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優しい月と、江戸のまち  作者: 伊那
二幕.めぐる季節
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18/52

五 朝顔と廃寺(1)

 随分と蒸し暑い日の事だった。雨の時期は終わっても、その名残を思わせるような湿気のある空気。けれど空は晴れ、気温も高くなっていた。

 晴れの日が続くと、身の回りをこれまでと違った風にしたくなってくる。衣替えは済ませたけど、髪が伸びてきたのが鬱陶しくなっていたわたしは、散髪に向かった。

 髪の一部が肩につくほどだったので一寸から二寸ぐらい切ってもらった。元々が短い髪なので散髪といっても気づかれない程度の変化かもしれないけど、首筋にかかる髪がなくなってとてもすっきりした。

 行きつけのお店は繁華街の東の方にあった。暑さのせいか人通りも少なくどこか静かで、町が今はまどろんでいるかのようだ。その方がいいのかもしれない。最近ではもう、日の出る時間帯は暑くてかなわない。そのうちに夜も暑さが抜けなくなる。

 歩くうちに段々と汗が雫になりそうだった。髪を切ったばかりだというのに、額の上にあるそれが邪魔に思えて、手を眉の上にあてたところだった。

 見知った顔を見た気がした。

「……あれ。居待、くん……?」

 本人の前ではなんと呼んだらいいのか未だに分からない。だからほとんど名を呼ばずに過ごしている。

 苦手だと感じた第一印象、ちょっとした事件で助けてくれた事、女の格好をした男性だと分かった事、それからあの全てを見透かすような黄金にも似た鶯色(うぐいすいろ)の瞳――いろいろなものが相まって、わたしが勝手に気まずく感じていた相手。

 今ではもうほとんど目が合うのを避けるような事はなくなった。相変わらず長々と会話が弾むような相手ではないし、時々沈黙が気まずくなる。けれどわたしより年下な事や、背も翔くんと変わらない低さだというところから、弟のように――あるいは妹のように――思って接する事が出来るようになった。

 性別や性格のせいか、居待くんの姉である立待ちゃんのようにわたしに積極的に話しかけてくれるほどではないが、わたしたちの関係性は友人としてはそれなりだと思っていた。

 まだお互いに距離があったけど、遠くはない。歩く居待くんが建物の影に消えてしまう前にと、わたしは居待くんに近づいて行った。

 いつか浅草寺前でそうしたように、声をかけようとした寸前、居待くんの横顔がわたしのいる方を向いた。手を上げたわたしは、居待くんと確かに目が合ったはずだった。

 あの鶯色の瞳は、短い間でもわたしの姿を認識した――そう思えたのに、それはあっけなく逸らされた。

 彼の視線はまた元に戻り、視線の先には小石が転がっていただけかのように振る舞って、歩みを続ける。

(……えっ……?)

 目が合ったと思ったのは、わたしの気のせいだったのだろうか。それとも、よく似た人違いだったのだろうか。持ち上げた手は所在なくわたしの体の脇におろされる。

 彼が建物の角を曲がり、居待くんらしき人物はわたしの視界から消えてしまった。

 言い知れぬ、罪悪感のようなものが体の奥をかけめぐる。

 無視、された?

 ただの他人の空似?

 いつだって居待くんの表情は落ち着いたもので、時折そっけなくも見えるけれど、今の彼はどこか冷えた眼差しをしていた――。

 ゆっくりと、心臓が存在を主張してくる。段々とそれは重くなるように感じた。

 何か重大な間違いを起こしてしまったかのような焦燥感。

 わたしは夏の日差しの下で、金縛りにあったかのように身動きが出来なかった。







 目に見えないのが不思議なほどに、全身にまとわりつく湿気。風が吹かない限り、室内にいてもこのうだるような暑さが緩和される事はない。爽亭の軒下には小さな風鈴がかけられているけれど、先程からちっとも鳴らない。もっとも、(セミ)の声が賑やか過ぎて少しの風ぐらいじゃ風鈴の音は聞こえないかもしれない。

 江戸の夏はとにかく、蒸す。ただ日光を避ければいいという訳ではないのが、夏のつらいところだ。

 だからそんな暑い日には、背筋も凍るような“怖い話”をするのが一番と考える者もいる。江戸の人の中には、怪談話を好む者も少なくない。そして、爽亭にいる今のお客の中には、怪談話を楽しめる者がけっこういる。

 わざわざ壁際の隅におもむき、少しでも薄暗い場所を求めて集まった何人かで、最近の江戸を騒がす怖い話を語っているのだった。ちなみにわたしは怪談話は得意ではないが、友人に引っ張られてその渦中にいる。

 話の中心は、瓦版屋の娘。情報収集ならお手の物の活発な少女――朝陽、だ。指先を下にした両手を胸の前でふらつかせ、恨みのこもったような瞳で口の端を上げる。神妙な声ともあいまって、即興ながら朝陽の語り口調はそれなりに様になっていた。

「……だからその廃寺には、今も立派な朝顔が咲き続けている、というわけ……」

「赤ん坊育てるユーレイならぬ、朝顔を育てるユーレイ?! 何それ風流! こわい!」

 翔くんが、怖がっているのか楽しんでいるのか分からないような顔をして眉を寄せる。

「別に攻撃してくる訳じゃねえなら別になあ! 耳ちぎる訳じゃねえなら怖かねえやい」

 何故か胸を張ってみせる長さん。

「えええ耳ちぎるとか何?!」

「お前翔、あの話知らねえのかよ!」

 今度こそ怯えて縮み上がる翔くんに、苦い顔ながら長さんは口角を上げる。

「えっなんかその顔ヤダ! ぜったい怖い話でしょ! ねえ!」

「くくく……お前にもあの話を聞いた時のおれと同じ気持ちを味あわせてやる……!」

 昼八つを過ぎた頃、昼の一番暑い時間であり、爽亭の客はいつもの顔以外の客はほとんどなかった。

 開け放たれたままの出入口からは風はやって来ず、夏の色に替えた暖簾を揺らすお客も現われなかった。店の中から見える暖簾は、日の光を受けて少し色褪せて見える。

「何餓鬼(ガキ)みてえな事やってんだよ……」

 翔くんと長さんのやり取りに、子供が二人いるみたいだと四郎さん。長さん四郎さんは元々、爽亭の店主である父さんと友人同士だし、朝陽と翔くんはわたしと同世代。この顔ぶれが集まるのも、気軽に話をするのも珍しい事ではない。互いにすっかり知り合っているため気安い間柄なのだ。

 そういえば、最近は(まさ)さんが姿を見せない。彼は少し痩せ型で顔にも肉の少ない、どこかやつれて見えるところがある。この暑さで倒れているのでないといいけれど。

 わたしはまた店の外へと目をやる。暖簾の隙間から見える離れた場所の地面は、僅かに歪んでいた。夏の暑さがそうしているのはなんとなく分かるが、地面が茹だっているように思えるのが不思議だった。夏の空気が地面を歪めるのは分かるが、時々まるで水場があるかのようになってしまうのは、どういう事なのだろう。昔の歌で、逃げ水とあれを称していたのを思い出す。あれは一定の距離にある場所だからこそ見えるものらしい。だから、逃げ水。

「……って事で優月、明日の暮れ六つの鐘が鳴る頃に集合ね」

 朝陽が何か言っている。反射的に、返事をしなきゃと思ってしまう。

「……うん……」

 ジワジワジワ……、蝉の鳴く声が聞こえてくる。蝉たちは何のためにああして鳴いているのだろうか。時折うるさく感じるほどのそれは、時に合唱をしているようにも聞こえる。今は、そんなにうるさくは聞こえない。

「子供だけで夜に外出たあ、感心しねえなあ」

「夜じゃなくて、夕方よ」

 蝉は暑くなると鳴きはじめる。あの日も、そうだった。

 昼になると夜より色を失うような町並みの中で、思い出せばあの人もいつもより色の薄い着物を着ていた。

「おじさんも行こうかあ?」

 それによく見たら、一人じゃないようだった。ただすれ違っただけの相手かもしれないけど、笠を被った男の人と歩いていたようにも思える。

「四郎さんあの話信じてないじゃない。そんな人と行くとしらけるわ。かといって長さんだとなんかうるさそうだし」

 だからだろうか。何か事情があってそうしたのなら、納得がいく。例えばわたしだったら、仕事の真っ最中で手があいてない時に知人に声をかけられても、すぐには対応出来ないかもしれない。もしかしたら、あっちも急ぐ用があったのかもしれない。

 蝉の声が、遠くなる。

 夏の色をした空気も、対岸にあるかのよう。

「ひでえな朝ちゃん! でも当たってる!」

 そういえば、わたしは彼が普段どんな風に暮らしているのかを、知らない。あの道場で稽古をしているのかも、家で仕事をしているのかも、何か他の事をしているのかも――何も知らない。

「取材も兼ねてるとはいえ、子供同士の集まりに大人に水さされるのもね」

 店先の暖簾が揺れたような気がして、わたしは顔を上げた。けれど風が吹いた様子はなくて、暖簾はじっと動かないままだ。

「うーん……。あんまり遅くまで出歩くんじゃないぞ?」

 今はあの夏の色をした暖簾も、長く見ていたい相手ではない。暖簾の色は、浅葱色(あさぎいろ)をしていた。

「幽霊探しなんだから、薄暗い時間に出歩かなきゃ意味がないでしょ」

「そりゃそうだ」

 少し笑ったような長さんの声。

「まあ、お土産話聞かせてくだせえ」

 諦めたような四郎さんの肩をすくめる姿に、わたしはふっと気になった。

「朝陽、どこか行くの?」

 出先での話を待つという四郎さんの言葉は、朝陽が遠出するという意味だろう。一体彼女はどこへ行こうというのか。

 わたしの言葉に、朝陽は何故か眉を寄せた。まるでわたしが何かしでかしてしまったみたいに見つめてくる。はあ、と分かりやすく息を吐くと朝陽は両手に腰をあてる。

「何言ってるの、あんたも行くのよ。さっき言ってた廃寺に、幽霊見に」

 傍らには、うんうんと頷く翔くんがいた。

「……はい?」

 廃寺の――幽霊?

 それはなんだか、わたしにとってあまり楽しくなさそうな響きだった。

昼八つ……14時前ぐらい

暮れ六つ……18時過ぎぐらい

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