第10話 ヒュドラ②
腰にハンマーを掛け、小刀を持ち、腹に巻いた縄を引きずって、洞窟を歩いていく。
水の音が聞こえる。味方の男たちは遥か後方だ。
ランキエールは文化的にすべてが上意下達。
だからあの場においても、私を止められる人間などいなかった。
そしてそれは、私の命の責任は私が背負うということ。
すべての物事には代償がある。
長に従うシンプルな組織ならば、その責任はシンプルかつ残酷に長が負うことになる。
正直に言えば、ここに至るまで緊張の連続だった。トリスタンとランキエール侯爵が不思議に私を信用してくれたおかげで、領地に来て間もないのに権利を振るえたが、結果が出ていたのは運の要素も多分にある。
──それに、今の私が死んだとして、誰も、悲しむ者などいない。
そう思った自分に対して、頭を振って否定する。
わざわざ危険を冒しにくるほど、私は馬鹿な人間ではない。
私の今の試みは、そこまでリスクの高い行為ではないはずなのだ。
第一にヒュドラは、同じ場所を住処とするが群れではない。戦いについて多少の学習はすれど、個体同士が協力できるほど知能は高くない。各個体は独立に巣を作り、それぞれの巣には干渉しないのがお決まりだ。
すなわち、親個体が陽動部隊と戦っているなら、この巣の中にヒュドラはいない。
いるとしたら生まれたての個体だけど、ヒュドラの幼体は通常、せいぜい小さなヘビくらいの大きさだから、小娘の膂力でも問題なく屠ることができる。
ほら、別に危険なんかじゃない。
むしろ『今まで夫の権力を使って偉そうに指示してきた偉そうな小娘が、いざとなったら命をかけて魔獣の卵を割ってくる』、そういうランキエール好みの逸話を作り、今後の私の支持基盤の礎にするチャンスですらある。
覚悟を決めて歩みを進める。
巣の奥が見えた。
薄明りの中で、岩とは思えないほど艶やかな球体が、私の背を遥かに超えて積まれ、盛り上がっていた。
青くて半透明。中に赤色の線が走り、拍動しているものもある。
近寄ってみると、そのサイズ感が明らかになる。
今まで見たことのあるヒュドラの卵より数倍大きい。一つ一つが私の頭程度はある。
「これは、全部壊すのは骨が折れますわね……」
大きな石でも拾って潰した方が早いだろう、と判断して周りを見る。積まれた卵の背後なども確認しにいく。
……あれ?
するとそこに、何か、柔らかい布のようなものを見つけた。膜と言っていいかもしれない。非常に大きい。屋敷で与えられた私の部屋くらいはある。
なんだろうと、しゃがんで触ってみると、乾いている。持ち上げて膜の裏を触ると、若干のぬめりが残っていた。
引っ張る。全部一つの膜だということがわかる。もともとの形は丸かったようだ。
これはまるで、気球が萎んだかのようだな──
そう思い当たったときには、遅かった。
この膜は、卵の殻だ。
最初に見えたものはおそらく、親ヒュドラが生んだうちの小粒の卵。
これは大粒の、すなわち、親ヒュドラの卵。
岩の擦れた音に振り返る。
特大の幼体が、大きく口を開けて私に迫ってきていた。
◆◆◆
親ヒュドラの首を討ち取ると、陽動部隊を急いで洞窟の前まで引き上げることにした。
主力部隊からの報告で、嫌な予感がしたのだ。
なんと洞窟に突入する際、ヴィヴィエンヌが勇敢にも、先陣を切ったというのだ。
意図はわかる。今回の作戦の立案は彼女で、隊長も彼女。現場に来た以上は体を張る意思を見せ、部隊の士気を上げ、あるいは今後のための尊敬を勝ち得るというのは筋が通る。
だが、リスクが高すぎる。従来の彼女がそんな危険を冒すわけがない。彼女は自分の戦闘能力の低さとか、いざとなったときのできる事とできない事を把握しているはずだった。
結局俺は途中で、到着が待ちきれなくなった。そして部隊に先行し、急いで洞窟の奥に行ってみれば、案の定停止している主力部隊に追いついた。
網のような形の結晶が、彼らを立ち止まらせているように見える。その先にはおそらく、俺たちが目標とした親ヒュドラの卵があると、そういうことも想像がついた。
が、その中にヴィヴィエンヌがいない。
「フェンリク! ヴィヴィエンヌはどうした!」
「あ、トリスタン様。奥様がですね、その、ここを通れるのは自分だけだからって」
「まさか」
「はい。一人で卵を割りに行きました」
「馬鹿! なぜ止めなかった!」
「そりゃあ隊長は奥様ですし──」
フェンリクはなんの悪気もなしに答える。
「──それよりもあの奥様が言うなら、きっと大丈夫なんでしょ」
周りの男たちも、うん、うんと頷く。
俺は一度愕然として、それから血がふっと沸くような気がして、次の瞬間には駆けていた。
「あいつはわりとへっぽこだ! たぶんそれは、勢いに任せて行っただけだ!」
結晶の網を搔い潜る。俺だけはここを通れる。
駆ける最中、俺はようやく、彼女自身の弱点と、彼女が戦ってきた何かに合点がいった。
ヴィヴィエンヌは自身の実力を認めさせ、信頼を勝ち得ることはできる。
だが、彼女自身を心配する人間は、ここに至っても皆無なのだ。
その役目を背負うべきだったのは、夫である俺だった。




