三
声が大きい二人とのやり取りがなければ、わたしはあの少女の事を苦手なタイプだと思い込んだままだっただろう。
どうして、人は見た目に勝手な印象を受けてしまうのだろう。自分自身、見た目で誤解される事があるくせに、どうしてわたしもそれを他者に向けてしまうのだろう。
本当は他人を外見だけで判断したくはない。それなのにそうしてしまう。そんな矛盾を抱えたままで、わたしは自分への偏見も変える努力をしようとはしない――。
声の大きさについてやり取りをした三人の女の子たちが、いい思い出のない場として爽亭を認識し、店に寄り付かなくなるのでは。そういった可能性に、わたしは翌日まで気づけなかった。
しかし躑躅色の着物の女の子は、十日ほどたった頃店に姿を現した。注意された二人組こそ居心地が悪かったろうし、注意した方が遠慮するというのも変な話なのかもしれない。
一度認識すると、その相手は視界に入りやすくなるようで、以来わたしは何度かあの少女を目にする事になる。父さんにそれとなく聞いてみたところ、二人組との一件がある前から、時折足を運んでくれていた常連客のようだった。今までのわたしが気づかないほどだから、二三日に一度はやって来る常連の長さん並みの頻度で通っていた訳ではなさそうだ。
彼女を認識してから三回目くらいの時には、お会計の際につい「いつもありがとうございます」と声をかけていた。三つ編みの女の子は、少しきょとんとした顔になったけれど、目礼で応じてくれた。
この頃のわたしはまだ、あの子の名前も知らなくて、ただお客さんが減ったのでなくてよかったなあなんて思っていたのだった。
生成り色をした雲に覆われた空模様のある日、爽亭は閑古鳥が鳴いていた。ここのところ、朝方の冷えが厳しくなってきて、お昼前にやって来るお客さんの数が減っていた。あまりに忙しすぎても困るけど、こうも人気がないとそれはそれで問題だ。寒いと出歩く気にはなれないのは分かるし、冬になるとそういう傾向が見えてくるのも毎年の事だけれど。
こういったお客のいない時間、わたしは貸本屋で借りた読本をなんとなく眺める時がある。
本を読むのが好きなのかと問われると、さほどでもない。江戸でよく読まれている本の中にはわたしの好みに合わないものもたくさんあって、自分の好みのお話を探すのが面倒になってしまう。だからたまに手に取るだけで、最後まで読まずに返してしまう事も多々ある。
この日読んでいた本もそうだった。もう少し先に進めば話は面白くなるのかもしれないけれど、今ひとつ引き込まれない。そんな風に思っていたからだろうか、なんとなく眠くなってきた。
そんな眠気を打ち消すような、物音が一つ、店の外から聞こえた。店先に置いてある腰掛けに誰かが座ったような気配がする。お客さんが来たのかもしれない、そう思ってわたしは読本を置いて立ち上がると、店の戸を開けて外を見回した。そこには腰掛けに座る小柄な少年の姿があった。
「あれ。翔くん」
彼がここにいるという事は、二つの理由が考えられる。翔くんも爽亭に何度も足を運んでくれる常連客だ。食事をしに来たのかもしれないし、あるいは彼の仕事を果たしに来たのかもしれない。翔くんの仕事は飛脚――書簡や物資を足で運ぶ仕事をしている。
「うぃっす、ゆづきー。手紙だぞー」
わたしに気づいた翔くんはにかっと笑うと手を挙げた。翔くんがこうしてわたしのところに手紙を届けに来たのは一度や二度の事ではない。爽亭には仕事の休憩がてら寄って行く事も多い。早速翔くんは手紙を二つ取り出すとわたしに差し出した。
「母さんからかな。ありがとう、翔くん」
その小柄な身体からは思いもよらないほどの健脚を見せる翔くんは、今日も遠方の地からわたしのところへと手紙を運んできてくれた。それはすごい事なのだと思うと、感謝の気持ちが顔にあふれた。それなのに、翔くんは苦笑いのようなものを浮かべる。
「おいおいゆづきー、オレにまでイケメンスマイルしなくていいんだぞ?」
「……え。してた、かな」
この翔くんには、女の子たちの前でちょっとかっこつけちゃうって話をしたことがある。日頃から飛脚としてあちこちを走り回っている翔くんはわたしの知り合い――特に女の子――とは関わりがあまりないし、そういう人になら少し話をしてもいいかなと思ったのだ。そうすると、意外にも翔くんはわたしの笑顔の違いに気づいていたようで、そんな気がした、みたいなことを言っていた。
「イケメンスマイルは女落とす用だろー? オレはこれでも男だかんな。あ、でもよく考えたら普通はゆづきも異性を落とした方がいいのか。一応女だし。となるとオレは男だから間違ってないのか? ん? あれ、よくわかんなくなってきた」
「“一応女”って……」
話をややこしくしてるのは翔くんだけな気がするけど。
「ま、お互い見た目には苦労するよな」
翔くんがぽんとわたしの肩を叩く。小さな子供みたいな翔くんが世の中悟りきった表情をすると、なんだか微笑ましくなる。
初めて翔くんに会った時、わたしたちはお互いに相手の事を誤解していた。翔くんはわたしの事を男だと思っていたし、わたしは翔くんを十二三歳ぐらいの年下だと思ってた。実際にわたしは女だったし、翔くんはわたしより二つも年上だった。
翔くんもわたしと同じく見た目で誤解されることが多い。小柄で、わたしと頭一つ半くらいの差がある。わたしが女の子の平均を上回る身長をしているからっていうのもあるけど、翔くんの方も年齢のわりには男の子の平均身長よりは下だ。たまに翔くんと町で偶然会って話をしていると、仲のいい兄弟だねなんて言われたりする。もちろんわたしが兄で翔くんが弟だ。
年は上でも、翔くんは性格もちょっと子供みたいなところがある。いい意味で。変に世間ずれしてないというか、飛脚という大変な仕事をしているはずなのに、日々に疲れた大人みたいな顔しないっていうか。それにいつも朗らかさを忘れない。
「その分中身でかっこよくなってやろうじゃないか。中身で勝負ってやつだ。なあゆづき?」
妙にもったいぶった言い方で流し目をする翔くん。ちょっとした劣等感に対して本音を一つまみ入れて茶化すのが、彼なりの鼓舞なのかもしれない。
人は見た目より中身が肝心という話でも、わたしは必要以上にかっこよくなりたいとは思えない。
おおらかでお気楽な翔くんはわたしの苦笑には気づいていないようだった。あまつさえ、爽亭の常連客の登場で今の話題はすっかり消えてしまう事になる。四郎さんという、こちらも長さんと同じくらいの年の常連さんが店にやって来たのだ。
「おう、優月ちゃんに翔じゃねえか」
四郎さんも長さん並みに顔を見せる回数が多く、他の常連客とも顔見知りだ。四郎さんは少し下がり気味の目尻を更に下げて、からかうような瞳を翔くんに向ける。
「お前は相変わらず成長期来ねえなぁ」
「四郎さんよー、あんまり若者の繊細な心に突き刺さる言葉を言ってくれるなよー」
「翔は優月ちゃんと身長足して二で割ったら丁度いいのにな。可愛い女の子に上目づかいで見上げてもらえるのは、背の高い男の特権だぞ?」
「何の話だよー……」
奇妙な漫才を始めた二人はさて置き、わたしは受け取った手紙の方に視線を落とす。手紙は想定した通り、母さんからだった。ちなみに一つはわたし宛、もう一つが父さん宛だ。母さんはいつも家族の代表者だけにではなく、家族一人一人に手紙を分けて書いている。
母さん――わたしの母の兎衣は肺を患い、故郷の水渡で療養中の身だ。水渡の方が江戸より気候が穏やかで、かかりつけの医師もいるからと母さんは二年前から家族と離れて暮らしている。
母さんは元々身体の弱い人だったから、わたしを生む時だって一騒動だったらしい。父さんは母体が危ないと言われてとてつもない葛藤に悩まされたそうだ。もうあんな思いはしたくないらしい。だからわたしには兄弟がいない。兄弟がいない事を時折寂しく思い、朝陽に姉がいる事をうらやんだりするけれど、すべて仕方のない事だ。今いる家族の健康が一番。
ゆっくりと手紙を広げ、わたしは文面に視線を走らせた。
『拝啓
日毎に寒さが増し、陽が落ちるのがすっかり早くなりました。江戸ではもう、霜の降りる日もあるのではないでしょうか。
優月さんにおかれましては、いかがお過ごしでしょうか。呉剛さんのお店は変わらずお客様の憩いの場となっているでしょうか。
こちらは相変わらずです。私の身体の調子も、まずまずです。ただ矢張り、こちらでも冬は冷えるものですから、最近では部屋を出るのが億劫になっています。こんな時に、優月さんがお話相手になってくれたらと思いながら文を書き、あるいは優月さんからの文を読み直したりしています。
そういった理由だけではないですが、春を迎える頃には一度、優月さんも水渡に顔を見せてはくれませんか。以前から何度か告げている内容なので、またかとお思いになるかもしれませんが。最後に水渡にいらっしゃったのは、あなたがまだ十になったかならないかぐらいの頃だと記憶しています。あなたのお祖父様が会いたいとおっしゃっているのです。もちろんお祖母様も。
お祖母様は私の若い頃の着物を仕立て直して優月さんにも着せるのだと張り切っておりますよ。私も、優月さんがいろいろな着物を着るのを見てみたいと思っています。私がよく着ていた朱色の小袖なんて、似合うと思いますよ。
お二人のためにも、呉剛さんと顔を見せに来てくださいましね。
話したい事は積もるほどあれど、紙にも墨にも限りがあります。もちろん私の方では太い巻物を作るほど文字を連ねても構わないのですが、そちらはお店で忙しいでしょうから、お返事を書くのに長い時間をさいてはいられませんね。
いつでも構いませんので、またお返事をくださいね。
お店の常連客さんにもよろしくお伝えください。
風邪など引かれませぬように。
敬具
爽優月さま』
遠い地からの手紙は、書き手の話し方そのままで表され、わたしは母さんのしゃべり方が懐かしくなった。彼女は誰に対してでも丁寧な言葉を使うし、自分の子なら名前だけの呼び捨てでいいものを、わたし相手に優月さんだなんて呼ぶ。
水渡への誘い。幼い頃に足を運んだ場所、母の故郷だ。行きたいという思いはあれど少し遠いと感じてしまう。まして――母さんと会ったら、男の子みたいな服のわたしを残念がるんだろう。そう思うと、母さんに会いたい気持ちが少し揺らいでしまう。
わたしは言うほど身長が高い事を気にしていないし、男と間違えられるのも嫌というほどではない。ただこういう時に、自分がもっと、母の小袖の似合う子だったらと思うとため息が出る。
――その分中身でかっこよくなってやろうじゃないか
そんな風にものを捉えられる翔くんは随分と懐の大きい人に思える。今でも充分、潔くって素敵だ。
それに比べて、わたしときたら。
いつまでもはっきりとしない幾つかの事を複雑に考えて、曖昧なままにする。
うじうじと、意味のない思考を重ね答えらしい答えも出せない。
翔くんの言う中身で勝負なんて、とても出来そうにない。
わたしは、見た目だけでなく内面をも変えることができるのだろうか。