第45話 干魃④
長い長い通路の中でミレイユを背負い、喉は渇き、腹は減り、意識は朦朧としていた。途中で蝋燭も尽き、明かりはなく、壁を伝って歩くばかりだった。
俺の背中の上でミレイユは、不安の中、ただ虚ろな表情で、それでいて眠ることもままならないようだった。
彼女はときどき、「また失敗した」だとか「どうしていいかわからないの」などと呟いた。
俺が大丈夫だ、まだだ、と言うと、ただ「ありがとう」とだけ言ってくれて、あとは力なく体を預けてくるばかりだ。できることなら彼女にも歩いてほしかったが、そうはいかないようなので、耐えるしかなかった。
時間の感覚としては二晩は超えただろうか。いつ扉の前までたどり着いたかも、よくわかっていない。
ただ、行き止まりの感触があって、道を間違えたか、分かれ道があったのかと悩み、それが扉だとわかるまで少しかかった。暗闇の中、俺は取っ手を掴んで、埃で詰まって乾いた喉をひたすらに震わせた。
「おい、俺だ!」
扉を叩く。取っ手を押したり引いたりするが動かない。
「王太子アドリアンだ! 開けろ! 俺だ!」
まもなくその扉が開いた。
久方ぶりの光で目が眩む。
見えたのは一人の男だった。
知らぬ男だ。しかし、腕章からするに王宮の直属部隊の隊員だろう。
「アドリアン、殿下ですな?」
「おお! いたか! ここは王宮の地下で合っているな!?」
「はい。レーンヴァルドで暴動が起きたことは、承知しております。背負われているのはミレイユ殿下で?」
「あ、ああ! 彼女も消耗している。早く!」
「確保しろ」
男は冷たい声で背後に言い、黒ずくめの隊員たちが俺たちを無理やり確保し、俺とミレイユを引き剝がした。
「や、やめろ! 無礼者! 俺を誰だと心得る!」
叫べど、彼らは何も答えない。
「ふざけるな! 王宮なのだろう!? 俺の家だ! 貴様らが好きにできると思うな!」
喉が割れんばかりに叫ぶ。
やはり返答はない。
そのうち俺は口に布を詰められ、連行されるように連れられた。
俺は、王太子である俺も見たことがない部屋──極秘の要人用の治療室らしい──に閉じ込められた。鉄格子がついており、見張りがいて、自由に行動も取れない。命令をしたとて、誰もそれに従わない。
二日ほど経ち、俺の体力が回復したころ、見張りの男に、
「王妃殿下が、お話をしたいと」
と言われた。俺はそれを、
「ミレイユと俺を同室にしろ。何も話すつもりはない」
と突き返した。
それからは、嫌みのように毎日、新聞が投げ入れられた。
俺はそれを読まなかった。ただ、目に入った字面には、レーンヴァルドで起きた暴動と、干ばつで苦しむ民の悲痛な叫び、というような、わざとらしいものばかりが並んでいた。
一週間が経って、なんと、本当にミレイユが同室になった。
俺は部屋に来た彼女を抱きしめたし、すぐに口づけをした。
だけれど彼女は何も答えないままで、ただ虚ろに、弱い力で抱きしめ返してくるだけだった。
それで俺はもう、限界だと悟った。
◇◇◇
「ようやく話を聞く気になりましたか、アドリアン」
俺は母上の居室に通された。意外なことに、部屋まで連れてこられたあとは見張りはつかなかった。
母上は座るように促してきたが、それには従わず、俺の方から先に問うた。
「……母上。ミレイユに、何をしたのですか」
「現在の状況と、干ばつについて、然るべきことを伝えただけです。拷問や尋問の類は一切していません」
「そんな言い訳が通ると思うのですか!?」
「事実ですとも。ただ、あの娘については未だにわかっていないことがあります。実際に何を考え、何で衝撃を受け、傷ついているのかは、あなたすら想像できていないはずです」
「だから! 彼女を傷つけるなど、俺が──」
「自分の状況がわかっていないのですか?」
心の底から冷え切った声で、母上は続けた。
「教会の醜聞によって王太子派は壊滅しました。レーンヴァルド領もあなたを追放して歓喜に湧いています。あなたはもはや、王太子であるというだけの罪人です。何の権限もなければ、従う者もいない」
あまりにも端的にまとめられて、俺は息を呑んでいた。
拳を強く握っていた。呼吸ができない。歯を食いしばっている。顔が熱い。
恥ずかしくてたまらない。怒りで打ち震えている。涙すら出ているかもしれない。
だが、言われたことを否定などできなかった。
体験したすべてのことが、母上の言っていることを事実だと語っていたからだ。
「まずは聖女ミレイユと離縁しなさい。彼女の評判は地に落ちています。あれではもはや王太子妃、ひいては次期王妃足り得ない」
母上は黙り込んだ俺を見て、そう切り出した。
「せ、聖教は離縁を禁じているはずです!」
「その聖教の威信が、例の醜聞によって地に落ちています。今なら王権が優越するでしょう」
「それは! 父上と母上が、教会と手を切りたいだけでしょう!」
「……否定はしません」
「なら俺も応じない!」
「あの娘のためにも言っています。もし仮に彼女を王太子妃の座に留め続けたら、いずれ怒り狂った民衆、聖教徒、そしてかつて王太子派だった諸侯の恨みも買うでしょう。一度離縁をして周囲の溜飲を下げない限りは、命の保証はまったくできない。今後穏やかな生活を送れることもないでしょうね」
離縁、と母は言った。
考えたくはなかった。誰よりも愛しいミレイユと離れたくはない。彼女は俺が幸せにするはずだった。
けれど俺がその関係に拘泥した結果、彼女が不幸になるというのなら、他に選択肢はない。
もはや譲歩するしかなかった。
彼女が生きていてくれるのなら、愛することはできるから。
「それで、事態が済むのならっ!」
「まさか。あなたは自身の罪を少なく見積もりすぎです。まだ干ばつのことが残っています」
だが母上は、譲ってなお、無慈悲にも話を途切れさせない。
「あなたは聞く耳持ちませんでしたが、去年の秋の段階で、諸侯に干ばつの予兆は周知していました。それに伴って可能な限り備蓄を増やしたものの……あなたにアンジュー領とシグリッド領を取られたのがあまりにも痛かった。あなたが農業に水を使い過ぎたせいで川の水位が下がり、王都近辺の水運も麻痺しています。このままでは餓死者が出る。暴動は各地で起きていますし、その鎮圧に兵力を割いたせいで、隣国との緊張関係も揺らいでいる」
甘んじてその指摘に耐える。
認めたくはなかったが、それも叶わない。母上は反論は許さないとばかりに、滔々と語るのみだ。
「……ですが望みはあります。あなたたち王太子派の手が及んでいない地方、特に東部の内陸地域の勢力にはまだ余力が残っているそうです。そしてその地域は丸ごと、王都に依存しないまま、ここ二年で急激に独自の交易網を形成しました。それは今も機能しており、彼らの助けがあれば、あるいは王国は干ばつを乗り切れるやもしれません」
──東部の、内陸地域?
「問題はその地域の勢力とあなたに、因縁があることです」
俺は母上が何を言わんとしているのかを理解した。
「王宮が差し出せる物に限りがある今、あなたは過去に犯した愚行の清算をせねばなりません」
それだけは、何に代えてもしたくないことだった。
俺の脳裏に、あの女の、俺を見下しせせら笑う、意地の悪い顔が浮かぶ。
先ほど乗り越えたはずの怒りが再燃する。
血が、沸騰するようだ。
「ランキエールに行きなさい」
母上は通告するかのように、そう言い放った。
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