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優しい月と、江戸のまち  作者: 伊那
一幕.はじまりの予感
2/52

 女の子らしい格好をするのは、苦手だ。

 ついでに言うと、女の子らしい格好をした女の子の事も、正直ちょっと苦手。それから、はっきりものを言う人も、ほんのちょっと苦手。

 親しい友人には思わないけど、あまり知らない人にはそういった要素が苦手意識として働いてしまう――この日も、そうだった。





 空は晴れても日差しはあたたかくない、骨まで冷えてしまいそうな冬の朝。わたしは、あまりの寒さに仕事着の上に羽織と襟巻き(マフラー)をまとって外に出た。北風に吹かれて肩をそびやかしながら、爽亭(さやかてい)開店準備をはじめる。

 ざっと店周りの地面を掃いたあと、店内から腰掛けを引き出して軒下に置く。戸や窓の格子を乾拭きするが、大きな汚れもないし前日の閉店時に水拭きもしたから手短に済ませる。短い髪を耳にかけると、店の外観を仰いだ。

 爽亭と書かれた看板が軒の上に掲げられる、二階建ての建物。一階部分が食事処で、二階が爽家の住居となっている。決して大きくはない店だが、小さすぎもしない。

 ふわりと風が吹きわたしの短い髪が揺らされる。それだけじゃなく、くしゃみが出た。忘れかけていた寒気がよみがえってくる。店先の支度はほとんど済んだのだし、またくしゃみが出ないうちに中に戻ろう。開店に必要な準備はまだたくさんある。父さんは既に料理の下ごしらえを始めていた。調理場は父さんの領域だからわたしがそっちで手伝えることは僅かだけど、他にもやることはいろいろとある。

 かじかみそうな手を息であたためながら、わたしは店内に入る。さすがに建物の中だけあって寒さはやわらぐ。それどころか調理場の(かまど)に火が入っていてあたたかいくらいだ。

 爽亭は二十人も入れば満席になる、広くない店だ。座敷席が少しと椅子の席があって、あとは壁でほとんど見えない調理場。

 羽織と襟巻き(マフラー)を外すと、店の奥の、わたし専用の椅子の上に放る。防寒具の下はいつもの白いシャツと馬乗袴だ。前掛け(エプロン)をつけて、仕事着の準備も万端。

 店内での開店準備は外と同じく掃除から始まる。床は掃き、机や椅子は水拭きにし、座敷席に座布団を一枚ずつ広げていく。それから開店準備の一環となっている釣り銭の点検をはじめる。帳簿に記された前の日の残金を今ある金額と一致するか数えながら、わたしは声を上げた。

「父さん、今日は何かある?」

 調理場は全面見えるわけじゃないけど、今のわたしの立ち位置からだと父さんが仕込みをしているのが分かる。出す料理に変更があるかどうか、その他にも連絡事項はないかという問いだった。

「いい(ぶり)が手に入った。刺身はもちろんだが、鰤大根か煎炙(いりやき)にでもするかな」

「あ、いいね」

 特に鰤の煎炙はわたしの好物だ。鰤と(ネギ)を醤油で焼き炒めるだけなのだが、とてもおいしい。今の時期の脂の乗った鰤は絶品で、何に料理してもお客さんは満足してくれる。わたしのまかないも鰤だといいな、なんて思っているうちに釣り銭数えは終わってしまった。

 立ち上がって釣り銭の箱を定位置にしまうと、父さんの様子を伺った。爽亭のあるじは父さんだ、彼の声がなければ店を開けられない。

「優月、そろそろ店、開けとけ」

 仕込みも一区切りついたのだろう、父さんは言って顎を付き出した。わたしの方でも目で了承を訴えて、店の戸の手前に用意してあった暖簾を片手に、店を出る。白抜きで店の名前が書いてある鉄紺(てつこん)色の暖簾をかける――ちなみに暖簾は季節によって違う色のものをかけるのだけど、わたしは夏用の明るい浅葱色の暖簾の方が好きだ。

 これにて爽亭の一日がはじまった。


 お昼時には一刻近く早い時間、この日最初のお客が姿を見せた。

「うーっ、寒い寒い」

 暖簾をまくってやって来たのは常連さんの一人、火消しの(ちょう)さんだ。長さんとは互いによく見知った相手で、長さんはもう四十間近で年も性別も違うけど気軽に話せるお客さんだ。ちなみに長さんがこうして早くから爽亭にやってくるのは、前日に奥さんと喧嘩をしてご飯を作ってもらえなかった日だという。それにしても、長さんは奥さんとよく喧嘩するのか、頻繁に開店一番からやって来る。

「よぉ看板息子、毎日寒いな。今日はなんか珍しい料理出す予定あるか?」

 常連客のおじさんの中にはわたしを看板娘ではなく“看板息子”と呼ぶ者が多い。それはもちろん、わたしの見た目がぱっと見では男にしか見えないからだが、彼らにとって一種の愛称なのだろうと解釈している。

 爽亭では毎日変わらぬ料理を出すのが基本ではあるが、季節やその日の天候によって特定の食材が手に入らない事もあり、献立は時々変わる。更に店主の気分次第では普段用意しない一品が新たに加わったりするのだ。店の常連客はいつもの料理を目当てにしてはいるが、そういった特別な献立を楽しみにしているお客も多い。わたしは早速父さんの言っていた鰤を紹介する事にした。

寒鰤(かんぶり)煎炙(いりやき)がオススメですよ」

「おっいいねェ、脂ののった寒鰤の(うめ)ぇこと! 刺身もいいが焼いた魚ってぇのもまた、たまんねえよなァ」

 とろりとした舌触りの刺身を想像したのか焼き魚の引き締まった身を思い出したのか、長さんは見えない涎をぬぐった。

「じゃあとりあえず、その寒鰤の煎炙と白飯と納豆汁な」

「はーい」

 注文しながら自分の指定席に腰かける長さん。わたしは父さんにそれを伝えるため調理場に近づいたけど、まだお客さんの少ない店内のことで、父さんの耳には全て入っていたらしい。菜箸を片手に父さんがこちらを一瞥する。

「また長三郎のやつぁ、女房(にょうぼ)とケンカしたってかい。懲りねぇ阿呆だ」

 この分だと、注文の内容を繰り返す必要はなさそうだ。父さんと長さんは昔なじみらしいから、客以前に二人は気心が知れている。父さんの呆れた様子にわたしは笑みがこぼれて、見つからないようにお盆で口元を隠した。仲がいいなと思ったなんて父さんに知られたら、本心は違うのに嫌な顔をするだろうから。

 そうこうするうちに、また店の戸が開いた。いらっしゃい、と反射的に振り返ると、またもやよく知った常連さんだった。ただ、今度の常連客は自分のことをほとんど話さない、長さんとは真逆のタイプ。

 さっさと自分の席と決めている座敷に上がり、

「……鮭茶漬けと、だし巻き玉子」

 ぶっきらぼうにぼそりとそれだけ言って黙りこむ。(まさ)さんはいつもこの調子なので、気にしていない。お客さんの中には本当にいろんな人がいる。ちょっと無口なぐらい、珍しくもない。

 冬の日差しのあたたかさは日が中天に昇るまでは頼りないものだ。まるで暖をとりに来るかのように、一人、また一人とお客が爽亭に集まりはじめた。


 夕方近くになり、爽亭(みせ)は甘いものを食べに来た女の子と、早めの一杯をやりにきた男の人で、少し賑わっていた。この時間帯は本当にいろんなお客さんがやってくる。仕事帰りなのか少し険のある表情の男の人や、疲れた様子の男の人、まだまだ友人と話し足りないような女の人や女の子。

 角の二人の女の子なんて、かなり盛り上がってるのか声がどんどん大きくなる。よく見るとわたしの少し苦手なタイプの女の子たちだ。髪の毛もきれいに結って、華やかな髪飾りもつけて。ふりふり、ひらひらのレースのついた着物とか。蝶の形の装身具(アクセサリー)をつけたりとか。

 短い髪では髪も結えず、髪飾りひとつ装身具(アクセサリー)ひとつ身につけない、おしゃれとは無縁なわたしとは正反対の人たち。

 濃い薄紅の着物の女の子なんて、なんだか胸も大きいし――男の子と間違われる誰かさんとは大違い。

 時々、急にこんな風にひとと自分の違いを思い知らされてしまう。普段はほとんど気にしないし、ああいう風になりたいと希求してるわけでもないのに。

 どうしてなんだろう。

「――優月? 聞いてるの?」

 自分が随分ぼんやりしていたのだと気づくのに、朝陽の少し強い語調が必要だった。

「あ、う、うん……ごめんね朝陽。なんだった?」

 お客さんは少なくないけど、注文も料理を出すのも一段落ついたから、今日は客としてやって来た朝陽と話をしていたのに。

「この柿の甘味(スイーツ)おいしいねって言ったの。干し柿を使ってるんでしょ? どうやって作ったの?」

 冬の間の貴重な保存食でもある干し柿は、それだけでも美味しいのに加工すると更に絶品になる。わたしは父さんの手伝いで干し柿の種抜きをした事を思い出しながら甘味の話をしようとした。

「ほんっと、あり得ないでしょお?」

 大きな声に遮られたように感じて、わたしは思わず声の出処を探すように顔を上げてしまった。

「いやそこまでいくと逆にすごいっていうか、笑える!」

 声の大きかった女の子二人の笑い声が、店内に響く。

 わたしだけでなく朝陽も、他のお客さんまでもが何人もあの二人組に注目している。はしゃぎ過ぎる少女たちに顔をひどく顰めているお客までいる。

 あまりよくない雰囲気だ。もちろんここはお白洲(しらす)ではないのだから声をひそめる必要もないし、自由に自分の話をしていいのだけど、それにしたって彼女たちは声が大き過ぎる。

 どうしよう。父さんは基本的に調理場にかかりきりだし、わたしが注意した方がいいのかもしれない。でも、ちょっと声が大きいからってだけで注意して相手の反感を買ったらどうしよう。あっちはお客さんなんだし、お客さんの機嫌を損ねるなんて、褒められた事ではない。

 ああやっぱり、わたしって優柔不断――。

「もし、そこのお二方? いささか声が大きいですわよ?」

 凛とした声が、店内を割った。

 自分の情けなさに顔をお盆で隠しかけたわたしとは違って、その声の持ち主は立ち上がっていた。真正面から、あの声の大きな女の子たちを見据えている。にわかに店内が静けさを帯びる。

 彼女たちに注意をしたのは、鮮やかできれいな躑躅色(つつじいろ)の着物がよく似合う、とてもかわいらしい女の子だった。

「公共の場では、声はもっとおさえないといけませんよ」

 大きな韓紅(からくれない)のリボンも愛らしく、三つ編みに結われたぬばたまの黒髪は、二つに分かれて胸の前におろされている。その女の子の笑みさえ優しげで、母親が小さな子供のいたずらをたしなめてるみたいだった。

 けれど忠告された二人組の方は相手がどんな態度でも気に入らなかったのか、不機嫌そうに顔をしかめて見せる。

「何、あの女……うるさいな」

「もう行こ、めんどくさっ」

 語気も荒く、二人組は小銭を机に置き去りにして爽亭を去って行った。

 あの二人組はわたしより少し年上くらいに見えたけど、三つ編みの子はわたしより年下に見えた。年下の女の子にたしなめられたのも、あんまりうれしくなかったんだろう。

 でも、わたしだったらどうしてただろう。どうなっただろう。

 躑躅色の女の子はそのかわいさもあってか、しばし店内のお客さんの視線を集めていた。あの二人組の笑い声は人目を集めていたのだし、声を上げた後からずっとあの躑躅色の子は注目を浴びていた。

 その視線が気になったからか、はたまた気にしていないのか、三つ編みの女の子は目を伏せていた。しばらくするとお客たちの視線は各自のところへ戻って行った。けれどわたしはまだあの子の事が気にかかって、何度か振り向いてしまった。

 そう時間もおかず、また席に腰をおろしていた三つ編みの女の子は、手拭き(ハンカチ)で口元を軽く押さえると、(たもと)にそれをしまって代わりに小銭入れを取り出した。

 去った二人組同様机にお金を置くと、躑躅色の袂をふわりと風に遊ばせ店内を横切る。

「ごちそうさまでした」

 一拍遅れて、それが店内の見えるところにいる唯一の店員に告げられた言葉だと知る。つまりはわたしだ。ただの形式的な言葉だったかもしれないけど。

 気づいた時にはもう、店の戸はきっちりと閉められたところだった。

 嵐が去った、なんて思ったら失礼か。どちらがとは言わない。実際はただ少しの言葉のやり取りがあっただけ。

 でももうみんな終わってしまった。安堵してしまうのは、わたしだけだろうか。

 いつの間にか、ほどよい喧騒が店に戻ってきた。大きすぎる声もなく、変な静けさもなく。普段通りそのもの。

「さっきの子……けっこうはっきり言ったね……」

 ぽつりと、朝陽に言ってみる。

 わたしだったら、ああはいかない。もっとお客さんを傷つけないようにと気を使い過ぎて、遠回し過ぎる注意をしていたかもしれない。

 わたしもあんな風にはっきり言えたらと思う反面、わたしがあの二人組の側にいたらと思うと、素直に賞賛できない。はっきり物を言う人は、少し苦手なのだ。

「そう?」

 不思議そうに朝陽はわたしを見上げる。

 朝陽もわりとはっきりものを言う方だ。わたしの時々消極的になる思考が伝わらないのも、無理はない。

「ねえ優月。今気づいたんだけど」

 何かをしばし見つめていた朝陽が、思い出したように声を上げる。

「あそこに座ってる男の人二人、顔だけ知ってる。正直柄悪いっていうか……さっきの二人組のこと、声が大きくなる前から睨んでたのよね」

 視線で店内のお客を示してきたので、わたしも朝陽に倣った。身なりはさほど悪いようには見えないが、そう言われると確かに眼光が鋭く見えて仕方ない。朝陽は瓦版の話題になるものを探して、本当にいろいろなところに顔を出している。そうすると自然他人の顔にも詳しくなるのだろう。

「あの三つ編みの女の子、それに気づいてて声の大きい二人組がからまれる前に一言いった、ってことじゃない? 世の中、けっこう些細なことで言いがかりつける人いるもの。そうなる前に憎まれ役を買って出たって感じかしら」

 確かにお客さんの中には本当にいろんな人がいる。更に世事に詳しい瓦版屋の娘が言うと妙に説得力がある。

「……ふうん」

 そう言われれば、そうなのかもしれない。わたしだって店内での客同士のいざこざに出会った事が幾度かある。

 それでもわたしはきっと、あの躑躅色の女の子のことが苦手だ。

 わたしの苦手な女の子らしい格好をした女の子だった。フリルのある躑躅色の着物はどうしたってわたしには似合わない。

 わたしにはない、きっぱりと誰かを諌める芯の強さを持っていた。

 なりたいわけじゃないはずが、とても届きはしないと教えられた気がして、わたしの心は小さくしぼむのだ。


 これが、わたしが“浅葱居待(あさぎいまち)”をはじめて認識した日だった――。

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