第40話 侍女頭の結婚②
──やってしまった。
何もかもを台無しにする浮遊感の中、私は即座に後悔しました。
時間がゆっくり流れます。投げ飛ばされたカイル(投げたのは私ですが)と引っ張られた私は、司祭様(逃げておられます。間に合いそうですかね。良かった良かった)と母なる石を砕かんばかりに高い位置に浮いていて、もうあと幾ばくもなく大惨事が訪れるでしょう。
空中、結手の儀で結ばれた左手を伝い、右手を経て、驚いた顔のカイルが目に入ります。
ああ、カイル。
こんな私の夫になると言ってくれた、カイル。
これから私の夫になるはずだった、カイル。
どう詫びていいかもわかりません。来賓を押し潰さないだけマシだと考えましょうか。しかしながらランキエールの民が守ってきた母なる石が割れてしまっては、結婚式どころではなくなります。
そもそもが私には、何もかも、過分な幸せだったようにも感じます。
そんな私の泣きそうな顔を見て、カイルはくしゃっと顔を綻ばせ、
──しょうがねえなあ、おめぇは。
と言いました。
それから、なんと彼は、その巨体では信じられないほど軽やかに、すぐに空中で体を翻したのです。
落下が始まります。私は上で、カイルが下。向かい合っています。彼は大きく太く長い右腕をするりと伸ばし、私の体を反転させ抱え込み、左腕で体全体を支えるようにしながら、私を包みました。
さながら、さっと横抱きにされた、姫君のごとく。
そうして彼は、誰も傷つけないまま母なる石の前にどしんと降り立ち、なんでもないふうに呟きました。
「ふぅ、危ねぇ危ねぇ」
母なる石がちょっと揺れます。
一時避難していた司祭様は改めて私たちの前に駆け寄ってきて、そして、カイルの腕の中に抱かれる私に問いました。
「花嫁よ。汝は、神と精霊と人々の前において、この男子と離れぬことを、誓うか」
司祭様も荘厳な調子からは外れて、微笑んでいます。
それで「汝」という言葉と、「この男子」という言葉が別々に際立って聞こえ、遅れてようやく私は今、皆の前でカイルに抱かれているということと、彼のおかげで、私の大失態がどうにかなかったことになったのだとわかりました。
私は彼の腕の中で答えます。
「ち、誓います」
来賓から歓声と、拍手が沸き立ちます。
緊張などはもはや、膨大な深くてゆっくりとした愛の中で、小さく溶けていました。
***
婚礼の宴は、冬が明けてからずっと準備していたロゼットとカイルの両家の大盤振る舞いで、ランキエールの民の誰もが大いに酒に酔い、踊り、二人の結婚を祝福していた。
私も、王都の終始荘厳な披露宴とは違う、手回し弦盤の音楽に合わせて繰り広げられる伝統舞踊に感じ入る。個人的にはこのように感情を弾けさせる催し事の方が、祝い事らしくて良いと思う。
あと、出されたランキエールの伝統料理の中で気に入ったものがあった。
そば粉生地を薄く広げ、片面だけ焼いたものだ。それに好きな具材をのせ、正方形に折りたたんで食べる。塩を入れれば主食となり、砂糖を入れればお菓子になるのだとか。ガレットと言うらしい。
──これ、他の領地にも売れるかも。
などと考えていたら、ロゼットがカイルと共にまた前に出てくる。
今度はロゼットが腕に、果物でいっぱいの籠を持っている。
「何かしら、あれ」
尋ねると、隣のトリスタンが答えてくれる。
「恒例のやつだ。季節の果物の中に、今は杏子か、一つ黄色い、色味の違うものを混ぜてな。それを来賓にばら撒くんだ。黄色い果実を受け取った者が、次に結婚すると言われる。毎度争奪戦になるぞ」
「へぇ」
二人は大きな手で籠の中の杏子を握りしめ、ばっと来賓にばら撒く。
……カイルの方は加減がわかって、適度に撒けているが、ロゼットが相変わらず緊張しているのか、あわあわとしながら、照れるたび力の制御が効かず、殺人的な速度で果実を空に放っている。一部の杏子はもう鳶の高度くらいまで上がっていた。
だがランキエールの者共は楽しそうだ。みんなやいのやいの言いながら、落ちてくる杏子を受け止めたり、打ち返したりして、飛び散った果汁を受けて笑っている。
そうして空に浮かんだ杏子のいくつかが、私たちの方にも来た。
ぎゅんと私の頭の上に迫りくる。
困った。私はボールを取ることがてんで苦手である。
それを、トリスタンがパシッと手で受け止めてくれた。
人々の、特に娘たちの視線が集まった。
妙だと思ったら、トリスタンは自らが受け取った果実を確認して、
「……お、これが当たりか」
と言う。見ると、今回の黄色い杏子は私たちのところに来たようだ。
おお、と歓声が上がった。
「この場合、どうしますの?」
「さぁ……まあ──」
トリスタンは果実の皮を手早く剥いて、半分に割り、私に渡してくる。
食べる。
甘酸っぱい。
「──そのうち、式もしないとなぁ」
トリスタンがそう呟いたのを聞いて、確かに、そういえば私たちの式をまだしていなかったことを思い出した。
それから新郎新婦による、それぞれのテーブルへの挨拶回りが始まる。
私たちのところに来ると、まずはロゼットが、
「奥様にはもう本当に、なんとお礼を言っていいか」
と恐縮した。
「気にしないでロゼット。それとカイルもね。あなたたちにはこれからよりいっそう、働いてもらうんだから」
新郎新婦は恭しく頭を下げる。
私たちも、ロゼットの上司、そして領主の息子夫婦としてきちんと礼を受け止める。
次に口を開いたのはカイルだ。
「農場も嬢ちゃんの……いや、奥様のおかげで大豊作だ。もともと畑がちいちゃかったにしても、三倍はすげえ」
彼は向こうの農場で青々と茂る小麦を見て続ける。
「今年は更に増産か?」
私は少し、言葉に詰まった。
祝いの席で言うべきことだろうか、と考える。けれど、嫁を娶り、これから大農としてランキエールの農業を引っ張っていく彼には、敢えて今こそ伝えるべきことだとうと考えなおす。
「いいえ。小麦は減らします。そして、減らしたぶんを豆とそばに充てるつもりです」
彼にはそれだけで伝わったようだった。
「……もしかして嬢ちゃん、去年からずっと、準備してたのかい?」
「ええ。秋には領民に周知します」
──いよいよ来年、干ばつが、来る。




