第11話 ヒュドラ③
大きな口が開いて、私の体に齧りつかんとする様は、まるで時間がゆっくりと流れるようだった。
恐怖……はあったと思う。あと単に驚いていた。
ただ、これは当然の帰結に思えた。私は無茶をしていたし、あるいは、不要な無茶を自分からしに行った。それで周囲を圧倒できたり、喜ばせたりできたから良かっただけで、今回はそれがたまたま悪い方に出たということだった。
それについて納得している自分と、安心している自分がいる。
ずっとこうだったのだ。私はずっと気を張ってきた。一日一日が勝負で、負けてしまったあの日も、そのあとも、ずっと誇りを守るために人生を続けていた。
その人生がようやく、私のしようもないミスで、終わってくれるのだ。
両の目を開いて、自分の死の瞬間くらい、ちゃんと見届けようと思った。
そのとき、私の遥か後方から、唸りを上げて何かが飛んできた。
その飛んできた何かは、私を襲おうとしてきたヒュドラの鼻っ面に見事に突き刺さり、ヒュドラはその勢いを失って、私の隣に倒れた。
剣が飛んできた方向を見る。
トリスタンだ。
私の夫。いや、私の夫をやってくれている、トリスタン。
彼は神速で倒れたヒュドラに駆け寄り、刺さった剣を抜き直し、入念にとどめを刺すため、一気に首を切り落とした。
それから彼は私の方を向く。
私は襲われたときに後ろにこけてしまって、お尻を地面についたままだったけれど、このまま一方的に助けられた女にはなりたくない気がした。
反射的に──それは本当に習慣的なものだ──せめて気構えだけでも、誇り高くあろうとした。
「礼を言いましょう。我が夫トリス──」
「馬鹿っ!!!!!」
トリスタンはもう、私の誇りとかなしに怒鳴り散らかしてきた。
「なぜこんな無茶をした!!!!! 死にたいのか!?」
もうその剣幕は、私のいつもの反論の仕方とか言いくるめ方が効く感じではなかった。
弁解をするためと、とりあえず無事であることを伝えるためと、あと、単に姿勢を正そうとして、脚に力を入れた。
「……あれ?」
しかし、腰が抜けている。
情けなかったけれど、正直に言うしかなかった。
◆◆◆
「助けられた挙句に背負われるとは、なんたる屈辱」
ヴィヴィエンヌは背負われながらもぶうたれていた。
「屈辱って、曲がりなりにも夫婦だろう、俺たちは」
「ふん。なら感謝を申し上げますわ。我が夫トリスタン」
「減らず口を」
助けた当初こそ怒鳴ってしまったが、彼女が無事とわかって俺も気が抜けていた。
しばらく歩いて、改めて聞いた。
「……なぜこんな無茶をした」
「だ、妥当な判断ではあったのです。干ばつに備えるなら、ヒュドラの駆除は急務です。それが長期化してしまえば、私は支持を失い、今後に支障が出ることも考えられます」
それを聞いて、心底呆れた。
「すっかり視点が抜けているな」
「……何が言いたいんです?」
「干ばつのことなど言っていないのだから、戦いが長引いたとて支持の低下もクソもないだろう。誰もヒュドラと干ばつを結び付けたりせんぞ」
「あ」
「完全に判断を間違えている。短い付き合いだが、君らしくないことだ。……いや、推測するに」
俺は時間を取って、言うか言うまいかした。
それを言うことが彼女の誇りを傷つける気がしたが、情けなく負ぶわれた状況で、負ぶわせてくれている状況では気にしなくでいいだろう。
「さては君、捨て鉢だったな?」
ただ、そう言った。
「……少々軽率だったことは、認めますわ」
答える彼女の顔は、負ぶっているから、見えない。
「そういう人間にかけられる言葉は少ない。自分の要求を通せてしまう能がある者を御そうなど、根本的に不可能な話だ」
返答は期待しなかった。
彼女がこんな無茶に踏み切った原因は、俺の方にもある。
辺境に身一つで来た女が、短期間で誰にも相談することなくその才覚を発揮することには、どれほどの負担があっただろう。
その原動力に、あの噂に聞く断罪劇があったとなれば、それはもう捨て鉢になったがゆえの馬鹿力が混じっていることくらい、想像して然るべきだった。
「だから俺から言えるのは、君には死んでほしくないし、君は死ぬようなことをしなくたって、特別な人間だということだけだよ」
彼女はしばらく無言で負ぶわれていた。
ただ、その途中で、次のようにボソっと呟いた。
「改めて、礼を言いますわ。我が夫トリスタン」
「……そうか」
元来た道の先に、網目状の結晶が見える。
部下たちが俺とヴィヴィエンヌの姿を認め、不安半分安心半分で手を振っているのが見える。
俺も手を振り返す。
合流すれば、晴れて作戦終了か。
さすがの俺も少し疲れた。親ヒュドラにこのお転婆の救出に、一人分以上の仕事が目白押しだった。
最後のひと踏ん張りということで、また、歩いていく。
「なあ、実は少し前から気になっていたんだが」
「はい」
「その『我が夫トリスタン』と言うのはなんなんだ? トリスタンじゃだめなのか?」
「それはその、こう……」
彼女は言いにくそうにした。
「正直に言うとですね」
「うむ。正直に言ってくれ」
「私、婚約者がいた期間は長かれど、夫婦生活を営んだことはないわけですの」
「うむ? ……うむ」
「なのでこういう、敢えてあからさまな言い方にしないと」
「うむ」
「少し、照れくさいわけです」
そう言われてしまって、反射的に振り返りそうになる。
だがそれは、彼女が俺の頬を手で押さえたことで、阻止された。




