一
ほろさんへ 心をこめて
***
時は、賽ノ地で青が居待と会った頃よりも前にさかのぼる――
母さんは月が好きな人だった。わたしが生まれたのは月の見える夜。優しい月の光がきれいで、わたしを優月と名づけたそうだ。
宵を過ぎ月の昇る頃になると、母さんはよく空を見上げていた。本当に月が好きなのだろう。確かに真っ暗闇に一つ輝く月はきれいだけど、わたしは母さんのように毎日飽きずに見上げることは出来ない。
月は嫌いじゃないけれど、優しい月っていうのもいまいちよく分からない。自分の名前も、実はそんなに好きじゃない。
優月くんは名前の通り優しいねってよく言われるけど、違うと思う。
優月の優の字は――
店の料理に使う材料が切れ、わたしは買い出しを頼まれたところだった。寒さの増す小雪を過ぎた時候、いつもの格好ではたえられず外衣をまとって店を出たが、襟巻きがあってもよかったかもしれない。真冬に向かうにつれ、日差しは段々とぬくもりを失っていく。
江戸は海沿いの都だ。江戸の東西を多摩川と荒川という二大河川が通るが、その支流が町のあちこちに広がっている。水があるところは他より気温が低くなる。夏は涼しくていいが、小さな水路の上を通るだけでもなんとなく肌寒さが増すようだ。外衣の下の風呂敷包みを抱える手を少し伸ばし、腕をさすってみても寒さはやわらがない。
「困ります」
小さいが当惑しきった声が聞こえてきたのは、光琳橋を渡っている時の事。見ると、橋を渡りきって少し行ったところで、若い男女が何やら言い合いをしている。犬も食わない類の痴話喧嘩だったら問題はないのだが、どうにも女性の方の声が緊迫して聞こえてしまう。近づくにつれ、若い女性はわたしと同じ年か少し上の十代後半の女の子だと分かった。どうやら相手の男は女の子をどこかに遊びに行こうと誘っているらしい。その男性は耳飾りを幾つもつけて着物を着崩し、押しが強そうな顔つきだ。押しに弱そうな女の子が相手では、あまりにも取り合わせが悪すぎる。
相手の男性は一人だし、女の子の方もいざとなったら逃げ出せばいいだろう。そう思ってか、通りがかる人々は彼らに一瞥をくれるだけですぐに目をはなしていた。よく見れば、耳飾りの男は女の子の手を握って離れられないようにしているというのに。それを見て、わたしはすぐに決めた。
「ごめん、お待たせ」
見知らぬ女の子に、ずっと前からつき合いのある相手だと主張するような自然さで肩を叩く。顔を上げた少女は、当然わたしの事を全く知らない。だけどわたしは、任せて、というつもりで目配せをした。ここで彼女に誰とでも問われてしまえば、事態はもっとややこしいものになる。彼女は元々気弱なのか、何も言えずにもごもごしている。
「彼女に何か用でも?」
とりあえず女の子の隣に寄り添うように立って男性の方を牽制しにかかると、彼は女の子に伸ばしていた手を放した。相手が一人ならわたしでも何とかなるはずだ。それに耳飾りの男性よりわたしの方がちょっとだけ身長が高い。威圧感を与えられるといいんだけど。いかにもこの女の子の親しい男友達、あるいは恋人のような顔をしていれば、あっちが勝手に勘違いしてくれる。
耳飾りの男はじろじろとわたしの全身を眺めていたが、その視線を隣の女の子に移す。彼女はそれに怯えたのか、わたしの腕に手を伸ばしてきた。更に男の視線から逃れるようにわたしの背に体を半分隠す。
「けっ。なんでえ、男いんのかよ」
とかなんとか文句を言いながら、顔をしかめた男性は去って行く。よかった、恋人の振りは成功した。わたしたちは即席にしては上手く恋人同士を演じられたようだ。わたしの腕を掴む少女の力が抜けていくのが伝わってくる。ただ彼女は男性の姿が遠くなり、視界からいなくなるまでわたしから離れなかった。
ふと、彼女は他人の腕を掴んでいる事に気がついたらしく、急に手放した。初対面の相手だというのに長い事腕に触れていた事を恥ずかしくなったのか、わずかに頬が赤くなっている。
「あの……ありがとう、ございました」
少女は俯いたまま、小さくつぶやいた。
「困ってる女の子を助けるのは、当たり前だよ」
どうにもこの子は気が弱そうだし、誰かが仲介に入らなければ男に腕を引っ張られどこかへ連れられていたかもしれない。そんな事にならなくてよかった。安心させるように微笑みかけると、彼女はもっと頭を俯ける。なんだろう、耳まで赤くなっている気もする。
「その……お名前を伺ってもいいですか?」
ちらちらと見上げてくる女の子に問われて、わたしは軽く頷いた。
「爽優月って言うんだ。爽亭ってご飯処で働いてる。よかったら一度遊びにおいで。おまけしちゃうから」
こうして宣伝をしないといけないほど爽亭は赤字続きというのではないが、ついそんな言葉が口をついていた。
「は、はい……行きます、絶対行きます!」
女の子は首を何度も振って同意してくれた。なんだろう。なんとなくその瞳に熱っぽいものが含まれているような気がするんだけど、気のせいだろうか。
見なかった振りしてとにかく、ざっと爽亭の場所を伝える。それからわたしは買い出しの帰り道だったと思いだし、暇乞いを告げた。女の子は控えめに手を振ってわたしと別れた。
光琳橋を渡ればすぐに尾形町だ。尾形町の真ん中から少し西に行ったところに、わたしの生家である爽亭が見えてくる。
だが、爽亭が見えるより先に女の子の集団が姿を現してわたしの視界を遮った。
「見てたわよっ優月くんっ」
両手を腰に当てて居丈高に振る舞うのは胡桃ちゃんだ。普段の彼女はおしゃべりと食べる事が好きな気さくな女の子だ。だからああしてわざと自分を大きく見せるのは何か言いたい事がある時。それが今なんだろうけど、一体何を見ていたというのか。
「営業が大事なのも分かるけど、優月くんったら愛想ふりまきすぎっ! そんなに女の子みんなをトキメキに落としてどうするのよ、今の子なんて目がハートになってたじゃないっ」
ついさっきの困っている子を助けた事を言っているのか。それも、どうやら最後の場面しか見ていなかったらしい。ていうか目がハートって……。
「そんな事ないと思うけど……」
「ううんっ、あれは恋する乙女の目よ!」
「ダメよう、優月くんはみんなの優月くんなんだからねっ」
否定をしたがあんずちゃんまで胡桃ちゃんに同意する。とどめにももちゃんの懇願するような上目づかい。どこか拗ねたような声にも聞こえる。いつも思うけど、彼女たちはわたしを買いかぶりすぎている。
「はは……」
困ったような笑いしか出なくて、わたしは何と言ったらよいのか分からなくなった。それにしても“みんなの優月くん”って何だろうか。あんまり突っ込んで話を聞いてはいけないような気もする。
不思議な事にわたしの苦笑は胡桃ちゃんには別の何かに映ったらしい。わたしが愛でも囁いたかのように恥じらった顔をする。
「もうっ、優月くんってば罪作りなひと!」
胡桃ちゃんの手がばしりとわたしの腕を叩き、正直ちょっと痛いほどだった――。
胡桃ちゃんたちは爽亭の常連客だ。ちょうど向かう途中だったと言うのでそのまま四人連れ立って爽亭へと足を運んだ。店の名が書いてある鉄紺色の暖簾を潜ると、さすがに室内はあたたかかった。
昼八つ半という頃合いに、客の出入りは少なくなっていた。もう少し時間がたてば夕飯を外で食べようとやって来る客も増えるだろうが、今は軽い甘味を楽しむ女性客が数人いるだけだ。そのうちの三人である、常連の胡桃ちゃんたちは友人同士で楽しげに会話をしながら席につく。わたしと彼女たちとのつき合いはそう短くはない。ほとんど友人といっていいような存在だが、彼女たちは変な話、爽優月を特別扱いしている。そのせいか、わたしとしても本当の友人関係になれた気はあまりしない。とはいえ彼女たちは本当に気のいい常連客たちだ。どの子もわたしと同じか一個下ぐらいの年の近さだし、話をしていても年上の客より気が楽だ。
胡桃ちゃんたちは白玉ぜんざいや葛切りやらを頼んでたくさんおしゃべりをして、夕七つを過ぎた頃には店を出て行った。それとほとんど入れ替わるようにして、一人の少女が姿を見せる。ひとつにまとめた長い黒髪をリボンと共に翻してやって来る、春の陽光のような女の子――朝陽。胡桃ちゃんたちとは違いわたしを特別扱いはしない、わたしの親友だ。
「優月! 遊びに来たわよ」
「朝陽」
彼女は時に別々の理由で爽亭にやって来る事がある。一つ目は普通にご飯処のお客として、食事をしに来る時。時には生家の家業の手伝いのため――瓦版作りの材料探しのためにもやって来る。それからわたしの友人として顔を出す時――これが今日の彼女の訪問の理由だ。ただ、一つ目の理由と最後の理由は、往々にして混同されやすい。今日も朝陽は遊びに来たとは言いながら甘味も味わうつもりらしく店内の椅子に座る。お茶を用意したら、季節の献立である栗の甘露煮を注文される。
胡桃ちゃんたちとは違って、朝陽にはほとんど距離を感じない。たいていの事はなんでも話してしまえる。そんな訳でわたしは栗の甘露煮を出したあと、買い出しの時の事を早速話した。
「って事があったんだ」
「ふーん。優月って営業モードじゃないとけっこう抜けてるのに、すっかり騙されたもんね」
なるべく客観的に話したはずなのに、朝陽も助けた女の子がわたしにハートの目を向けた想像をしたらしい。確かにわたしは仕事中や外では気を使って過ごしているけど、たまに間抜けな間違いをやらかしてしまう事がある。だから普段のわたしを知らない、営業用の態度を見ただけならそうなるのも無理はない、って朝陽は言いたいのだろう。
「騙されたって……。まあ、誤解されてた気はするけど」
「そうよねえ、ナンパ男から颯爽と救いだしてくれたヒーローが、まさか女の子だとは思わないわよねえ」
あの場ではあえて男の振りをしたのであって、勘違いされてよかったのだが、わたし、爽優月は正真正銘の女である。
六尺近く――測った事なんてないけどたぶんそんなにはない、あって五尺七寸ぐらいなはず――あるこの高身長と、短く切った髪、それから女の子らしくない服装が男に見られる原因だ。よく分かっている。今日はそのおかげで困っている女の子を助けられたけれど、英雄通り越してステキな殿方、と見なされた事が過去に何度もあったりする。その一部が、例の胡桃ちゃんあんずちゃんももちゃんの三人組だ。今はもうわたしを女だと知っているはずなのに、ああしてわたしに対し“いいところの若様”扱いを続ける。別にあの三人組の言うように愛想を振りまいているつもりもないし、女の子をトキメキに落としているつもりもない。見た目がちょっと男の子っぽく見えるからって、どうしてそういう話になるんだろうか。
「でもわたし、女なんだけどな……」
あの耳飾りの男を戦意喪失させるには、女の姿だったら無理だったろうから、都合がいい時もあるのだが。変に誤解をされるのも、困る。
ため息をつくわたしを後目に、朝陽は栗の甘露煮を口に放り込む。
「じゃあ間違われないような格好したらいいじゃない」
今履いている紺色の馬乗袴をつまみ上げると、わたしは思案した。
「んー、でも、この格好動きやすくて、仕事中はこれが一番だし」
「……髪のばすとか?」
わたしの短い淡藤色の髪は少しくせっ毛で、伸ばすと今以上にあちこち跳ねてしまい手入れがひどく大変だ。
「長いの、あんまり好きじゃない」
「…………お化粧するかアクセでもつけたら?」
化粧は皮膚の上に何か載っている感じが好きじゃないし、装飾品は仕事の時に邪魔になる。
「飲食店だから、あんまり度が過ぎるとちょっとね」
「………………女ですって紙背中にはっとけば?」
親友がわたしの対応に面倒になった顔をした気がする。
自分でも分かってる。
あんまり男に間違われたくないって思うくせに、女の子らしい格好しないとか。
女の子たちに取り囲まれたいわけじゃないのに、女の子たちに頼られたりすると悪い気はしないとか。
期待されると、裏切れない。もちろん誰かに優しく接するのはいいことだと思うけど、期待されるとかっこいい自分を装ってしまうこと、とか。
そういう自分のこと、分かってる。
優月の優はきっと、優柔不断の優――
昼八つ半……だいたい14時半
夕七つ……だいたい15時過ぎ