第一章 悲劇
月明かりに照らされる深い森の奥を、大きな足音をたてながら女が走る。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
息を荒くしながら、汗を散らしながら、走る……走る……。
後ろから追ってくる黒い影から一心不乱に逃げ続ける。
生まれて一年にも満たない赤子を、その胸にしっかりと抱いたまま、前を見据えて。
高い背をした木から、先ほどまで降り続けていた雪が彼女の上に落ちてくるが、それさえも気にせずにひたすら逃げ続けた。
何があっても止まることは出来ぬとかれこれ二十分ほど走り続けていたせいで、その体には酷く大量の汗をかいている。どうやら体力も限界らしいが、精神の力だけで長く深く広い森の中の、自らの身に覆いかぶさってきそうな不穏な空気を纏った木々の間を、彼女は逃げ続けていた。
しかし、彼女のそんな様子とは裏腹に、追いかけてくる男の額には汗一つなく、息さえ上がっていなかった。
「……あっ」
ザザッ
目に入った汗をぬぐったその瞬間。
拳大の石に足をとられ、彼女は月に照らされて輝く雪の積もった地面に、胸に抱えた赤子ごと伏せてしまった。
その間に、男は彼女に追いつき、隣に静かに立った。
赤子を庇いながら、彼女は鋭い目つきで男を睨みつけるが、上から彼女を見下ろす男は何の反応も見せない。
「何のために私を追うのですか。どうしてこの子を連れて行こうとするのです?」
正体の分からぬその男は、問いかけに答えない。
長い間彼女の細い腕の中で揺られてきたにも関わらず、泣き声ひとつあげずに眠り続ける赤子をじっと見つめていた。
体力の限界を迎えたにも関わらず走り続けていた足は、一度その歩みを止めたことでもう動きそうになく、彼女はただ唇をかみしめた。
そして激しく息をつく間に、再度問いかけた。
「あなたは一体何者なのですか?」
「……それを口にすることは出来ぬ。だが、わが主の命により、その赤子を貰いうけなければならない」
この男がこの国の首都から遠く離れた辺鄙な村に突如やってきて、自分の子供を連れ去ろうとしてから約一時間。
彼女は初めて聞いた男の声に、本能的に身をすくませた。
まだ幼さの見える顔立ちから感じる若さと美しさからは想像も出来ない、重く冷たい無機質な声だった。
震える体に力を入れなおし、もう一度男の瞳を見つめる。
「逃げるな。ここまで来るのにそうだったように、私は魔力を使うことを好まない。抵抗しなければ危害は加えない」
「それは出来ません」
「どうしても出来ぬと言うのか」
「赤子を手放して一人逃げかえることなど、母なら出来るわけがないでしょう!」
「……しかたあるまい。それなら無理にでも連れ去るまで」
そういうと、彼の口から小さな声が漏れだす。
それに気付き、彼女は立たぬ足の代わりに片腕を使い、思い切り男を突き飛ばした。
不意を突かれた男がぐらりと揺れるのを見計らい、彼女は這うように地を移動し少し距離をとり自らも呪文を口にしだした。
男はゆっくりと立ち上がると、彼女の背後へ移動する。
立ち上がる動作からは想像もつかない速さで手刀を振りかざすと、女の首元へとそれを振り下ろした。
まずい
空気の動きに気づき、その流れ避けるように頭を下げると、ぎりぎりのラインを手が通り過ぎていく。
必死で避けたその直後、立たなくなった足に強化の呪文をかけ終わる。
最後の魔力と気力、そして体力を使った呪文。
もう一度、足に力を込め、問題ないことを確認して立ち上がる。
だが、ゆっくりとしている暇はなく、男が間合いを瞬時に詰める。
足をひき、体を反らしそのまま今度はもう一度足に力を込め、地面を蹴る。
「待て。」
男は小さく言い、また口の中で呪文を唱えだす。
彼女は暗闇をまた走りながら、自分の横を通り過ぎる木の枝を掴み、それを折る。
一瞬だけ後ろを向くと、それを男に向けて投げつけるが、その些細な抵抗はあっさりとかわされてしまう。
「セドリック……セドリック助けて……」
ここまで逃げる間に、強化や攻撃で使い切ってしまった自分の魔力の残骸を探そうとその力の源を探るが、どうやら少しも残ってはいないようだった。
我が子一人抱えて逃げることの出来ない自分の弱さと、魔術の知識の無さを酷く呪いながら愛しき者の名を呼ぶが……彼は来ない。
後ろの男の呪文詠唱はまだ続いている。
冷や汗が頬を伝い、溢れそうな涙を抑えて、必死に頭を回転させる。
何か、何か方法を見つけなければならない。
しかし、彼女が新しい逃亡の方法を見つける前に、後ろから聞こえていた詠唱は止まり、男は彼女の前へと移動していた。
「これもわが主の命令。悪く思うな」
「何を……っ!」
体が急激に重さを増し、赤子を抱えたまま膝をつき、とうとう倒れこむ。
手も足も力は入らず、視界も思考も靄がかっていてはっきりとしない。
指一本さえ動かず、意識が遠のいていく中、彼女は自分に覆いかぶさり赤子を取り上げる男を見た。
そして……絶望の中意識は途切れた。
暗闇に光る雪とその上を覆う木々が、悲哀の音を鳴らすように唸った。