十 雁が来鳴かむ(1)
わたしの左には相手の腕、目前には親の仇を見つけたみたいな美少女の顔、背後には動かぬ壁。
目の前の人の怒気がわたしの顔を引きつらせる。心当たりがなくとも謝りたくなるくらいにその眼光は鋭い。心当たりがないわけではない今、わたしの分は悪い。完全に退路は絶たれ、逃げるには眼前の人を押しのけなければならないが、そんな事出来る気がしない。もうこれ以上さがりようがないのにわたしの後頭部は往生際悪く壁にのめり込もうとする。
今回の教訓は怒った人と壁の間に立つような事はしてはいけない、というものだろう。それとも常に逃げ道は確保しておくべき、というものだろうか。動揺のあまりわたしは意味の分からない事を思う。
誰だって人の怒りの前にさらされれば、落ち着いてはいられないはずだ。いつもより顔と顔との距離が近いなんていう事にも気づかずに、ただわたしはどうしてこうなったのかを考えていた――。
時は一刻ほど前にさかのぼる。
お彼岸も過ぎ、少しずつ気温が下がってきた秋の頃。それでも日が当たればあたたかく、晴れが続けば江戸の人は行楽に出かける。その日もあたたかな日差しが降り注ぐ、雲ひとつない透き通った紺碧の空。大勢の人々が外に出て活発に移動していた。街道沿いのその店の前で、わたしは空を見上げていた。
わたしも御多分にもれず外出していた。とはいえまだ目的地には着いていない。人と待ち合わせて、これからそこへ出かけるつもりだ。参加するのは、夏の肝試しぶりに集まる四人。そのうちの一人がすでにわたしの隣にいて、あとの二人を待っている。
そう、居待くんとこうして二人になるのは夏ぶりだ。結局、あの頃抱えていたもやもやは幽霊騒ぎに驚き過ぎてどこかへ行ってしまった。時間の経過もあって気まずさはなくなったが、あまり会話が続かない。だってわたしの手持ちの話題といえば自分の店に関する事ばかりで何の新鮮味もない。少々珍しい出来事は、先日父さんと行った水渡の事ぐらい。でも別に水渡で何をしたっていう訳でもなく、ただ母さんの実家で母さんに会って水渡料理を食べてゆっくり過ごしただけだ。水渡名物の話なんてたいして面白くもないだろうし、居待くんはわたしの休日の過ごし方なんて興味がないだろう。もっと、誰にでも分かるような楽しい話題が提供できたらよかったのに。残念な自分にがっかりするしかない。
けれどそのうちに、愉快な話の種を探すより、待ち合わせている相手を探すべきなんじゃないかと思えてきた。
「……二人とも、来ないね」
言いながら、わたしはいつの間にかずり落ちていた淡い藤紫の肩掛けを肩にかけ直す。過ごしやすい陽気とはいえ曇れば肌寒い事もあるから持ってきたのだ。じっとしている今も肩掛けがあってちょうどいいくらいだ。
「本店に待ち合わせ、って言ったのに誤って西町の方に行っちゃったのかな」
今回のお出かけの発起人は肝試しの時同様、活動的少女朝陽だ。来る紅葉時節に向けて“秋の味覚と紅葉穴場めぐり”の記事を書く事にした朝陽は、下見を兼ねて第三者の助言を得るために友人を誘った。その友人というのがわたしと居待くんと立待ちゃんという訳だ。
今のところ集合場所に集まったのはわたしと居待くんの二人だけ。居待くんによると立待ちゃんは場合によっては少し遅れるかもしれないとの事だったけど、朝陽の方はどうだろうか。場所を間違えてはいないだろうかとわたしは気がかりになった。
「ちょっと西町の方に行ってみない?」
提案してみれば、居待くんは少し考えたようだったけど、「すれ違わないように、少しなら」と頷いた。
わたしたちは行き交う人々の間をすり抜け、有名な呉服屋の前を通り過ぎ、女性客で賑わう小間物屋を通過した。お出かけにはよい日和なだけあって、本当に人が多い。江戸の人だけでなく、江戸の外から来た人もいるだろう。他所からのお客さんは爽亭にもやって来て見慣れているから、なんとなく見た目で分かる。服装だけではなく旅人独特の雰囲気があるような気がするのだ。様々な格好の人々を見送っては、どれくらい遠くから来たのかな、なんてぼんやり思っていた。
「居待殿……?」
すれ違った男性が、ぽつりとわたしの同行者の名前をつぶやいたようだった。わたしは思わず顔を向ける。人通りは相変わらずなのでどの人が居待くんを呼んだのかすぐには分からなかったが、こちらを見ている人物がいたのに気がついた。
縁のある眼鏡をかけた穏やかな表情の男性が、わたしたちの前へとやって来る。旅装で腰には二本差し。どこか隙のない身のこなしは、彼がただ眼鏡の似合う学者ではないと言外に告げている。浅葱家は武家だ、その息子である居待くんが武人と知り合いでもおかしくはない。
「驚きました、江戸に来て早々に知った顔に会うとは。お久しぶりです、居待殿」
眼鏡の奥で男性が目元をやわらげる。けれど居待くんはすぐには応じなかった。少し間があって、居待くんはにっこりと微笑んだ。
「ええまさかほんとに、こんなところで会うとは思いも致しませんでしたわ、景雲殿。此度は一体どのようなご用事でわざわざ江戸へ?」
居待くんの声が妙に高く聞こえる。横目で見た感じでは、笑顔なんだけど――なんだろう、どことなく威圧感があるような気がしなくもなくもない。……たぶんわたしの気のせいだろう。
「もちろん、仕事ですよ」
ついわたしは景雲と呼ばれた男性を眺めてしまう。背はわたしより少し高く、帯刀していて泰然とした様からは大人である事は確かなのだけれど、よくよく見ると顔立ちは若い。二十代半ばくらいに見えるから青年といっても差し支えないほど。鳶色の髪は長く、頭の後ろの方でまとめてある。なんとなく、町の女の子に人気そうだなと思っていると、男性と目が合った。
「申し遅れました、中村景雲と申します。普段は賽ノ地で暮らしており、居待殿ともそこで知り合ったんです」
簡単に居待くんとのつながりを説明してくれる景雲さん。けれどわたしが気になったのは、出会いの場所の地名の方だった。
「賽ノ地……?」
「こちらの方にはあまり馴染みがありませんか。北倶盧洲と西牛貨洲のちょうど狭間にある……」
わたしの声が不思議そうに聞こえたのだろう、景雲さんは言葉を加えるが、名前ならわたしだって知っている。
「いえ、存じておりますが……なんというか、大変そうな噂も時折聞こえてきますので……」
賽ノ地は狭間の地だという事で江戸でも名が知れている。ヒトと、羅刹の住まいの間にある土地。それゆえかは分からないし真実かは知らないが、妖怪の類も平然と町を歩いている土地だとか、盗みや刃傷沙汰なんて日常茶飯事、なんていう噂までもある。江戸より治安がよくないのは確かのようだけれども。
妖怪はともかく、羅刹とヒトとの関係性は仲が良いとはとてもいえないような、言わば敵対した間柄だ。そんな羅刹が間近に迫る地ではのんびり穏やかに暮らすとはいかないだろう。何しろ羅刹とヒトの争いはずっと前から続いており、二つの種族は幾度も戦火で大地を焼いているのだ。江戸では羅刹は見られないし争うような姿もあり得ないが、賽ノ地では町で人と羅刹が斬り合ったりする、なんて話を聞く。今の将軍様は長年続く羅刹との敵対関係をなんとかよいものにしようと和平交渉をしているようだが、なかなか上手くいっていないらしい。だから未だに羅刹とのにらみ合いは続いている。
どれもこのヒトだらけの江戸にいては、対岸の火事のように遠いものに感じられてしまう。そこで住む人はどんな暮らしを、なんて想像しか出来ないが――目前にその人がいる。
「……賽ノ地は、変わりつつありますよ。少しずつではありますが、この江戸のように平和に暮らせる町を目指して――日々励んでいる方がおりますから」
景雲さんの口調は穏やかだったが、その瞳は遠くを見ていた。自分が口にした人を脳裏に描いているのだろうか。その人はきっと景雲さんの知り合いなのだろう。なんとなくだけどそう思った。
「そうなんですか……。わたしはあまり江戸の外を知らないもので……」
わたしはあまりにも他所の土地を知らないのだと思わされた。賽ノ地という場所の事も、もう少し知りたくなってきた。
「……そういえば、立待殿は息災ですか」
しばし会話が途切れた後で、景雲さんが居待くんをむいて問いかけた。そっか、居待くんと知り合いならその姉である立待ちゃんとも知り合いでもおかしくはない。二人は共に賽ノ地に出かけた事があるのだろう。
「ちょうどこれから、立待と出かける予定なんですよ。よかったら会っていってはいかがですか」
さっきから居待くんが何も言わないので、わたしの方から提案してみる。どうせもうすぐしたら立待ちゃんはやって来るのだし、それを言わない手はない。
「でも景雲殿もお忙しいでしょうし――」
話しだした居待くんの声を遮ったのは、話題の人だった。
「景雲殿?!」
振り向いたわたしたちが何かを言う前に、立待ちゃんは驚いた声を上げて駆けて来る。わたしの傍らから舌を打ったような音が聞こえた気がした。
立待ちゃんは先に朝陽と合流していたようで、朝陽も後方にいる。出かける人数がこれで揃った。少しなら時間があるというので、話しているうちに景雲さんも江戸観光を兼ねてわたしたちに同行する事になった――。