第38話 ランキエールの春
雪は小麦の毛布という言葉の通り、今年の冬は軽く雪が降り、小麦の芽の保温にちょうど良い塩梅になった。
麦踏みのたびに分げつが進んで穂になる部分が増え、今まで耕作していなかったぶんの養分を土から吸い上げ、春の急成長への期待は高まるばかりだ。
そして春になれば実際に、そのようになった。
今日はカイルがいないので、護衛にトリスタンを伴って、青々と育つ小麦畑の間を歩む。小高い場所にも去年に建てた水車のおかげで水がどんどんと送り込まれ、温かな日光と併せ、麦は今にも成長しているようですらある。
私はそれぞれの畑に行くたび、腰に付けた印と麦の高さを照らし合わせ、その高低をチェックしていく。どれも基準をちゃんと超えていて、あとは穂を付けるだけだ。
ランキエールの領民たちもよく水を撒き、去年の苦労を噛みしめているようだった。
道中、いつもはカイルの肩に乗って楽々移動しているので気付かなかったけれど、田畑の間にはランキエール人仕様のけっこうな段差があった。そこを越えるのは一苦労なものの、あくまでただの一苦労というところ。けれどトリスタンは毎度、
「ほら、お手をどうぞ」
と言って手を差し出してきて、あまつさえ、手を貸しても歩幅が足りないようなところは、さっと横抱きにしてきたりする。実際問題私の脚では越えがたい段差はあるので、助かることは助かるのだが、領民の目が痛い。
──あらまあ、若様のご夫妻はたいへん仲が良いのね。
だなんて視線を注いでくる。トリスタンは一度私を横抱きにすると中々降ろさなかったりもするので、
「……トリスタン、その、これは少し、恥ずかしいのですけれども。降ろしてはくれませんか」
などと抵抗してみたりもする。
「いや失礼。軽くて気付かなんだ。……しかし、嫌か?」
「その、嫌では、ありませんが」
ああもう、きっとわかってやっているのだ。
なんだか悔しくなってきたので、言い返してみる。
「これではまるで、身重の妻のようではありませんか」
「ぶっ……」
トリスタンはあえなく吹き出して、ようやく私を降ろしてくれた。
服が少し乱れてしまったので、麦の背丈をちゃんと見るためにも、しっかりと整える。
するとまた彼はまじまじと、作業着を着ているだけで化粧もしていない私を見つめて言う。
「今日も綺麗で、可愛らしいよ、ヴィヴィエンヌ」
「ぐっ……」
なんだか、王都から帰ってきてから、トリスタンはずっとこの調子なのだ。冬で外出が少なくなった折にはもう大変だった。
聞いてみれば『素直に思ったことを口に出すことにしただけだ』とのこと。
……正直、悪い気はしていない。
***
屋敷に戻ると、二階からドスドス慌ただしい巨漢の足音が響いていた。お義父様のものだ。
本格的にドルナクとランキエールが手を組み、また、王権の庇護の下、交易を行えるということで、最近のお義父様は日がな一日対応に追われていた。
やることは山積みだ。
まずはランキエール以北の領土の主との、河川の使用許可の話。国王陛下が許可をしたとてただ強引に船を通すだけでは関係も悪化するので、あくまで穏便に、代わりに国王が提示した交換条件なども併せて、水運業者とよくよく打ち合わせをせねばならない。
また、今回褒美としてもらう船の選定も一苦労だ。干ばつが起きるなら川の水位は下がるし、それでも使える船であったりだとか、あるいはもうちょっと北の河港を使わせてもらうか等も判断せねばならない。それは無論、ドルナクがこれから使える港湾の場所、時期も鑑みて、だ。
褒美は私が選んだ以上、私もお手伝いをしているのだが、やはり返事は当主本人が書かねばならないので、直接の負担がもっとも大きいのはお義父様になる。
面目なかったが、心なしかお義父様も充実した顔をしている。
二人で階段を上がろうとしたところ、たくさんの紙束を抱えた侍女がやってきた。今日はロゼットがいないので、代わりの娘のノルウェンだ。
「これが、奥様にで、これが、トリスタン様にです」
抱えた紙束の四分の一は私に、そして四分の三がトリスタンへ。
夫婦の書斎(もともとはトリスタンの書斎だったが、一緒に作業することが増えたので私の机も運び込んだ)まで行って、各々確認する。
渡されたその場で読まなかったのは、ドルナクから来たものがあったからだ。
入っていたのはただの新聞。
しかし、王都の襲撃事件での褒賞を機に少し監視が緩まって、開封したものでも送れるようになっている。
「……これは、僥倖ですわね」
「何か良いニュースでも?」
「例の私たちが行った教会の地下通路は、大昔に作られた避難路ということで処理されたようです。しかし噂は広まりまして、教会の地下に関する都市伝説なんかも広まっているようですね」
「民衆の不信感の土台ができている、という解釈でいいか?」
「その通りですわ」
さらにこの新聞には仕組みがもう一つ。
記された誤字や印刷ミス、握られた跡などを辿っていけば、隠されたメッセージが浮かび上がるようになっている。
読んでいけば、当たりだ。
さすがはドルナクの諜報部隊。欲しい情報の核さえわかれば、別アプローチで聖女の情報が丸裸になる。
どうも、光の聖女に関する闇は思った以上に深いらしい。
読むところまで読むと、まるで連載小説のように『続報を待たれたし』とあった。この楽しそうな書きぶりはヴィクトールだろう。
「……で、トリスタン。そっちは?」
「まあ、いつもの通り諸侯からの挨拶と、武芸に関する依頼だが」
気まずそうに言うトリスタンの机に行って、手紙をそれぞれ確かめる。
王都に行ったあと一番大きく立場を変えたのは、実はトリスタンだったりする。
彼はそもそも社交界の中でも謎めいた存在だった。それが初めて諸侯の前に姿を現し、のっけからいきなりその美丈夫っぷりと圧倒的な強さを見せつけたので、そもそもある意味最前線で戦っている侯爵の息子として、非常に大きく注目を集めてしまったという顛末である。
来る手紙は大きく二種類。
第二から行くと、武芸に関することだ。
あの襲撃事件でトリスタンに命を救われた親衛隊からの感謝状も含め、ぜひあの戦闘力を我が領土の兵士にも授けていただきたいという諸侯からの依頼が多数。これは単にランキエールと親交を深めたいという意味合いもある。
そして第一に、令嬢たちからの恋文。
あの襲撃を防ぎ切ったトリスタンはたいへんに格好良く、タイミング良く目の前で襲撃者を倒されたりしたら、うぶな娘はそりゃあもう運命の騎士様に見えてしまったらしい。整えれば美丈夫だとは踏んでいたが、ここまで令嬢たちの反応が良いとは妻ながら想定外だった。
「うーん、毎度のことながら恋文が多いですわね。前回寄越してきた者に続いて二、三通目もあります」
宛名を確認しながら、返信が要らなそうな木っ端の令嬢の手紙はぽんぽんと暖炉に放り投げていく。
「ちなみにトリスタン、前回はなんと返しました?」
「『俺は妻帯者だからお応えできない』と」
試しに一枚の手紙をぺりぺりと開けて確かめてみる。
「これはどうも、『妻が俺と君を邪魔するんだ』と解釈されていますね。あと、そもそも愛人希望というものも」
「……左様か」
私が困り顔でいるとトリスタンは深く考え、良いことを思いついたと言わんばかりに、
「……じゃあもう、『俺は妻一筋だ』と書くか」
などと言ってくる。
もう恥ずかしくてたまらないので、私は『好きにして頂戴』とだけ言って持った手紙で顔を仰いだ。
「ただ、すまん、一枚だけ、そういう対応では済まなさそうなものがある」
「……また来たんですか」
「ああ。第八王女マリネットからだ」
トリスタンが差し出してきたものを受け取る。
内容はもう、よく読めば恋文なのだが、妄執的というか、下手をすれば不気味さまで感じる文面だ。
「これは改めて、王女には返信せず、王妃殿下の方に手紙を出しましょう」
「ああ、そうしてくれると助かる」
そうして二人でそれぞれ、並んで手紙と、山積みの書類を処理していく。
時折肌寒く、しかし窓から指す日光とまだ燻らせている暖炉の熱で温かい。隣でかりかりと鳴り続けるペンの音の安心感に、えらく落ち着いた春の昼下がりだ。
初夏に訪れる小麦の収穫の前の、穏やかな時間だった。
そしてこういうときに、領民の大事な行事というものも行われる。
明日はカイルと、うちの侍女頭ロゼットの結婚式だった。




