九 朝顔と廃寺(5)
遊びに来てくれて、ありがとうね
意識がおぼろになる前に、あの青年の声が聞こえたような気がした。
夢の中の出来事だったかもしれないけれど、わたしに何か言っていた。
気がついたら自分の部屋に居た。わたしの記憶は途中から混濁していて本当に聞いたのかも分からない。けれど確かにあの青年は、喜んでいたように感じられたのだ。
でもあの酔っ払いにあんまり来ないでって言っといて。って声も聞こえたようだった。あの幽霊の青年はお寺に居着いてて、酔い覚ましにくる人に辟易しているのだろうか。
ぼんやりした頭で思うと、そこはもう朝の世界。
あふれる光に、目が半分しか開けられない。人々が活動する音に、犬の吠える声。ミンミン鳴く蝉の声も聞こえる。
短期間の内にいろいろな事があり過ぎて、かえって今ではそのどれもが現実感がわかない。寝起きの頭で考えるからだろうか、すべてが他人事のように思える。居待くんに対してどういう態度を取ったらいいのか分からなかった事も、今ではもう昔の事のように感じられる。
わたしは昨晩、一体どうやって家にたどり着いたのだろうか。帰路の記憶がほとんどない。一人で立っていられなかった自覚はあるから、誰かに支えてもらって歩いたのかもしれない。引きずられていたって分からなかっただろう。そのくらい、人間と思っていた相手が幽霊だった事が衝撃だったのだ。こうして明るい日差しの元、見慣れた自分の部屋にいると幻のように思えてくる。
幽霊だと思った相手が実は人間で、人間だと思った相手は幽霊で。何がなんだか混乱しそうだ。
「……それにしても」
また居待くんの前で格好悪いところを見せてしまった。しかも、一晩の間に二度も。敵前逃亡に人事不省。格好悪いったらない。いやもちろん他の人にだって見られたくないけれど、居待くんには特に。なんでだかよく分かんないけど。
少し強張った体を起こすと、ほんのわずか膝が痛んだ。盛大に転んだ時に打ち付けたからだろう。あの時青年に声をかけてもらわなかったら、わたしはずっと自分の情けなさに落ち込んでいたままだったかもしれない。そう思うと、彼がどんな存在であれ気遣ってもらえたのはよかったのかもしれない。幽霊だったっていうのは、今は考えない。
両手を伸ばして、体をほぐすとわたしは着替えて店へ下りた。呆れた父さんの顔といつもの日常があるんだろうなと思いながら。
あとになって朝陽に聞いたら、わたしはどうやら駕籠を呼んで運ばれたらしい。人間を運搬するのに一番ふさわしい体格の景次さんが、片想い相手がいるのに仮にも女を運べないと拒否したのが原因らしい。
わたしは関係者に謝ってまわった。というかほとんどがあっちの方からわたしが大丈夫だったか顔を見せてくれた。聞くと、胡桃ちゃんもあれだけ張り切っていたわりに途中から怖くなっていたから、優月くんが気にする事はないと励ましてくれた。単にわたしを気遣っての事かとも思えたが、最初はそうでもなかったのに雰囲気にのまれる事もあるのだと言われた。わたしの方も、最初から乗り気でなかったとはいえ、あの夜の雰囲気に圧倒されていた。
ちなみに朝陽の書いた瓦版は、わたしの出会った両方の幽霊についてを記事にしていた。匿名の少女が廃寺で会った本物の幽霊について、幽霊と見まごうばかりの怪しげな酔っ払いについても。普通の話よりもおかしみがあっていいとよく売れたと、朝陽は喜んでいた。
そして、いろいろあって薄れていたもやもやの元を断つ決心をした。居待くんの事を知らないから、素っ気なくされて不安になったのだ。それなら今どんな仕事をしているのか、聞いてみたらいいのではないか。
という訳で浅葱姉弟が爽亭に来てくれた時に実行に移す事にした。ちょうど立待ちゃんが席を立ったその時に、わたしは切り出してみる。
「そういえば、お仕事とか何してるのかな」
相も変わらず名前を呼べない。というか居待くんと呼んでいいのか居待ちゃんと呼ぶべきなのか――女装をしている事を特に隠している訳ではないようだけれど、なんとなくどちらも呼びづらい。いっそ居待さん、あるいは呼び捨てだろうかと思った事もあるけれどやっぱりしっくりこなかった。
居待くんは立ったままのわたしを横目で一瞥した。
「仕事“とか”って何ですの、それ以上の事をわたくしから聞き出そうとでも?」
「え、えーと」
「全部秘密、ですわ」
「……」
あっさり躱されてしまった。立待ちゃんなら知っているだろうけど、本人を差し置いて他の人に聞くのもなんだか悪い気がする。あんまり詮索されるの好きそうじゃないし。
でも、今はこうして普通に話せる。あの時の事はまだ少しわたしを落ち込ませるけれど、話しかければ応えてくれる。今はそれで、いいのかもしれない。
思いながらも気になって、わたしはつぶやく。
「無理には聞かないけど……いつか教えてくれる……?」
今は無理でも、もっと居待くんの事を知りたいと思う。
「イヤですわ」
とても素敵な笑顔で言われた。
何か事情があるのかもしれないけど――やっぱりわたしは嫌われているんだろうか。肩を落としていると、くすくすと笑う声が聞こえた。振り向くとどこか勝ち誇ったような鶯色の瞳と出会った。
からかわれているような気がしてきた。
「なんでっ」
「なんとなく」
なんだか納得がいかない。もしかして彼はわたしをからかうためだけに秘密だとか言い出しているのだろうか。思うと、わたしは唇をとがらせずにはいられなかった。
すぐには向かう事は出来なかったが、わたしはもう一度あの廃寺に行った。もちろん昼の明るい時間に、だ。ついでに言うと朝陽にも付き合ってもらった。はいはい、一人じゃ来れませんでしたとも。
夏の盛りは過ぎ、秋に近づいてはいたがまだまだ日差しも暑さもきつい。蝉も鳴くし外を歩けば汗をかく。蝉が静かになって、汗も出ない夜の時間とは大違い。山門を入ると以前と変わらず荒れ果てた様子だったが、あふれる光の下で見るとまた印象が違った。
「夜来る前にも一度下見に来たけど、やっぱり朝顔は見当たらないわね」
結局、噂にもなっていた朝顔は見つからなかった。朝陽も見ていないと言っていた。あの青年が本当に幽霊だったのだとしたら、彼が朝顔を育てていたのだろうか。わたしはそれを問いただすためにここに来たのではないけれど、気にはなっていた。
「……あの青年が、実は朝顔だったのかもね……」
急にすとんと落ちてきた考えは、けれど妙にしっくり来た。
「なに言ってんのあんた。熱でもあるの」
言うなり朝陽はわたしの額に手を伸ばしてきた。
思い出したのは、雪の日の事。人ではないものが人の姿になって思いを伝えようとする事があるのだとしたら――彼も。
「冗談だよ、冗談」
すべてはわたしの推測だ。でも、どっちだっていい気がした。あの青年は大勢の人が集まっているのを嬉しそうにしていたから。酔っ払いは別として。
彼の正体が何であれ、忘れられたお寺がふたたび人々の注目を集める事が、青年の微笑みを生んだのなら。それはそれでいいのかもしれない。
「何笑ってるのよ。まったく、もう行くわよ」
一人納得したわたしが理解出来ないのだろう、朝陽は一足先に歩き出した。特に用件もないしわたしも長居するつもりはなかった。一歩足を踏み出した後、もう一度振り返った。誰かがいるような気がしたのだ。でも、そこには誰もいない。
あの青年が笑ったような気がしたのは、やっぱり錯覚なのだろう。
今でも幽霊には出会いたくない。でも彼だけはきっと、そんなに怖がらずに接する事が出来るかもしれない。そんな風に思いながら、わたしは廃寺を後にした。
かつては人の大勢出入りしていた無人の寺に、夏の日差しを受けて花を咲かせる朝顔があった。
その朝顔の花はとてもきれいで――とても満足そうに微笑んでいた。




