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優しい月と、江戸のまち  作者: 伊那
三幕.月に叢雲
30/52

 その冬、江戸城は正式に羅刹(らせつ)との和睦が結ばれた事を発表した。町人たちはやはり戸惑ったけれど、まるっきり突然あらわれた話でもない。羅刹がすぐ近くに住んでいる訳でもない。好き勝手な事を言う者もいたが、長い間巷を騒がせる事も、なかった。

 瓦版では何日も羅刹との和平の話題が続いたし、爽亭(さやかてい)に来る人もその話ばかりをしていた。江戸の将軍が羅刹の長に会いに行ったとか、あるいは羅刹の使者が江戸城に来たとか、果ては随分と昔から羅刹の間者が江戸には潜んでいるなんていう噂まで流れた。また、和平に反対する者もいて、今回の事にいい顔をしない者もいるだろうという人もいた。そのどれかは真実なのかもしれないが、他にも到底信じられないような噂がいくつかあった。だからわたしは話半分で噂話を聞いていた。

 江戸城下はずっとその事にかかりきりではなかった。羅刹が民の目に見えるような方式で江戸城を訪問した訳でもなく、目に見えない情勢を語られても、人々は長い間関心を保つ事が出来なかった。

 すっかり忘れた訳ではなく、町人はまた自分たちの日常に戻り、他の興味深いものへと意識を移していった。

 そんな中でもひとつ、和平の話が出て変わった事が少しあった。江戸城直轄の役人たちが、急に城下を歩きまわり、何かを見張るように大きな顔をするようになった。その事が町を守る自警団、狼士組(ろうしぐみ)との小さな衝突を生み、余計に役人たちが幅を利かせるようになった。そのせいで、町人たちもどこか落ち着かない――。

 役人たちは夜間の外出を控えるようにいい、何か目立つ事をした者を見つけるとすぐに取り囲んだ。まるで、町人たちが罪を犯すのを待ち構えているかのように、目を光らせている。

 余計な事を言ったりせずに彼らをやり過ごせば、平穏に暮していける。普通が一番だと謙虚に生きる人からすれば、ほとんど無害だ。

 だから、目下のところ町人にしてみれば、羅刹との和平が結ばれた事に対する驚きよりも、役人たちの動向が気がかりなのだ。

 わたしもこれまではあまり気にはしなかったが、その日、武家屋敷へ向かおうとしているところで道行く役人二人にじろりと睨まれた。

 武家屋敷の建ち並ぶ場所に行くには、わたしがぱっとしない身なりだったからか。場違いな場所にいる人間、というものも彼らの注意を引いてしまうらしい。とはいえ素知らぬ顔をして歩き続ければ、声をかけられるような事はなかった。

 内心でほっとしながら、わたしは先を急いだ。まだ真冬ではないが、外気は冷たく、早く室内に入りたかった。それに、出前の食事を早いうちにお客へ届けたかった。爽亭の冬は、出前もする。地理的な理由で、武家にはただ一軒だけ出前を許している。それは友人でもある姉弟が住まう、浅葱邸(あさぎてい)だ。

 この日は釜揚げしらす丼をひとつ携えて、久方ぶりの浅葱邸にやって来た。爽亭によく来るお客であり友人でもある立待(たちまち)ちゃんの注文があったのだ。わたしは浅葱邸の中にすべりこむと、ほっと一息ついて立待ちゃんに先ほど見かけた役人の話をした。

「政策が変わったのですから、何か反発が起きないかと心配なのではないでしょうか」

 そう言われればそうだろう。もう少しその話もしたかったが、考えてみれば立待ちゃんは武家の娘だ。遠からず御公儀(ごこうぎ)に仕える身分にあるはずだ。あまり立ち入った話はしない方がいいかもしれない。わたしはすぐに話題を転換した。

 秋のお出かけ以来、立待ちゃんも居待(いまち)くんも爽亭に訪れる事がなかった。でもこうして出前の時期になると今度はわたしが訪問出来る。はじめたばかりの頃はあまり歓迎できなかったが、出前もけっこう悪くない。

 久しぶりに会うせいか、立待ちゃんとの会話は弾んだ。ちなみに居待くんは出かけていてまだ戻っていないそうだ。今日は会えそうにない。その事は少しわたしの気持ちを沈ませたが、会ったら会ったで落ち付かない気持ちになる気がする。それに、女の子同士で立待ちゃんと話しているうちに忘れてしまった。

 玄関口で話しこむわたしたちの前に、浅葱邸の小間使いらしき女性が現れた。その女性は立待ちゃんに何かを耳うちする。はっと顔を上げた立待ちゃんは、「もうそんな時間……?」とつぶやいた。

 言われてわたしも外の様子を見る。空は暮れて夜の色をしていた。こんなに帰りが遅くなる予定はなかったから、手元の明かりを持ってきていない。

「ごめんなさい、長く引きとめてしまって……」

「気にしないで。わたしも楽しかったから。本当に、立待と話せてよかったよ」

 一度、立待ちゃんは小間使いに何かを言いつけるとわたしと一緒に玄関の外に出た。辺りが暗いのを見て立待ちゃんは眉根を寄せる。

「外、真っ暗ですけど……大丈夫ですか? うちの者に送らせ……いえ、自分が爽亭まで送りますよ」

 突然の提案に、わたしは驚いてしまう。

「ええっ、いいよいいよ。気を使わないで。そんなの悪いし、帰り立待が一人になっちゃう。そっちの方がわたしは心配になる」

「……でも、」

 尚も言い募ろうとする立待ちゃんの元に、さっきの女性が再び現れる。既に火の入った提灯を携えて。

「せめてこちらは受け取ってくれますね?」

 立待ちゃんは少し拗ねたように言って明かりを差し出した。それは出前の料理しか持ってこなかったわたしのために用意してくれた提灯だった。

「助かる。ありがとう」

 笑って言うと、つられたみたいに立待ちゃんも少し口角を上げた。差し出された提灯をありがたく借りると、わたしは立待ちゃんに別れを告げた。

「気をつけてください」

 いつになく、心配症の立待ちゃん。最近の、江戸の町を包む空気の変容に彼女も警戒しているのかもしれない。でもわたしは何の身分もとりえもない一庶民だ。変な事に首を突っ込まない限り、大丈夫だろう。

「ありがと。今度は、爽亭(うち)にも来てね」

 彼女を安心させるため、少し“イケメンスマイル”を意識して作り、手を振った。立待ちゃんはしばらく、わたしが歩くのを見守っているみたいだったが、距離が広がると暗くてそれも分からなくなった。

 薄い雲をたなびかせる夜空には星もなく、月も出ていない。あるいは新月だったか。暗がりにいるとはいえ手元の提灯があるし、建物からこぼれる光がまったくない訳ではない。ただ今は武家屋敷の建ち並ぶ場所にいるから、それも少ない。ただでさえ敷地が広いところが多いのだ、道に面した場所が庭だったりすると、明かりはない。あるいは家人のいない部屋が多く明かりがともされていない。繁華街の方がもっと明るいだろう。寒いのもあって、わたしは早く武家屋敷を抜けようと足を速めた。

 少し行くと、見た事のあるような男たちの姿が見える。あっちも提灯を持っていて自分たちをほのかに照らしている。見た事があると感じたが、同一人物かは分からない。ただ、役人特有の空気が同じだった。来る時に見た役人たちだろうか。またあの人を検分する目つきで見られ、わたしは気まずい思いにかられる。

 こんな時間まで歩きまわって、と咎められるのだろうか。昼間の時から目をつけられていたのだろうか。なんだか、居心地が悪い。

 まだ少し、距離がある。わたしは右手側に見えた道に、顔を向けた。こっちの道は行った事がないけれど、一本道を外れたぐらいじゃ迷子にはならないはず。方角的には近道になるはずだし、何よりあの役人たちがいない。

 厳正な処罰を受けた、という話までは聞かない。それでもお客さんの中には知り合いが小さな事で役人に連れて行かれたという話をしていたから――わたしはつい、心当たりもないのにその道を選択してしまった。

 まさか迷子になるとは思わずに。


「……やばい。完全に道が分からない……」

 人っ子一人通らない見知らぬ道に来てしまった。心なしか、家々からもれ出る明かりも少ないような、薄暗い道に。

 武家屋敷にしろ庶民の家にしろ、他と比べて目立つところの少ない建物ばかりが並ぶ道を行くと、こんな事になる。店の多い場所なら、さっき通った場所が蕎麦屋の通り、などと覚えられるものを。目印ひとつないものだから、迷子の自分に気づいて道を引き返しても、自分が通って来た道さえ分からない。時刻が夜というのもよくなかった。目印があったとしても気づきにくい。それに道を訊ねようにも誰も夜道を歩いていない。役人がうるさく言うから、暗くなると外出を控える人が増えたようだ。

「どうしよう。そろそろ、どこかのお宅の戸を叩いた方がいいかな……」

 それはそれで恥ずかしい。とても恥ずかしい。いい年をしてここはどこですかと聞くなんて。

 でも季節は冬で、時刻は夜だ。薄着で来たつもりはないが、羽織と襟巻き(マフラー)ぐらいじゃそろそろ寒さをごまかせなくなっている。元々手足の冷えやすい体質で、足の指なんか一本か二本、感覚がなくなりつつある。

 月や星はなく、自分が今西へ歩いているのか、あるいは東へ歩いているのかも分からない。そろそろ自分のちっぽけな自尊心(プライド)なんてまったく意味のないものに変わろうとしている。

 見知らぬ人の住まいを訪ねるのも勇気が要る事だが、早くしないと風邪をひきそうだ。次に見えた戸口を叩こうと決め、わたしは道を右に進んだ。

 その時、道の先で人の声がした。まだ遠くて内容までは分からないが、男の人の声がする。誰かと話しているようだ。

 道行く人を捕まえるのと、民家の中に入っていくのとでは、難易度が段違い――。わたしは早速、声の主を探して歩を速める。

 声が聞こえた方向へと歩いても明るくならなかったのが不思議だった。てっきり相手も提灯か何かを持っているかと思ったのだが。だが何かの物音もする。誰かがいるのは明白だ。

 よかった、これで道を聞ける。そう思って、もうひとつ角を曲がる。

 わたしの提灯に照らされ何かが光を弾く。見えた背中に、わたしは声をかけた。

「あの、すみませんが――」

 振り返った男の目はぎょろりとして血走り、あやまたずわたしを見た。

 下方を照らすわたしの提灯は、地面に流れる液体の、濁った色をあらわにする。

 その液体の源泉に、うつ伏せに倒れる男。

 橙色のほの明るい光ですぐには分からなかったが、液体は赤い色だった。

 暗闇でも光を反射するそれは、男の手に握られた一振りの刀。

 刃から、ひとつ、雫が落ちる。

 赤い色の、しずくが。

「……っひ……!」

 喉が引きつって、悲鳴も出なかった。

 わたしの手から提灯がするりと落ちる。

 何、これは。

 どういうことなの。

 ヒトが、死んで 死んでいる。

 足が勝手に後退をはじめる。まるでそれに反応したかのように、暗闇の中からもう一人男が姿を見せる。彼もまた、右手に刀を手にしている。

 手前にいた男が、口を開く。

「――見られたからには、生かしちゃおけねえな」

 しゃがれたような、低い声だった。

 自分の左にあった右腕を、男は刀ごと右側に持ってくる。

 ぱた、とわたしの頬に何かの液体が飛んでくる。

 その男の瞳孔は開き、狂喜の色を宿していた。

 手にした刀と同じように、爛々と輝いて――

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