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人ならざる者(後編)

作者: 愛宕順
掲載日:2026/07/30

人ならざる者(後編)


天界始まって以来の快挙を成し遂げた姫様ディールも、すでに18歳を迎える頃にまで成長していました。


毎日の大好きな日課は、城の中にある「大きな水鏡の広間」にて、神獣である金色の猫と共に下界の様子を眺めることでした。

水鏡に映る下界の人々の生活や、賑やかな市場、祈りを捧げる礼拝堂。時にはお祭りがあり、人々は一晩中、音楽が流れる中で踊り明かすのでした。


そのなかでも、姫様が最も目を奪われ、愛してやまないものがありました。

それは、人々が汗水を流し、汚れた衣服など気にも留めず、何もないところから何ヶ月もの時間を費やして一つのものを創り上げる――あの、コツコツと紡ぎ上げる力でした。


姫様は、水鏡に映る物作りの匠たちの技を、いつもドキドキ、ワクワクしながら見つめていました。人間の生は短く、たとえその人が一代で成し遂げられずとも、その技術は次の後継者へと伝わっていきます。素晴らしい技術が永遠に継承されていくその営みに、姫様は言葉にできないほどの美しさと憧れを感じるのでした。


ある時、姫様はその人々の技術や営みを間近で感じ、触れ合いたくなり、金の猫と共に下界へ降りることを決意しました。


大気に紛れて下界へ降り立った姫様と金色の猫の姿は、やはり人々の目には映っていませんでした。すれ違う人々にどれほど声を掛けても届かず、人々はただ「優しい風が吹き抜けた」と感じるだけだったのです。

姫様は何度も街を巡り声を掛け続けましたが、答えは返ってきませんでした。


疲れ果て、祈りを捧げる人々が集まる礼拝堂へと入った時のことです。地にひれ伏す人々の間を通っていると、その中に稀に、自分の姿を目で追う人が現れました。

(私が見える人がいる――!)

嬉しくなって微笑みかけると、その人は奇跡を目にして涙を流し、さらに深く手を合わせ祈りを捧げるのでした。


それから姫様は幾度も地上に降り立ち、人々の生活や物作りの現場を見つめました。

共に喜びを分かち合い抱き合う姿、寒い日に母親の胸で安らかに眠る子供たちの温もり。人間や地上の動物には、その営みを生み出す「肉体」という器が存在していました。


姫様は想像します。もし自分に肉体があったなら――。

「水はどんな感触なのだろう?音や匂い、火の熱さや、繋いだ手の感触。溢れ出る涙は……痛みとは、温もりとは何なのだろう。自分自身の肌に触れた時の感覚とは……」


姫様は「人間」という種族に強く惹かれ、その探究心は、いつしか人間に転生することをも考えるほどに膨らんでいきました。


その様子を、王様は静かに見守っていました。姫様が、いずれ自分に何を話してくるのかを待っていたのです。


その瞬間が訪れたのは、数日が経った昼下がりの午後でした。


「お父様、私は下界に住む人間になりたいのです。肉体を持ち、儚く限りある命の中で、何もないところから自ら紡ぎ出す喜びを知りたい。人同士が触れ合う感覚を共有したいのです。」


王様は静かに言いました。

「下界に降りた者は、もう二度と天界には上がれない。人間になると言う事は、今持っている全てを捨て、人という種族に生まれ変わる事を意味するが……それを分かった上で言っているのかい? ディール、お前は私の後継者であり、天界で最も大切な存在なんだよ。時間はたくさんある。よく考えておくれ…。」


しかし、ディールの決意は、揺らぎませんでした。


「お父様、私の決心は変わりません」


ディールは優しく微笑み、王様を見つめ直しました。

「完璧な美しさや永遠の命ではなく、泥に汚れ、陽に焼け、悩みながらも懸命に生きる人間になりたいのです。髪は短く、顔には太陽の痕跡のようなソバカスを。背が高く細身な、どこにでもいる人間として、この世界を自分の足で踏み締め歩いてみたいのです。」


その強い意思を感じ取った王様は、寂しさに目を閉じながらも、愛おしそうに我が子を抱きしめ、頭を撫でながら、その選択を静かに受け入れました。


ディールの側に寄り添っていた金色の神獣は、その美しいピジョンブラッドの瞳を細めると、自ら眩い光となって小さなルビーのペンダントへと姿を変えました。ディールが人間となり、いつか再び絆を思い出すその時まで、胸元で静かな眠りにつくことを選んだのです。


「行っておいで、私の愛しい娘よ、どんな姿になろうとも、父はお前を愛している。」


王様の温かい手に見送られ、天界の光が遠のいていきます。


――次にディールが目覚めた時、そこは下界にある小さな修道院の扉の前でした。

冷たい夜の風と、自分を包む温かい布の感触。胸元には、赤く静かに輝くルビーのペンダントが重みを持って存在していました。


翌朝、扉を開けた修道女シスターは、かごの中で小さく丸まる赤ん坊を見つけて息を呑みました。

誕生したばかりのその子は、愛くるしい茶色の巻き毛を持ち、鼻の頭には小さなソバカスが散らばっていました。


シスターがそっと抱き上げると、赤ん坊は元気な産声をあげ、それはもう天候を操る神の力ではなく、この世界で一人の人間として生きていくための、力強く、温かい命の産声でした。






 


 




 


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