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優しい月と、江戸のまち  作者: 伊那
二幕.めぐる季節
20/52

七 朝顔と廃寺(3)

 リリリリリ、虫が鳴く。ヒグラシの声はほとんどやんでいた。代わりに足元の他の虫が――わたしは名前も知らない――耳によく馴染んだ鳴き声をあげはじめている。

 すっかり空は夜の色になっていた。提灯の光で照らさないと何も見えない。昼の太陽の明るさに比べたら、提灯のともしびなんてちっぽけなもの。暗いのはあまり好きじゃない。誰だってそうだろう。見えない場所から何が飛び出すかは分からないのだから、本能的に闇を恐れるのは普通の事だ。その上この廃寺には幽霊の噂がある。だからわたしはここには来たくなかった。お寺に来る前のわたしは、幽霊を恐れていた。

 けれど今はどうでだっていいくらいだ。もっと別のものがあったから、幽霊について心配するのを忘れてしまった。別の者というか、別の――深刻な事態が。

 わたしの右隣には、ぬばたまの黒髪を三つ編みに結った、可愛らしい女の子のような相貌の少年がいる。

 確かに知らない人じゃない方がいいとは思った。けど、こんなに大人数いるのに、まさか居待くんとの組になるなんて。

 はっきり言って、気まずい。この気まずさは冬に居待くんが女の子じゃなくて男の子だと知った時以来。むしろ、あの時よりひどいかもしれない。

 あの時はわたしが会いに行くかあっちが来なければ関わる事はなかった。けれど今は、彼のすぐそばを歩かなければいけないのだ。とても、とても居心地が悪い。原因は主にわたしの方にある。というかわたしの方しか気まずいと思っていないだろう。

 体の右側が痺れたみたいに萎縮している。わたしの右隣りを歩く人を、本当はあまり見たくはない。けれどわたしより少し前を歩いているので、わずかな間ぐらいなら視線を投げかける事が出来る。

 彼は山門前を出発する前にわたしに「行きましょう」と声をかけた。普段通りの素振りで。あの、繁華街で見かけた時を除けばいつもと同じような、多くを語らない、けれど何も告げない訳ではない態度。

 盗み見た横顔に怜悧さは見えず、あの昼間の事は幻かのようだった。

 もしかすると本当に他人の空似なのかもしれない。日にちまでは確実に言えないが、今ここであの日の事を尋ねてもいいんじゃないかとさえ思えてくる。

 でももし、ここにいる人と同一人物だったら? あの日はただ虫の居所が悪かっただけ?

 それとも今も、実はわたしの事が気に入らない――? それを隠しているだけ?

 ずっと前から、わたしの事なんて鬱陶しく思っていたの?

 姉の親しくしている人だからと気を遣っただけで、本当はわたしの事なんてどうでもよくて、外では話しかけてなんてほしくなかった。

 そう、思われていたら?

 友人と思っていたのはわたしだけだったとしたら――わたしは。

 心臓が鉄のように重くなっていたというのに、ドクドクと小刻みに震えていた。

「あ、ここから石段になってますわよ」

 突然の声に、わたしはびくりと身をふるわせて、前を向く。一拍遅れて足元を見ると確かに前方には階段が出来ていた。あのまま歩いていたらわたしは段差に気づけずに転んでいたかもしれない。お礼を言うべきだったのかもしれないけど、わたしは何も言えなかった。

 二人で歩き出して初めて居待くんがこちらを振り返ったような気がした。けれどそれを確認するよりも先に彼は石段を上がりはじめた。居待くんの提灯の明かりが先をゆく。わたしはただ、この暗闇の中に一人で置いていかれたくなくて、もう一度足元を確認してから歩みを再開させた。組ごとに時間差で出発したから、わたしたちの周りには誰もいないのだ。居ても見えないほど暗くなっていたし、想像以上にこの廃寺は広かった。そんな中、相手が誰であれ人とはぐれるような事にはなりたくない。

 リリリリリ……。名も知らぬ虫がそこここから声を出す。その他にももっと、たくさんの虫が鳴いている。けれどわたしたちの間には会話らしい会話はなく、辺り一帯の虫たちよりももっと寡黙だった。時々、思い出したようにヒグラシが鳴いて、何かの鳥まで声を出す。彼らは一体何を話しているんだろうか。

 今はもう、この長い沈黙を打破するための話題を思いつきたいのではない。早く目的地に着いて、この気詰まりな肝試しが終わればいいと思っていた。

 もしかしたら、居待くんは実は目が悪いのかもしれない。だからあの時、遠くにいたわたしの顔が分からなかったのかもしれない。あるいは他の誰かと話をするような余裕がなかっただけかもしれない。あの日彼がわたしを無視したという事実が間違いだといえるいくつもの理由が思い浮かぶ。本当になんて事のない事が元なのかもしれない。だとしても、わたしはどうしてこんなにも小さな事で考えこんでしまうのだろうか。

 わたしの思い違いが元かもしれないのに、この息の詰まる状態はなんなのだろう。

 また、ため息をついていた。

 気がつけば暑さは薄れていた。夏だって夜は少しは冷える。涼しくなると同時に、わたしの頭も冷えてきたのだろうか。未だに体の右半分はぎこちないが、少しだけ冷静に考えられるようになってきた。

 たった一度の事なんて、気にする必要はないのかもしれない。本当にただの偶然でそうなってしまった事なら、一回きりなら、何度も重なったのではないのなら。疑う事もないのではないか。二度三度繰り返されたのではない限り。

「幽霊なんて、本当にいるのでしょうか」

 誰かの声がする。わたしは「うーん……」と生返事を反射的にしていた事にもあまり気づいていなかった。

 そもそもどうしてたった一度の出来事をここまで気にする必要があるんだろうか。たとえば朝陽に道で会って気がついてもらえなかったのなら、わたしはこんな風に思い悩まない。もっとも彼女は自分の記事の材料(ネタ)になりそうなものを目の前にすると周囲のものを遮断するような性質があるから、あり得そうな話でもある。朝陽にそうされたらわたしは後で彼女に自分から何があったのか聞く事が出来る。どうして居待くんにはそれが出来ないのだろう。まだわたしたちは知り合ったばかりの知人の域を超えない程度の友人だから、なのだろうか。

 当たり前だけど、知り合いでもなんでも聞ける相手と聞けない相手がいる。何も聞けないのは何故? 気まずくなるのが嫌だから? 気まずくなるのが嫌なのは何で?

 なんで、わたしはこんなにも――

 顔を上げると、提灯の薄ぼんやりとした明かりに照らされた、少女のような少年の後ろ姿が見える。体の動きに合わせて揺れる、二つの三つ編みのうちひとつが、手を伸ばせば届きそうな場所にある。

 どうして、こんなにもこの人の動向にわたしの心臓は揺るがされてしまうんだろう。

 どうして――

「あれは……本堂では?」

 ぽつり、とつぶやかれた言葉にわたしはまた変な動きをしてしまった。

「えっ? あ、はい!」

 何故かいい返事までしてしまう。背筋を伸ばして前を向けば、暗い中にもうっすらと、草木では描けない人工的な線が見えた。おそらくはお堂の屋根のようなもの。

「折り返し地点に到達ですわね。本堂にこのロウソクを立てて行けばいいんですよね」

 淡々と居待くん。どうでもいいけど、この人暗闇でも歩みに迷いがほとんどない。言いながら、また少し本堂に近づいて行くと、前の組がともしただろう蝋燭の光が見えてきた。

 いろはにほ、の“は”の組であるわたしたちの前には二組の先駆者がいたから、蝋燭の火は二つある。小さな火がほんの少しだけ本堂の形を照らしている。ちゃんと折り返し地点まで行った事を証明するためにあそこに蝋燭を置いていかねばならない。

 もう何歩もしないうちに二つの火のところにたどり着く、というところでわたしの同行者が立ち止まった。何か歩みを止めるべきものを見つけたのだろうか。彼に倣ってわたしも足を止めていたのだが、その時やっと奇妙な違和感に気づく。

 何かの音がする。というより、むしろ――うなり声のようなものが聞こえる。

「な……何……?」

 くぐもっているが、どことなく苦しそうな声だ。

 まさか。

 全身を鳥肌が覆う。

 ひとつの可能性を思いつくと、わたしの心臓はどっと動きを過剰にした。

 ここがどういう噂のある場所かを思い出せば、なんて事はない。

 がたん、と大きな音がした。

 わたしは身をすくめたのに、居待くんはむしろ自分の提灯を少し前に掲げてみせた。

「う……うぅ……」

 その時見えたものは――闇に浮かんだ白い手と白い顔――。

 声なんて、出なかった。

 そんな余裕はなかった。

 心臓が全身が萎縮してしまいわたしの世界は止まってしまった。

 何かを、誰かを顧みる暇なんてない。

 あぁ、とその白い顔がまた声を上げた時に、わたしの金縛りは解けた。足は勝手に動き、脳内は警鐘を鳴らし、わたしは一目散に駈け出した。

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