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優しい月と、江戸のまち  作者: 伊那
二幕.めぐる季節
21/52

八 朝顔と廃寺(4)

 この廃寺には石を敷いた道があった。だが今はそんなものをたどる余裕はない。だから駆けるうちにわたしは正規の道を外れていた。正しい道なんてどうだってよかった。今はあれから逃げる事しか考えられない!

 結われていない髪が顔に少しかかっていた。表情までよく見えなかったけれど、苦しそうな声をあげていた。手をこちらに伸ばして何かを訴えていた。死してなおあの世に行けぬほど、その身に負った恨みが大きいのか。憎む相手を見つけたと錯覚して、手を伸ばしたのか。

「あっ」

 つまずいたのはその時だ。わたしは人が歩くべきではない道を歩いていた。それも、手入れのされていない敷地の中を。隣には石段でもあっただろう傾斜を、滑り落ちてしまったらしい。さほどのものではないが勢いあまって口に少し土があたる。頬のあたりに小枝らしきものがあたって地味に痛い。

「うう……」

 転んでも提灯をつぶさずに済んだのはせめてもの幸いだろう。急に走りを止めたため息が整わなくてつらいし、整地されていない場所で転んだ体も重い。

 軽い痛みが体に行き渡るのと同時に、転んだ拍子に冷静さが戻ってきたのを感じる。ある事に気づいたからでもある。

 ――居待くんを、置いてきてしまった。

 こうしてしばらくじっとしていても自分の後を追ってくる人の気配は感じない。幽霊が追ってくる様子もない。相変わらず虫の声だけが聞こえる。

 何してるんだろう、わたし。

 居待くんは中身はそりゃあ男の子だけど、見た目はあんなに可憐なんだし、小柄だし。わたしより年下だし。平気そうにしていたけど、こんな場所に一人にするなんて、わたしは何て事をしてしまったんだろう。

 わたしって本当に情けないやつ。こんなだから、居待くんに嫌われてもおかしくない。

 思うと、目の前がぼやけてきた。

 わたし、全然変われてない。弱い自分のままでいるのは嫌だと思ったはずなのに。

 どうしてこう上手くいかないんだろう。

 女の子たちからいいところの若様(オウジサマ)みたいだと持ち上げられても、中身を開ければひどくちっぽけな自分がいる――。

「……ねえ」

「ひえっ?!」

 己の愚かさに打ちひしがれていると、思いもよらぬところから声がした。

「どうしたの、大丈夫?」

 けれどそれは先ほどの幽霊の声とは違ってはきはきとした青年の声だったので、わたしはさほど怯える事なく顔をあげる事が出来た。

 見れば、見た事のあるような青年がわたしを心配そうに見下ろしていた。さっき、胡桃ちゃんたちと一緒にいた青年のうちの一人、のように思える。わたしは目の端をぬぐって上半身を起こした。

「転んだの? どこか怪我はない?」

 青年はわたしに手を伸ばしかけたが、まるでそうする事が無礼だとでも思ったかのように、そっと手を引っ込めた。けれど相手を気遣うような表情は変わらない。いい人なんだろうなあ、なんて思った。

 わたしの方も、今日会ったばかりだから手を借りるのもなんだか気恥ずかしい。怪我なんてしてないし、一人で立ち上がるのにも問題はない。

「ありがとうございます、大丈夫です」

 立ってから改めて青年を見ると、彼はわたしより背が高かった。あんずちゃんのお兄さんの友人の中には背が高い人もいたなと思い出す。

「でも本当にどうして……何かあったの?」

 幽霊見ました。友人を置いて逃げました。なんて、言えるはずもなくわたしは口ごもる。

「えっと……」

 本堂に戻らなければならない。せめて誰かについて来てもらえば、わたしは来た道を引き返す事が出来る。

 居待くんを迎えに行かなくては。

 いくらなんでも居待くんだって、あのまま幽霊の前にいるはずはないだろう。とっくの昔に本堂から逃げていて、もうあの場所にはいないかもしれない。でも、わたしは居待くんを探さなければならない。

「あの、組の子とはぐれちゃったんです……よかったら、一緒に探してもらえませんか……?」

 同じ行事に参加中とはいえ、初対面の相手に頼むのはなんだか申し訳なかった。けれど、わたし一人ではあんなところには戻れない。

 相手の返事には答えずに言い出したわたしの申し出に、青年は少し怪訝そうになった。

 けれど、青年はひとつ頷くと「いいよ、どっちの方ではぐれたの?」と協力的な態度を示してくれた。


 あの幽霊の事を思えば、わたしは走ってでも居待くんを探すべきだったのだろう。けれど、わたしの足は正直だった。歩みはゆっくりというほどじゃなくても、速いともいえなかった。その上、暗がりを転ばないように進むには速度を落とす必要もあった。

 わたしはなんとか“居待くんはもうあの場にいない”、“だから危険な目には遭ってない”と自分に言い聞かせるしかなかった。それでも気持ちは偽れなくて、大仰な息を吐いてしまった。

「どうしたの、ため息なんてついて」

 会ったばかりの青年に気遣われてしまうほど、わたしは分かりやすい態度をとってしまった。でも、こんな暗闇で、幽霊を見たばかりで、友人を見捨ててきてしまって、わたしの精神は疲れていた。表面を取り繕うような余裕はなかった。

「自分が、だめなやつだなって思えて……」

 見知らぬ青年相手にわたしは何を言っているのだろう。でも、きっと今後もそう会う事のなさそうな人だから、言える事なのかもしれない。親しい相手にはかえって、言いづらい。

 何か失敗をするたびに、わたしは何てだめな人間なんだろうと悲しくなってしまう。余計な事をしなければよかったと、いっそ何もしなければよかったのにと――後悔してばかり。

「友達にも迷惑かけて、間抜けな事ばかりして」

 もうひとつ生まれた吐息を、かき消すように青年が言った。

「でもさ、問題だなと思ったらそれを改める事が大事なんじゃない?」

 とてもぐっさりと刺さる正論だった。

「自分が失敗続きで上手くいかないと、何のヘマもしてない他の人が人生ずっと順風満帆に見えるって時、あるよね。僕もそうだったから分かるような気がする」

 この人は、わたしが友人を置いてきてしまった事ぐらいしか知らない。けれどその他の事も、わたしが気にしてきたいろいろな失敗も、知っていてそれを許してくれるような気がした。それぐらいの寛容を思わせるやわらかな声だったのだ。

「そりゃあ、失敗するような事柄なら簡単には改善出来ないかもしれないけど、失敗に学ぼうとするのが、人間じゃない。ねえ?」

 次に幽霊と出会ったら今度はちゃんと友人を連れて逃げろ、と言いたいのではないだろう。

 わたしはいつだって失敗や上手くいかない事を想定して、もう一度取り組む事や確かめる事を恐れていた。

 隣を歩く青年は、反省も必要かもしれないが、実際に動く事こそ重要なのだと言いたいのだろう。

「大丈夫だよ、これから気をつければいいよ」

 言われて顔を向けると、彼は少し笑ったようだった。

 そうこうする内に、わたしたちは居待くんとはぐれた本堂へとたどり着いていた。

 そこには誰の姿もなかった。

 居待くんの姿も、白い幽霊の顔さえも。ほっとしたような、まだ落ち着けないような、心もとない気持ちになる。見ると、蝋燭の火は四つに増えていた。という事は、四組目がもうここを通り過ぎたのだろう。わたしが今敷地内のどこにいるのかは分からないが、広いお寺のようなので誰かとすれ違わなかったのも無理はない。とはいえ、四組目に居待くんを見なかったかと聞く事も出来ないのだから、困ったものだ。

「……誰もいないみたいだね」

 ぽつりと、青年がつぶやく。それはわたしにも分かっていた。だがこの不慣れな地で、どこをどう探したらいいのだろうか。

 今は姿は見えないとはいえ、またあの幽霊が姿を現わしはしないか、わたしは周囲への警戒を怠らなかった。

「そういえば、はぐれた時に待ち合わせ場所、決めてなかった?」

「……あ、そっか。そうですよね。山門へ戻りましょう」

 青年を振り返って言うと、彼はうんと頷いた。


 わたしたちは山門へと歩を進めたが、道中誰とも出会う事はなかった。もちろん、居待くんともだ。

 みんなただ先に山門へたどり着いただけかもしれないのに、わたしは本堂で居待くんとはぐれてからこの青年としか会っていない事で、少しずつ不安になってきた。

 山門に戻っても、誰もいなかったらどうしよう?

 あるいは、居待くんだけ戻っていなかったら?

 本堂に居待くんがいなかったのは、どこかへ去ったのではなく、幽霊に連れ去られたのだとしたら――。

 わたしの足は焦れるように早くなった。何度か転びそうになって青年に危ないよと声をかけられ、地面に膝をつく事はなかったが、何度かよろめいた。

「明かりが見えてきた」

 青年が小さく言う。わたしの目にも明かりが近くのなるのが見えていた。もうすぐ集合場所だ。木々の影になっているが、いくつもの提灯の明かりがもれているのが分かる。

 居待くんもちゃんとあの場にいるのだろうか――。

 知らないうちに、体が勝手に動いていた。

 伸び放題の枝葉をかき分けて、急ぐ足で山門前の開けた空間に飛び出したその瞬間、わたしの探していた人の顔がそこにはあった。大勢の持つ提灯に照らされて明るいくらいの光の中、愛らしい少女のようなその人の姿が。

「いっ、居待く……!」

 突然姿を現したわたしに、少し目を丸くしていたが、目前にいるのは間違いなく浅葱居待その人だ。安堵から力が抜けそうだったのもあるが、本当に存在するのか確かめたくて居待くんの腕を掴んだ。

「よかったぁ……」

 居待くんの他には朝陽や翔くんなど、他の参加者の姿もあったが、今はあまり問題ではなかった。

 もしこの人がいなくなるような事にでもなったら、わたしは――。

「ごめんね、ごめんね、置いていっちゃって……っ」

 安心のあまり、知った顔をたくさん見れた事もあって、わたしは泣きそうなくらいだった。

 相手の腕をいっそう強く掴むと、居待くんはかすかに眉を寄せた。

「……見つかってよかった、はこっちの台詞ですわ」

 呆れと集団行動を乱した者をたしなめるような顔つきで睨まれる。けれど聞こえた声はどこか穏やかだった。

 わたしたちの周りを取り囲む人々の証言で、わたしの方こそはぐれた迷子扱いで心配されていたらしい、と分かった。

 朝陽にも呆れられ、こうして合流出来たんだからいいじゃないかと景次さんにはまとめられ。わたしは自分がお騒がせ迷子だった事に苦笑をするしかなかった。その内に、居待くんの視線がわたしの手に固定されていたのを見て、慌てて彼の手を解き放った。

「でも、ほんとにごめんね……あんな……ところに置いてきちゃって……大丈夫だった? ゆ、ゆう……」

 どうしても幽霊の事が口に出せなかった。どうしてわたしが居待くんの元を離れる事になったかが知れるのが嫌だからではない。口に出してしまえばあの幽霊はまたこの場にやって来てしまうのではないかと、恐れていたからだ。

「ああ、あの“幽霊”ですか?」

 わたしのためらいを蹴破るように居待くんは言った。そうです、と同意するよりも先に、居待くんは少し眉を持ち上げた。

「あれ、ただの酔っ払いでしたわよ」

 どことなく子供を見るような目をして、居待くんは両手を腰にあてた。

「……へ?」

「うめいていたのは、飲みすぎて苦しかったからだそうで、酔い覚ましにいつもこの場所を使っていたんだとか」

 まるで本人に聞き出したかのような詳細さ。きっと、そうしたのだろう。相手が幽霊などではなく、ただの人間だった場合物を尋ねるのなんてたやすい事だ。

「ただの、人?」

 ええ、と居待くんは首を縦にした。

 頭の中が真っ白になった。

 ちょっと待って。

 それじゃあわたしは、酔っ払いがうずくまって呻いているのを見て幽霊と勘違いして居待くんを置いてどこかへ逃げ出した、というのか。確かに暗闇の中、じっくり見つめる余裕はなかったから本当に生きた人間ではないのか確認はしなかった。だけれども、そんな事が理由でわたしは、友人を見捨てみっともない撤退を遂げたのか。

 恥ずかしい。恥ずかしい事この上ない。穴があったら入りたい。

 幽霊の正体見たり枯れ尾花、とはいうものの――この勘違いから起こった事の顛末は、わたしにとってとても不名誉なもの。穴がなくても入りたい。

 地面しか見れなくてわたしは素手で穴を掘るにはどれだけの時間がかかるのか、埒もない事を考えた。

「本当、早とちりがひどいわよね優月は」

 居待くんが山門にいる面々と合流した時から既に話していた内容なのだろう、笑って朝陽がわたしの肩を叩く。

「いやいや、夜なら見間違いも仕方ないって」

 翔くんの助け舟もわたしの羞恥心を薄れさせるほどではない。

 あの時わたしは居待くんを置いて逃げた事を失敗だと思ったが、早とちりをした事こそが問題だったのだ。同行してくれた青年は失敗に学ぶべきだと助言をしてくれたけど、どう学べというのか。

 そのままうずくまって小さくなってしまいたいほどだったけど、わたしははたと山門まで付き合ってくれたあの人の事を思い出した。

 途中までわたしと一緒にいたから、彼もここにたどり着いているだろうけど。そう思って顔を巡らすと――あの背の高い、優しげな青年の姿はどこにもなかった。

「あれ……あの人、まだ戻ってない? わたしと一緒に来てたんだけど」

 気持ちがはやるあまり、わたしだけ先に来てしまったけれど彼だってすぐに追いつける距離だったはず。それなのにどうしてこの場にいないのか。

 返事がすぐにはなく、わたしの周りの人々はきょとんとした顔をしていたので説明を付け足す。

「ほら、胡桃ちゃんたちと一緒に来てた背の高いお兄さん。二人いたうちの一人」

 朝陽が翔くんと顔を見合わせている。他の人たちも同じように、わたしの放った言葉の意味の答え合わせをするかのように視線を交わしていた。

 そんな中、あんずちゃんがすっと前に出てくる。その表情は、どこか困ったようであったが、硬いものだった。

「あのね、優月くん……うちの兄貴の友人は一人しか連れてきてないんだ……。だから今、もう全員揃ってて……」

 わたしはあんずちゃんのお兄さんの方へと顔を向けた。彼は深く頷いた。ほとんどの人がとても言いにくい事をこれから言わなければと思っているような顔をしている。

「え、でもだって、最初からいたでしょ、あの背の高い……」

「……おれたち、看板息子が“一人”帰ってこないから心配してたんだが」

 わたしの頭の中に、最初に彼を見た時の事がよみがえる。

 一気に大人数の人が集ったから、正確な人数までは気にしていなかった。

 “人数的にも丁度いいし”そう朝陽が言ったのは景次さんが抜けたから。元々いない青年を抜かした数から景次さんを引けば、偶数になって二人一組を作るのに丁度よかった。

 彼は一度もわたしに触れようとはしなかった。助け起こそうとした時も、触れられないと知っていたから手を引っ込めた?

 そういえばあの青年はやけに夜目が利いた。

 つまりは、あの青年こそが――。

 ひとつの考えに行き着いた時、わたしの意識はふうっと遠のいた。

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