第05話 頃合い
ランキエールの屋敷の自室で、私は紅茶を飲みながら新聞を読んでいた。
実家から送られてきた王都の新聞だ。
その日──王都では十日前になるが──の一面は
『聖女ミレイユがクレロンヌ王国の大使を打った』
とのことだった。
経緯からするに、大使が言葉遣いを間違えたということがきっかけだそうだが、アドリアン殿下が二人を執成すのではなく、聖女を過度に庇ったことで、事態が大きくなったそうだ。
まあ、大使が迂闊で聖女と殿下が愚か、ということならそれでいい。
各国の政治家にもそれぞれキャラクターというものがあるし、こういった、外交の内容にまったく関係ないような類のことは、それぞれ未熟であったという落としどころを探せる。
ただ、私はその大使の名前を知っていた。
──あのおちゃらけたセクハラジジイか。
彼は先代のクレロンヌの宰相の息子だ。知略に長け、あらゆる言語を熟知しており、その上で無知で有害な中年男を演じる節がある。
あのジジイが言葉を間違え、王太子妃になる見込みの女から信頼を失うような失敗をするはずがない。彼はおそらく、聖女ミレイユがそういう人間だとわかったうえで、狙いをもって打たれに行った。
なら、その目的は?
大使が愚かな聖女と王子に糾弾されたことを口実として、行いたいこととは?
断定は禁物。しかし、情報の伝達に数週間かかるこの地では、予防線に予防線を重ねて張った行動で、ようやく王都の連中と渡り合える。
「──そろそろ、動かないとね」
***
一人の執事兼護衛を連れ立って、農場の脇道を歩いていく。
ランキエールに来てしばらく、私はとにかく、土地を散歩することを徹底した。
急遽決まった嫁入りということもあるし、屋敷側も私を受け入れる体制がまだまだだ。日中は屋敷にいないことが却ってありがたがられることも多いし、何より、私自身も誰がどの陣営にいるのか、そもそもランキエールとはいかなる土地なのかを理解せねばならない。
そして結論した。
この土地は、やれる土地だ。
内陸部だけあって鉱産資源も豊富。北の海は遠いが、想定より山脈の標高が低く雨雲が遮られないために降水量もまずまず。
川もあるおかげで土壌も悪くない。実際に掘ってみないとわからないが、生き物の死骸が積もっているのか、使われていない養分の気配すらある。
この土地がなぜ未開の地であったかといえば、それは偏に魔獣と異民族によるところなのだろう。
外敵が多い環境では産業は育たない。人は肉を食い、戦い、知恵よりも体を膨らませる。
手始めに、この農場からだと思った。
ひと月ほど、散歩のたびにわざわざこの農場を通り、農民たちと話をした。王都から来た人間は珍しいから、物珍しそうな顔をしている子供や、素朴な女から始めていけば、会話自体は案外むつかしくない。
「ねえ、ヴィヴィエンヌ様。王都の麦って、甘いの」
「甘いわ。粒が大きいの。でも食感があなたたちに合うかはわからないけれど」
「えー、でも、食べてみたいなぁ」
「一度育ててみればいいんじゃないかしら。でも、湿地が必要なのよねぇ。たとえば──」
そろそろ、頃合いだ。
目を付けていた丘を指して切り出す。
「──ほら、たとえば、あのあたりとか、濡れてるように思わない?」
私はそれを、後ろに控えるある男に聞こえるようにした。
「ついに尻尾を出したか、嬢ちゃん」
どっしりとした男が立ちはだかり、私と話していた民との間に立ちはだかる。
壁のようだ。体の大きさだけなら、ランキエール侯爵よりも上だろう。
「あんた、己らの仕事に口出しするつもりだね?」
彼の名はカイル。
この農場の主、ランキエールの農業を司る大農の息子だ。
「ランキエールはランキエールのやり方がある。嬢ちゃんのようなよそ者に指図されるほど、己らも無駄に生きてきたわけじゃねえ」
「あらあら、私、そんなつもりはなかったのに」
「白々しい。あのあたりを田にすることは考えたことがあんだよ。だが、土地が高くて水を引けねえ。水ってなぁ重いんだ。ランキエールの大男たちでもどうにもならんほどにな」
それにだ、と彼は続けた。
「ここはな、日がな一日水を運んでられるほど、安全な土地じゃねえんだ。」
彼はぐん、と私に顔を近づけて、隣の地面をどん、と叩く。
地が揺れる。地震かと思う。私はブーツを踏みしめ、絶対によろけないように耐える。
見守ってくれていた執事が慌てて私を引きはがそうとする。
しかし私はそれを手で制して、一歩も動かずこのカイルの顔を見返す。
「……あんた、本当にビビらねえんだな」
「元より膂力で殿方に敵うわけがありませんもの。一度覚悟を決めたら、どこまで図体が膨らんだって同じことよ」
今度は私の方が、それに、と言って続けてやる。
「最初から殴る気もなかった男に、何を慄く必要がありますの?」
絶対に目は逸らさない。
舐められていて提案などできるものか。
「ねえ私、王都式の水車の作り方を知っておりますの」
体格の有利不利は、その効力がないとわかった瞬間、精神の戦いに転移する。
◆◆◆
──トリスタン様。奥様が農場から帰ってきません。
魔獣の討伐から帰った折、そういう報告を女中から受けた。
もしや魔獣にやられたか、あるいは、農場の主であるカイルとトラブルに陥ったのか。
ランキエールは徹底的に実力主義の世界だ。領主の息子の妻といえど、本人の意思で見知らぬ土地をほっつき歩き、誰かの気分を害したならば、相応の報いを受けるべきだと考えられる。
無論、彼女の視察のための散歩も、止めはしたのだ。
だが俺では止めるに能わなかった。彼女は自分がよそ者であり、屋敷の中に居づらい空気のようなものを利用して、まんまと我が物顔で外に出始めたのである。
初めての土地と屋敷で、疎まれているのに我が物顔をできるとは、これ如何に。
しかし、恐れていたことが起きたかもしれない。
俺は駆けた。そして農場に到着するなり、民の一人に聞いた。
「ヴィヴィエンヌは、俺の妻はどこにいる」
民は北の方の丘を指さした。よく見れば人が集まっている。
そこに行く。農場の主、カイルもいた。
ただ、彼は腕を組んで立つのみで、ヴィヴィエンヌが何かをしようと見守っていた。
彼女はブーツを脱いでいるところだった。脱いだらそれを横に投げ捨てて、ドレスの裾を高い位置で結び、素足を露出させる。それから目の前の湿地に足を踏み入れ、一歩、一歩と進んでいく。
夕日を背に、彼女は途中で止まった。
それから軽くしゃがんで、指をぴっと泥に潜らせ、まるでスープの味を確かめるように、舐めた。
「カイル!」
呼び捨てだ。それを、農民たちも、あのカイルも受け入れている。
「伝統、慣習、大いに結構。ランキエールが育んできた作物こそ、この地にもっとも適した歴史の賜物でしょう。私ももちろん尊重するべきだと思うわ。でもね」
それから彼女は、自信たっぷりに言った。
「ここは、あなたたちが思っているよりずっとずっと、素晴らしい土地よ」




