一人で行ってしまったのかもしれないが、江戸に詳しくないゆきが一人で隅田川を見つけられるかどうか。一か八かだったけど、わたしは隅田川へと向かった。もうすぐで川の一部が見えてくる。

 そんな中、路地の手前で言い合う男女を見つけた。男性が二人と女性が一人、よく見ると、女性の方はゆきだった。彼女は二人の男性に進路を阻まれていたのだ。

「あの人たち……」

 爽亭で見た、朝陽が少し柄が悪いと称していた男の人二人に似ている。年が明ける前の事なので記憶が定かではないが、一度そう思うと、店で見た二人にしか思えなくなっていた。だからというのではないが、妙な胸騒ぎがしてわたしは歩く足を速める。

 男性の、尖った声が耳に入る。

「とぼけてんじゃねぇよ」

 ほとんど喧嘩を売るような声音だ、わたしは身をすくめてしまいそうになる。男性同士の喧嘩ならまだしも、彼らの標的は女の子だ。助けてあげなければならない。何よりゆきは、一時的にでもわたしが面倒を見ると決めた子だ。

「どこ見て歩いてんだよっつってんだよ。人にぶつかっといて詫びの一つもねえのかよ」

 わたしはゆきと男たちの間に割り込んだ。

「うちの従業員が、何か問題でも?」

 女の子は、守ってあげなきゃ。わたしの顔の間近で、男の一人がひどく顔を歪める。緊張でわたしの心臓は早鐘を打った。

「ああ? なんだお前。関係ねえ野郎は口出しすんな」

 怒気を含んだ人の目はどうしてこうも他者を怯ませるのか。まるでわたしが親の敵だと思っているかのような目つきに、視線を逸らしたくなるがぐっと堪えた。

「この子はうちの店の者なので、問題があればわたしが聞きます」

 仮にそういう事にしてゆきを庇う理由を明言する。わたしはこの場に無関係な人間ではないと。余計な横槍を入れられたせいだろう、男たちは盛大に顔を顰めた。一人が舌打ちをする。

「どこの店のもんだか知らねえがよ、従業員の教育もまともに出来ねえのかお前は」

「このすっとぼけたお嬢ちゃんは人に地面の泥をかけた後、ぶつかってきやがったのに謝りもしねえ」

 言われて彼らの着物を見てみるが、言うほど目立った汚れはない。ただ、世間知らずなゆきの様子から、人にぶつかっても謝らない、というのは頷ける。どうしたらいいんだろう。

 考えがまったくまとまらない。それどころかまともな考え一つ浮かばない。頭の中はほとんど真っ白、相手の顔を見ているだけで精一杯、わたしは何を考えているのか、なんて事を頭の中でぐるぐるさせている。

「あの、ですね。ええと、泥やぶつかった事は申し訳ありませんでした」

 ひとまず謝るべきかと思ってわたしは軽く頭を下げる。次の手が思いつかなくとも少しは場の空気が和らぐかと思いきや、相手の方はそれだけで引き下がってはくれなかった。

「謝りゃいいってもんじゃねえよ」

 最初は謝罪を要求していたように思えるのだけど、どうしてそれが実行されても反論するのか。

 何がなんだか。わたしの頭は働かない。

 だって謝る以外に何も思いつかないんだから、どうしたらいいの。

「それでは、どうしたら」

 思った事をそのまま口にしてしまう。わたしのはっきりしない態度もよくなかったのか、男たちの苛立ちは増したようだ。

「そこのガキは謝ってねえだろうが、どけよお前は」

「っ!」

 肩が壁にぶつかって、やっと男の一人に突き飛ばされたのだと分かった。

 世界がやけにゆっくり動いて見える。視界の端に一瞬、目を丸くしたゆきが見えた。

 ぶつけた肩よりも、頭が熱を持ったみたいに重くてくらくらした。目眩に似たものが、わたしの目をくらませる。風邪っぽいから、気だるくて何もかも上手くいかない。わずかに吐き気に近いものが込み上げてきたのもあって、体が動かせない。わたしの肩が壁をずり落ちていく。

「なんだよ兄ちゃん、威勢がいいのは口だけか?」

 そんな声が聞こえたが遠く、わたしは目を開けていられなかった。

 ゆきは、どうしているんだろう。

 頭が、重い。

 目を開けるけど五感が鈍って揺らめく世界はわたしに思考をさせなくする。

 ああ、どうしよう。

 今日は厄日かもしれない。

 ふう、とため息ような吐息が聞こえた気がする。

「……見てられませんね」

 その時、見た事のあるような躑躅色(つつじいろ)が視界に入ってきた――。

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