第二章 裏切りと逃亡―1
「フローラ様、フローラお嬢様、どこにいるのです!」
暗い灰色の柱の間にうまく隠れて、自分専属の家庭教師が横を通りすぎるのを待つ。
パタパタとかける足音が近くなって、今度は遠ざかっていくのを確認すると、彼女は冷たい大理石の間から顔を出した。
「ふぅ……。今日は逃げ切れた」
緊張した顔を緩めると、やわらかい笑顔が口元に広がる。
「さてと、何しようかしら」
淡いブルーのドレスをふわふわと揺らしながら、小さな足で軽いステップを踏む。
白い木枠に縁取られた窓の外を見ながら屋敷の廊下を進むと、庭に橙色をした小鳥を見つけた。
「そうね、小鳥を飼いはじめるのはきっと素敵なことだわ」
彼女は突然思い出したようにそう呟くと、満面の笑みを浮かべ廊下を小走りする。金で装飾され、所々に有名な彫刻家の作った小さな像が置かれている階段を駆け降りると、赤い絨毯の上を裏口へと向かうためにスキップしながら進んだ。
たくさんの木々の間からこぼれる日の光が、庭を柔らかく照らしているのが窓から見えると、心が躍るのを感じた。
最近歴史や作法の勉強ばかりを強いられていたフローラが、こうして外にでるのは久しぶりの事だった。
彼女は裏口だとは思えない大きさをした扉にたどりつくと、少女の体には負担が大きい重さのそれを、音が鳴らないようにゆっくりと開く。
その瞬間、太陽の眩しい日差しが彼女を照らす。
「んーっ!いい天気!」
扉の取手を掴んだままそう言うと、やはり音が鳴ってしまわぬように扉を閉め、小鳥のさえずる中庭へと出た。
太陽に向かって咲き輝く花々の間に通った、淡い茶色の道を歩き、日の光を好きなだけ浴びながら小鳥たちのもとへ向かう。
鳥というのは人型をした種族が寄ると逃げてしまうものだが、彼女は非常に動物に好かれる体質であり、早くも何匹かがフローラの周りを飛び、そのなだらかな肩にとまる。
彼女は耳元でさえずる鳥たちに、やわらかい笑みを浮かべながら花畑の中に横たわり体をうずめた。
「ねえ、私の部屋に来ない?もちろん、ゲージはあなた達が好きに飛べるように広くしてあげるわ」
「ほう、今度は小鳥ですか?お嬢様」
フローラの問いかけに、小鳥はチュンと一声鳴いて頬ずりをする。
「そう。いいと思わない?……あら、フランシス」
小鳥たちの歌声を聴きながら、その温かさを楽しんでいたフローラだったが、やはりこういった時間は長く続かないものだった。
「まったく……また授業を抜け出したのですね、お嬢様。皆さん必死で探していらっしゃいましたよ」
背丈は百九十にもなろうかという長身で、深い紺色の瞳に白い長髪の男が、上からフローラをのぞきこんでいた。
「だって、毎日毎日授業ばかりでつまらないんだもの。魔法の授業だったら楽しいけど、最近しないし……」
フローラは上半身を起こし、ふてくされたように言う。
そして胸元に乗っていた小鳥を抱きかかえると、フランシスを見上げた。
「ねえ、授業に戻らないといけない?」
「もちろんです、お部屋に行きますよ」
そういってフランシスが手を差し伸べると、フローラは頬を膨らませ、片手で鳥を抱えたままその手を掴んだ。
「今日はうまく逃げたと思ったのに。結局あなたに見つかっちゃうんじゃ逃げても意味ないわね」
そういって立ち上がり、ドレスについた草を払うと、小鳥を肩に乗せる。
自分が歩きだすのを待っているフランシスに舌を出すと、フローラは一歩扉に向けて踏み出した。
その時だった。
「あっ!」
「お嬢様!」
遠くから聞こえた爆音とともに、大地が大きく揺れる。
視界が大きく揺れ、一瞬霞がかる。
ズズズズ……と鈍い音を立てて、激しい震動が何秒か伝わったと思うと、今度はフローラの家から西の方角に、立ち上る黒煙が見え始めた。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「う。うん……今のは何?」
バランスを崩し、足元をすくわれたフローラは、フランシスに抱えられたまま頷く。
地震の瞬間に飛び立った小鳥はフローラのもとへもどり、どこか怯えた様子で身を寄せた。
「わかりませんが……煙が出ていますね。部屋へ戻りましょう」
フランシスにせかされるようにして、裏口へ向かう。
周りに目を光らせ警戒しながら後ろについてくるフランシスの手を握り、フローラは扉まで走った。
フランシスが重い扉を開き、二人が屋敷の中に身を滑り込ませると、丁度この家に仕える侍女がこちらに向かっているところだった。
「あぁ、フローラお嬢様!ご無事でしたか……」
「ええ」
フローラがそう短く答えると、フランシスが聞く。
「これは一体何事だ?」
この家、そしてフローラの従者である者たちを取り仕切る立場の彼がそう問いかけると、侍女は緊張した面持ちになった。
「も、申し訳ありません。私にも何が何だか……。兵士の方が何人か、情報を集めるために外に出たようですので、そちらの報告をお待ちいただくことになります」
侍女はそれでは失礼しますと、ぺこりと頭を下げてフローラにそっと微笑むと、フランシスの視線に気づき焦ったように去っていく。
扉を開く際に放した手の代わりに、フランシスの服の裾を少し引っ張ると、フローラはまた歩き始めた。
窓の外から見える煙は先ほどより黒々としており、煙の中で何が起きているのかは遠すぎることもありここからでは見えない。
眉間に皺を寄せたまま、フローラが階段を上がると、フランシスは数歩前に出て彼女の部屋の扉を開けた。
「お嬢様、少し部屋でお待ちください。何かありましたら私の頭の中に直接話しかけていただくようにお願いいたします。すぐにかけつけますので」
フローラは前回の魔法の授業で習得した覚えたての術を使うことに不安を抱いたが、強がって頷いて見せると、自分の部屋へと入った。
少し肩を張った後ろ姿を見て彼女が不安がっていることに気付いたのか、フランシスは少し微笑んで見せる。
「大丈夫ですよ、扉の外には兵がいますし少ししたら侍女も来ます。」
「わかってる」
わかっていると言いながらもこわばった表情をする彼女に呆れた顔をしながらも、目元に柔らかい表情を浮かべフランシスは部屋を出ていった。
誰もいなくなった部屋で、フローラは連れてきた小鳥を自分の座る椅子の手すりに乗せた。
彼女は先ほどの地震が起こった直後から、不穏な空気を感じ取っていた。
生まれつき魔力が高いためか、稀に予知夢を見たり空気の流れを感じ取ることがあったが、最近はあまりなかった。しかし何度周りの空気を感じてみても彼女の感覚に間違いはなく、以前と同じように力が彼女に不安を訴えていた。
体と心が成長するにつれて予知は少なく、そして穏やかなものへと変わっていたが、今回はとてもはっきりとした重く暗い空気であることがフローラには分かったのだ。
手すりに止まる小鳥はぴょんと跳ね、フローラの膝の上に落ちる。
彼女は小鳥を両手で包むようにすると、少し顔を近づけた。
「ねえ、なんだか気分が悪くなる空気よね。不安だわ。お婆様がお亡くなりになられたとき位……ううん、もっと暗い空気が流れているの」
「……ピピピッ、ピ?」
「絶対に何かあるわ。フランシスには空気の流れを察知したことを言わなかったけど、これは明らかに怖いことがある空気の流れだもの……心配だわ」
暖かさと強い魔力の流れるフローラの存在に安心したように体を丸める小鳥は、彼女の両手の中で小さく首をかしげる。
フローラはそっと目を閉じて、その予感をもっと詳しく掴もうと意識を集中させるが中々うまくいかない。
何かが自分の力を遮るような感覚に囚われて、一定の場所から先に進むことができないのだ。
何分かそうして粘ったが、やはりどうにもならず、深い溜息と共に背もたれへと体をあずけた。
コンコン
「お嬢様、アリエルです。入ってもよろしいですか?」
ノックの音に急いで姿勢を正したフローラは、扉の外の人物が名乗ったのと同時にまた姿勢を崩す。
アリエルはこの家に仕える侍女の一人だった。フローラは侍女の中で最も彼女の事を信頼していて、そして何より二人はお互いの事をよく理解しあう仲だった。
「ええ、もちろん」
フローラの答えに扉はゆっくりと開き、柔らかくうウェーブした髪が見える。
小さな体で必死に扉をあける姿に、内心魔法を使えばいいのにと思いながらもその可愛らしさに一時不安を忘れる。
「お嬢様、紅茶を作ってきました。最近発見された癒しの効果がある茶葉で作ったので、落ち着くと思いますよ」
「一人は寂しかったの。あなたが来てくれてよかったわ。紅茶もとてもいい香りね」
「えへへ……そう言われるとなんだか照れます、お嬢様」
そんな他愛のない話をしながら紅茶を中に運び込むアリエルを見つめる。
小柄で精霊族と魔族のハーフである彼女は、純魔族で他の種族の血が入らない自分と違って穢れの無い美しい髪を持っている。
彼女の髪はとても穏やかな淡いベージュで、その美しさは何千年も前にこの地に存在したという「天使」に近いものがあった。
その髪色と小柄で天然ながら、いざとなるとしっかりとした態度をとる彼女を見ているうちに、今も感じ続けている『不幸な未来』の不安を思い出し、彼女にならと思い口を開く。
「ねえ、アリエル。少し聞いてくれるかしら?」
いつもは、上品に笑いながら可愛い悪戯を仕掛けてきたり、自分のことをきつく抱き締めるフローラに暗い表情が浮かんでいるのを見て、アリエルの体は少し強張り顔は引き締まる。
「お嬢様、何かございましたか?顔色が悪いです」
いつの間にか窓際へと飛び立っていた小鳥が、彼女の肩に戻ってくるのを見ながら、そう問いかける。
「実はね、久しぶりに酷い悪夢の予感がするの。ほら、小さい頃はもう少し頻繁に感じていたでしょ?明日起こることだとか、少し先の悪いことだとか」
アリエルはフローラより五つほど年上だ。長い時を生きる魔族にとっては二人とも赤子でしかない年齢ではあるが、小さいころから頭脳は発達しており、アリエルは予知の事をもちろん覚えていた。
その予知がどのようなもので、実際にどんなことが起こったのかも鮮明に覚えているのだ。
彼女自身、自分が皿を割って怪我をすることを小さなフローラに予知されたことがあるため、フローラが不安がる心を理解することができる。
また彼女の今の言葉で自分も若干不安になっていた。
ただ、いつもは気丈なフローラが落ち込んでいるのをみると、そうは言っていられない。
「お嬢様、どうかご心配なさらないでください。もしお嬢様に何かありましたらきっと私が守って見せます!フランシス様もいらっしゃいますし大丈夫ですよ」
温和で少し気弱な彼女だが、フローラに心配させまいと声を張り上げながら言い切り、にっこりと笑った。
そんなアリエルの様子に自分に気を使っていることを感じたフローラは、暗い顔をやめて顔を上げるとクスクスと笑った。
「お、お嬢様、笑わないでください、なんだか恥ずかしくなってきます」
笑われたことに右往左往しながら、アリエルは頬を赤く染める。
内心少しほっとしながらも、一瞬でも主人が暗い顔を見せたことがやはり心配になり、ちらちらと横目で見ながら体の前で組んでいる手で遊びはじめる。
フローラはそんな彼女の様子を感じながらも、特に気にせず温かい紅茶に口をつけた。
透き通る赤の色が揺れるのを見ていると、小鳥がしつこくフローラに擦りよる。
その様子を見ていると、彼女はハッとした表情を見せアリエルに向き直った。
「ねえ、アリエル。この子ね、さっき庭で遊んでいたところを連れてきたんだけど……これから飼おうと思っているの」
「飼われるのですね。檻の用意をしましょうか?」
返事の前に部屋の扉を開けようとするアリエルに、フローラは苦笑してその手を引く。
「ううん、まだここで遊ばせてあげるんだけど、名前を付けたいのよ」
「そうでしたか」
自分の早とちりに少し恥ずかしそうに部屋に戻ると、フローラが自分の隣の柔らかそうな生地と素材でできた椅子をすすめる。
アリエルが部屋に来た時に、二人椅子に座って話をするのはいつもの流れだったため、素直に示された椅子へ向かった。
「失礼いたします……。それでお嬢様、一体どんな名前をつけられるのです?」
アリエルが静かに椅子に沈む。
ふわふわとしたその感触に気をとられながらも質問すると、フローラはいきなりアリエルの手を強く握った。
「お、お嬢様?どうなさったんです?」
「アリエル、私今まで沢山の動物と友達になってきたわ……。」
「え、ええ。そうですね」
「だけどね、どの子も私のつけた名前じゃ振り向いてくれないの!」
アリエルはそうだったと顔を顰める。
フローラは異常なほど動物に好かれるが、彼女が名前をつけても動物たちはその名では振り向かないのだ。
ただ気まぐれによってくるか、彼女が心から必要で、その心の奥底から呼んだときにしか返答をすることはない。
困った顔で口を開いたアリエルの言葉を、フローラが聞こうとしたその時だった。
ゆっくりと木製のドアが開く音がした。
その音にフローラがそちらを見たときには、彼女の視界は暗転していた。
薄れゆく意識の中、やけに遅く床が迫ってくるのを感じる。
そしてその耳には、甲高いアリエルの悲鳴が聞こえた――――。