第30話 王都の夜①
俺たちが襲撃を防いだことで結婚式自体は執り行われ、無事に王太子アドリアンと聖女ミレイユの婚姻はなされたが、その後は婚礼自体が中断され、襲撃の調査が始まった。
俺たちランキエールとドルナクも王都を離れることは許されず、王家指定の宿屋にて、少なくとも数日の間は留め置かれることとなっている。
表向きは襲撃を防いだ英雄をもてなすため、ということにはされているものの、王太子の側近たちはこちらがボロを出さないか必死に探ってきていた。ドルナク家はただちに用意した万全の資料と情報の入手経路を示したが、俺たちは全員離れた別室を手配され、昼夜監視付きで、互いの会話も大っぴらには許されていない。食事も出されたもののみに限られるほどだ。
すべては予想されていた事態。耐える準備はできていた。
ただ、手持ち無沙汰ではあった。
特にやましいこともない以上、そのときまで、ずっとベッドに転がって天井を見るのみだが、そうしていると、思い出されるのはやはり、彼女のことだった。
武器もなしにあの戦場を飛び回り、大立ち回りを見せたあのヴィヴィエンヌの姿。
いったいあの小さな体のどこから、あの勇気と力が湧き出ているのか、想像だにできない。
そして殊更に鮮明だったのは、あの瞬間だった。
まだ自身の安全も確保されていない中、わざわざ死の際にいる敵兵の治療に赴いた、あのとき。彼女は確かに、
──ごめんなさいね。
と、そう言った。
王族を襲った以上、あの敵兵は処刑されるだろう。それを救うべき打算とは、あくまで情報の収集と、残った反王太子派の炙り出しのため、というのが、通り一遍の考え方だ。
だが、それだけでは、きっとない。彼女は謝罪さえした。
あの彼女の横顔が、日すがらずっと脳裏に浮かんで消えなかった。
彼女の器と、視座と、深い慈悲を思い知る度に、不安になってしまうくらいだ。
襲撃の件が一段落すれば、いよいよ王妃との面会がある。
予定通りにドルナク家は手柄を立て、王都での立場も良くなっていくはず。
その先で、彼女は俺のそばに──
頭を振った。今は考えても仕方がないことだ。
……あと、ちょうど今については、そう考えるのはたいへんにおかしい。
窓際のカーテンの方を見る。何も不自然なところは見えない。
もう宿に留め置かれて三日目。そろそろそのときが来ると見て間違いないだろう。
日が沈んでしばらく経って、部屋の扉がノックされた。
「トリスタン様。お飲み物をご用意いたしました」
扉の向こうから、女の声でそう聞こえる。
「……ずいぶん遅い時間だな」
「申し訳ございません。しかし、お水が足りなくなってしまったのではないかと」
言われて、今朝に渡された水瓶の方を見る。
確かにもう空だ。そして、思い返せばその瓶は昨日よりも小さかった。
「わかった。扉の前に置いておいてくれ」
「いえ、きちんとお持ちせよとのお達しですので」
俺は扉の前にゆっくりと歩み、警戒を解かないようにしながら扉を開ける。
見えたのは王宮付きの侍女のような女だった。
ただ、今日まで世話をしてくれた者とは変わっている。その女は薄暗闇では金とも茶ともつかぬ髪をしていた。手に持っている盆には水瓶と、何かの缶──茶筒のようなものだ──が載せられている。
「テーブルまで、お持ちしても?」
「わかった」
招くように扉を開け、その女は従ってゆっくりと部屋に入る。すると扉を閉めても構わないと促されたので、そのようにする。
サイドテーブルの上に盆を置いても、その女はすぐに去ろうとしなかった。元あった水瓶とコップを盆に載せ、そして持ってきた缶を開け、何やら入れ替えるような仕草をしている。
「初めて見る顔だな」
「はい。シト、と申します。夜番です」
灯りの下で改めて姿を見るに、若い女だった。……王都の女の年齢は正直わからないが、二十の前後ほどだと思う。
ただ、単に侍女と言うには、悪い意味で目を惹くような風貌だった。ぱっと見た服装には文句のつけようがないが、生地が薄いのか、エプロンがかかっていないところでは体の線がよく浮き出ていて、凹凸が深く見え、また、そのように布を張らせる体の使い方をしている。
柔らかい感じのする声と仕草だった。
たおやかだとか、艶やかだ、ということなのだろう。よく見れば相当な美人でもある。
そう、言うなれば、蠱惑、だ。
シト、と名乗った女はいつの間にやら灯りの火を汲んで、俺が茶筒だと思っていたものに火を点けた。
「何をしている?」
「香でございます。ランキエールの皆様にはご不便をおかけしておりますから、せめてもの心づくしでございます」
あの缶は香炉だったらしい。
すぐに香りが鼻をついた。第一の印象はかなり甘い。やや臭みとも取れるほどだ。けれど少し時間が経てば、香りの核になるような、甘さの実体のようなものだけが欠落していることに気付く。そうなると不思議と、渇く感じがした。
「……お水を飲まれますか?」
その女はゆるりと水瓶を傾け、コップに注いで渡してくる。
俺はそれを受け取って飲み干す。にわかに喉の渇きは癒えたが、それで却って解消しきれなかった渇きが目立つような気さえする。
コップを返すと、女はそれを盆の上に戻すように見せかけて、水瓶に、チン、とぶつけた。
「ありが──」
礼を言おうとしたとき、コップから鳴った音が、妙に頭蓋骨の中に響いた感じがした。
「……どうされました?」
声がさっきよりも柔らかく感じる。
女はまたコップを、チン、と鳴らす。
今度は鈴の音のようにすら感じる。頭の中に響く。
力が妙に抜ける感じがする。俺は下がってベッドに腰かけ、深く息を吐いて、その女を見つめる。
「……シト、と言ったな?」
「はい」
「どういうつもりだ」
問うと、その女は優しく笑った。
「実はわたくし、式場におりまして、トリスタン様のご活躍を拝見いたしました」
「いたかな、君のような娘が」
「後ろの方で控えておりました。それで、あのときのトリスタン様が、たいへん、格好良くって」
話している間にその女は、肩の帯に手をかけ、はらりとエプロンを下に落とした。
覆う布がなければ露骨な格好だった。体の線どころか丸みまで見え、ともすれば寝間着のようですらある。
俺はカーテンの方に立った。
そしてカーテンの中に手を入れ、外から絶対に見えぬよう、カーテンの隙間を強く締める。
「……あら」
女の笑みに艶やかさが加わる。
俺はその女の方に歩んだ。女は静かにその場で待ち、俺にどうされてもいいと認めるようだ。
テーブルの前、女のすぐそばまで来た。
掌を内に向けて右手を差し出し、女の左肩の後ろを軽く掴む。すると、体重を預けられたのか、重みが加わる。
「──すまない。俺は妻帯者でな」
そう言うと同時に、女の肩を半分ほど押して、扉に向かって半身にさせた。
「今なら上司にも知られるまい。悪いが帰ってくれ」
シトと名乗った女は一瞬だけかっと目を見開いた。だが次の瞬間には元の柔和な目に戻っていて、静かに、
「……それは、失礼いたしました」
と言い、さっとエプロンを拾ってかけなおす。
それからはとても手早かった。女は自らが持ってきた水瓶とコップ、そして香炉を回収し、一礼だけして、先ほどのゆっくりとした動きが嘘のような機敏な動きで部屋を出て行ってしまった。
足音から女が去ったことを確認する。扉に鍵をかける。
すぐに荷物から空の水筒を取り出し、口を当て、腹を押し、先ほど飲まされた水をすべて吐き出す。
そして床に膝を突き、低いところで、大きく深呼吸をする。
若干ぼけてしまった頭がはっきりした。いくら鍛えていても呼吸の制限は辛いものだ。
「もう、いいぞ」
俺はカーテンの方に向かって、そう言った。
するとカーテンが左右に動いて、下からぺろんとめくれ、額に汗をかいた人間がもぞもぞと這い出てきた。
現れたのは、したり顔のヴィヴィエンヌである。
「上出来よトリスタン。体調は?」
「問題ない。水は吸収していないし、香はわずかに嗅いだのみだ」
「さすがね。魔力紋は?」
「左肩の後ろの、やや背中側。気付かれていないと思う」
ヴィヴィエンヌは懐から方位磁針のようなものを取り出し、軽く左右に振りながら、その針の振れ方にぐっと集中する。
「ばっちりね。……あ、急に速くなりましたわ! 馬にでも乗ったのかしら?」
それから彼女は持ってきた地図と見比べ、女の向かった方向の同定を始める。
さっき俺は、カーテンの傍に立った際、隠れていたヴィヴィエンヌから“魔力紋”を受け取っていた。
この紋は諜報のドルナク家の秘術だという。この紋を貼り付けられた者は、一定の時間魔力の波を発し続け、居場所を晒してしまうそうだ。ただし使えるのは生成からわずか半刻の間のみで、ドルナク家直系の者以外は使用が許されない。
ヴィヴィエンヌが地図上で検討をし、指先でとん、とん、とん、と叩く方角は、東南東。
その先にあるのは、外壁際の第十七小聖堂だ。
「ついに教会が尻尾を出しましたわ!」
夢中になっている彼女はそう呟くと、喜び勇んで持ってきた縄を体に括り付け始める。俺もベッドの毛布の下に詰め物をして人が寝ているように見せ、また、用意していた外套を持ってくる。
そうしている間にも俺は、特大の緊張から解き放たれていた。
──妻に見られながら色仕掛けに耐えることが、ここまで気まずくて複雑とは思わなんだ。
しかし、その妻であるヴィヴィエンヌは露ほども気にした様子を見せていなかった。それどころか準備が整うと彼女は躊躇なく俺の背中に飛び乗り、負ぶわれ、俺は差し出された縄を体の前で十字にきつく縛った。その上から外套を被ると、肩口から彼女が顔を出す格好になる。
「さあ、追うわよ!」
もううきうきしている彼女の期待に応え、カーテンのむこうの窓に手をかける。
そこでいったん、一呼吸を置いた。
「どうしましたの? トリスタン」
「……いや」
人使いがあまりに荒くないか、と心の中でぶうたれる。
こちらの気なんて知らない彼女を背負ったまま、俺は窓の外に飛び出した。




