十五 凍雲の日に(2)
外では枯れ葉の舞い散る中、風が吹けば店内にも冷えた空気が届く。わたしは戸を閉めようとそちらを向いたが、剃髪の男性が先に閉めてくれた。
女性の方はレンさんといい、男性の方は権左さんというそうだ。わたしは二人を席に案内した。
「この辺りに評判の看板息子がいる店があると聞いてな」
それがどの店かまでは知らないが、とレンさんは続けた。この人のような良家のところまで、爽亭の噂が行っているとは思えない。余所の店だろうと思いつつ、いい機会なので言ってみる事にする。
「わたしは男ではないので、うちではないかもしれませんね」
一部の人には公認の事実。しかし知らない人から見れば男のような格好をしたわたしの見た目は“看板息子”そのもの。だから、レンさんの聞いた噂が爽亭でないとは言い切れないんだけど。
「……そうか、何となく違和感があったのだが、娘御か」
予想していたかのようなレンさんとは対照的に、権左さんは大きく目を見開いていた。意外とこのレンさんは目敏いのかもしれない。まあ、隠してもいないんだし、見る人から見れば分かるだろう。
「どちらにせよ、私はこの店の佇まいが気に入って戸を開けたのだ。噂の店であろうとなかろうと、どんな料理が出てくるか、楽しみだ」
わたしは店の献立をいくつか説明したが、鍋料理を出しているというとレンさんはそれにすると即決した。
当たり前だが冬になると冷たいものよりもあたたかいものが食べたくなる。その最たるものがあつあつの鍋料理だろう。材料さえ揃えばあとは煮込むだけで楽だと、今年になってから父さんが採用した。この日は鮟鱇が手に入ったので鍋用にとっておいたそうで、鮟鱇の鍋をレンさんに提供する事になった。
湯気を立てる小鍋から取り皿に具を取って、レンさんと権左さんは熱を冷まそうと息を吹きかけながら食べていた。
「うん、うまい! 寒い日にはあったかい料理が身にしみるな」
顔を上げて言ったレンさんの眼鏡は鍋の湯気で少し曇っていた。味噌で仕立てた味付けはわたしも味見させてもらった事がある。けっこうこってりしているが、それがまた美味しい。
「お口にあったようでよかったです」
日によって手に入る食材が異なるために鍋の具材は変わる。わたしは特に、淡泊な味わいの鱈の鍋も好きで、鱈鍋は醤油の味付けになる。そんな話をすれば、レンさんはそれも食べてみたいものだと言って、鍋料理をいたく気に入ってくれたようだった。
「……料理を作っている方にお話を聞きたいのですが」
食べ終わった後、生真面目な顔をして言い出したのは権左さんだ。いつの間にか手には筆記帳のようなものと筆がある。よく分からないけど権左さんも鍋料理を自分の家で作ってみたいのだろうか。父さんに尋ねてみると、他にお客さんもいないせいか、少しなら構わないと返事をもらえた。それを権左さんに伝えれば、彼は父さんのいる調理場の見える場所までむかった。
常連の政さんも出て行き、権左さんは父さんと話をしているし、二人なったからかレンさんは切り出してくる。
「藪から棒だが、この辺りで何か面白いものがあれば聞かせてほしいな。最近の噂話でもいいのだが」
食後の四方山話、という事だろう。レンさんは知らない場所の事が気になるらしい。
「面白いもの、ですか……」
そういうのはわたしじゃなくて、朝陽の得意分野だ。最近、何があったろうか。紅葉した葉はみんな散ってしまった。初霜はまだだし、秋の名残りもなく、真冬らしさもないこの時期、自然の楽しみはすぐには思いつかない。酉の市も少し前に終わってしまった。
あえて取り上げるべき話題などあったろうか。流行りのお芝居? 錦絵? 読本? かといってわたしは流行の最先端を知っているほどではない。
わたしが一人考えこんでいると、レンさんは苦笑した。
「そんなに深く考えこむ必要はないぞ? この辺りの事には不慣れなので、何かの話を聞いてみたいと思っただけなのだからな」
「改めて聞かれると、すぐに思いつかないみたいです……。そういう事に詳しい友人もいるんですけど……」
最近のお客さんの話題から手掛かりを探す。まさか、羅刹との和平が本物らしくなっているという話を聞きにきたのではないだろうから、それは置いておこう。確か四郎さんが親族からもうすぐ新巻鮭を送られてくる季節だと喜んでいたとか……。うん、完全に尾形町の事とは関係ないな。飛脚の翔くんが、町から離れた場所でタンチョウが渡ってきているのを見たと言っていた。渡り鳥なら秋から冬にかけて見られるので、季節感があっていいのかもしれない。けれどそれは楽しい事に当てはまるんだろうか。タンチョウはその白色の体躯が美しく縁起がいいともされているけれど、ただの鳥。
渡り鳥といえば、雁もそうだ。あの小間物屋を思い出す。秋のやわらかい日差し、とおつひと、鳥の形の看板の板。
『昔の人は、遠い地からやって来る雁に対し、遠い故郷や遠く離れた場所にいる人を重ねたのでしょうね』
いにしえの歌に込められた思い。
あの時には少し遠かったそれが、今は少し分かるような気がした。
もしかして、わたし自身も、待っているのかもしれない――
「おっじゃましまーーす!」
たん、と勢いよく戸が開かれた。わたしを現実に引き戻したのはいつにも増して元気のいい、朝陽の声だった。黒く長い髪を翻して、颯爽とあらわれる。
「優月、ご飯食べに来たわよ!」
噂をすればなんとやら。朝陽の到来は、わたしにとってとても運が良かった。彼女に聞けば、レンさんの望みは叶う。そう思って顔色を明るくしたが、
「あ、接客中だった? ごめんなさい」
口元に手をあてて、朝陽は言った。
「いや、いいんだ。食事を終えて話を聞いていただけなのだから」
わたしと朝陽のやり取りを見て友人同士と察したのか、レンさんはむしろ一緒に話に加わってくれないかと言った。
「最近の町の話、ですか」
さっきまでわたしが頭を悩ませていた事について朝陽も問われる事になる。しばし思案していた朝陽だが、ひとつ思いついたようにぽんと両手を打った。
「そういえば、この辺りで新しく半襟屋さんが出来たんですけど、見てるだけでもけっこう楽しくて」
着物や帯などぱっと見てすぐ目につくもののお洒落も大事だが、面積は狭いが差し色となる半襟の存在も欠かせない。首元の少しの色の違いで意外にも印象は変わる。
「実は見るだけじゃなくてこの間は買っちゃったんですけどね。今日のがそれで」
言うと朝陽は今日の着物を指で示した。改めて朝陽の衣装を眺めると、確かにいつもと少し違った。
「よく見ると雪の輪だ。かわいいね」
白地に、薄い水色の雪の輪の紋が散りばめられている半襟。今の季節とも合っている。仕事着としては白いシャツを基本にしているわたしだけど、着物をまったく着ない訳ではない。その半襟屋さんにもちょっと行ってみたくなった。見ているだけで楽しいといえば、先日朝陽と二度目の訪問を果たしたとおつひとの事を思い出す。
「少し前に行った小間物屋さんも楽しかったよね。けっきょくわたし、手拭いしか買わなかったけど。すごくきれいでかわいい装身具を扱うお店があるんですよ」
後半はレンさんに向かって言ってみる。
「そういうものは、見ているだけでも楽しいものだな」
分かる、といった風にレンさんは頷いていた。
「雪といえば、雪国での暮らしぶりをつづった本が今話題になってて、これが意外と売れてるみたいなんですよね」
取材用の手帳をめくりながら、朝陽は話を広げていく。
「雪国の冬は本当に厳しいみたいで、でも雪の形を細部まで観察したスケッチがきれいだって女の人にもウケてるんですよね」
「江戸は雪がほとんど降らないからな。恵まれているといえば恵まれているのか……」
レンさんが眼鏡の奥で少し難しい顔つきになる。そう言われると、江戸の気候はまだ穏やかなのだろう。でも、とわたしは朝陽を見た。
「雪の形っていっても、そんなによく見れないんじゃない? すぐ溶けちゃうし、小さいし」
「でも雪国なら、雪はたくさん余ってるでしょ。研究にはもってこいよ」
「あ、そっか」
わたしが朝陽といつもの軽口を叩いていたら、くすりとレンさんが笑っていた。
「君たちは仲の良い友人なのだな」
いや、まあそうなんですけど。改めて言われるとなんとなく照れる。
それからわたしたちはこの前の秋の行楽の話をしたり、酉の市の話をしたり歳末に向けての支度の話をした。
「これはちょっと遠出した時の話ですけど、目黒不動に行った時に」
また朝陽が一つ、違う話題を持ち出した。彼女はあちこちに取材に向かっているため、話が尽きない。
「目黒飴っていう飴が売っていて、それが黒い飴かと思ったら白い飴だったんですよ」
「単に地名からつけた名前だっただけなのだな」
「そうみたいです。他にも餅花がきれいで目黒は楽しかったです。……でも、富くじの日にちょっとしたケンカがあったらしくって」
目黒不動は富くじでも有名な場所だ。富くじは江戸のあちこちで行われていて、富くじを目当てに江戸に来る者もいるほど。当たれば大金が手に入るのだから、かける情熱は大きいのだろう。
「富くじ関係でか?」
レンさんがきれいにひかれた眉をひそめる。その視線を受けて、朝陽もどこか考えこむ表情になる。
「ええ。くじに外れたから機嫌が悪かったらしい人が、ちょっといい賞に当たった人と言い合いになったって聞きました」
「そんなの、逆恨みじゃない?」
富くじなんて、最初から外れも折り込み済みの世界のはず。喧嘩にまで発展するようなものだろうか。富くじも賭けごともやらないわたしには分からない世界なのかもしれないが。
「……でも最近、そういう小さな諍いが多いみたい……」
わたしの疑問にも答えず、ひとり言のように朝陽はつぶやく。彼女はここではないどこかを見つめていた。
「みんな、何かの予感がしているのかしら……」
次の言葉は、わたしの耳には全部入ってはこなかった。
「え?」
聞き返したものの、朝陽は「なんでもない」と首を振るのみ。
まだ少しぼんやりする朝陽の手には、種々の事が書かれた手帳がある。彼女が応えてくれないからそれを見ようと思ったのではないが、わたしの視界に走り書きの文字がいくつか入ってきた。
『冬に入ってから役人の目が厳しくなった?
町人も少し落ち着かない?
小さな事件の数、他の年との比較が必要』
朝陽はわたしの視線に気づいたのか、単にそうしたかったのか、手帳を閉じた。
役人の事は分からない。ただわたしも、お客としてやってくる人の中に疲れたような顔が多いのに気づいていた。それは単に冬が来て、寒さにうんざりしているのかと思っていたけれど――もしかして。
役人の様子が変わったのなら、御公儀にも関わる事が起ろうとしているのか。それとも、もう起きているのか。
町でもっぱらの噂、羅刹との和平が近いという事とも関係があるのだろうか。それがあるから、朝陽はわざわざ目黒不動まで足を運んだ?
羅刹との関係性が変わろうとしている事に、江戸の人も戸惑っているのだろうか――?
いつしか、店内には声を上げる者はなかった。調理場に近い方で権左さんと父さんが話をしていたはずなのに、それもない。わたしは顔を上げたくて、しかしそれぞれ思案する朝陽とレンさんの沈黙に、何も出来ないでいた。
そのうちに、ふっと朝陽が顔を上げる。
「やだ、あたしまだご飯頼んでなかった! お腹すきすぎちゃったわ。優月、注文いい?」
殊更大きな声を出して、朝陽は慌てたように言った。それが努めて出した明るい声に思えたのは、わたしの気のせいだろうか。
それでもにわかにしんみりした空気を壊してくれたのはありがたく、わたしも明るい声を出そうと心がけた。
雪国の本は実際にある江戸時代の本『北越雪譜』というものをイメージしました。
北越雪譜では雪の結晶のスケッチは別の本『雪華図説』を引用してかいたらしいです。顕微鏡で結晶観察をしたそうです。




