静かなる追跡
ロンドンの街は、僕が知っている記憶よりも、はるかに複雑で、そして冷たかった。長官とリリスの追撃をかわし、僕は、リリアンを抱えたまま、雑踏の中に紛れ込んだ。少年は、何も言わずに僕の後ろを歩いている。彼の瞳は、もはや恐怖も、怒りも宿していなかった。まるで、感情の『物語』を、失ってしまったかのようだった。
僕たちは、ロンドンの下水道へと身を潜めた。この巨大な地下迷宮は、MI6の追跡をかわすのに最適な場所だった。湿った空気と、薄暗い光が、僕たちの新しい安息の地となった。
僕は、リリアンを汚れていない壁際に寝かせ、彼女の脈を確認した。脈は、かろうじて打っている。彼女の『存在』が、完全に消えることはなかった。
「僕の名前…」
少年が、静かに言った。
「僕の名前は、ジョナサン・クラーク。君は…」
「…僕は…」
彼は、答えに窮した。MI6とヘリオンは、被験者から、名前を奪っていたのだろう。
「君は、今日から、**『テオ(神の贈り物)』**だ」
僕がそう言うと、少年の瞳に、わずかな光が宿った。彼は、初めて、僕に微笑みかけた。それは、かすかな、しかし、確かな希望の光だった。
僕は、リリアンから託された日記を広げた。日記は、彼女の記憶の断片で記されており、ほとんどが、謎の記号と暗号で埋め尽くされていた。
「この記号は…ヘリオンの暗号システム…」
僕は、元いた世界での『知識』を総動員し、解読を試みた。ヘリオンは、この世界の科学技術を遥かに凌駕する存在だ。彼らが作った暗号は、僕の『知識』をもってしても、簡単には解読できない。
その時、僕の隣に、テオが座り込んだ。彼は、僕が解読している日記を、じっと見つめている。
「これは…僕の能力…」
テオは、日記のページを指差した。そこには、時間を操る能力の法則が記されている。
「君は、自分の能力について、何か知っているのか?」
僕が尋ねると、テオはゆっくりと頷いた。
「僕の力は、『物語の時間』を支配すること…MI6は、この力を使って、この世界の『物語』を、彼らが望むように書き換えようとしていた…」
テオの言葉に、僕は驚きを隠せなかった。彼は、自身の能力を理解しているようだった。
「そして…僕の能力の、唯一の弱点…それは…」
テオは、そう言って、日記のページの端に、小さな記号を描いた。
"The Tower(塔)"
そして、その下には、僕が持っている砂時計と同じ、小さな砂時計のマークが記されていた。
「これは…?」
僕が尋ねると、テオは、静かに言った。
「これは、僕の能力を、完全に封印できる場所…MI6の**『物語の支配者』**が、潜んでいる場所だ…」
僕たちは、次の目的地を見つけ出した。それは、MI6本部でも、ヘリオンの研究所でもない。このロンドンの街のどこかに隠された、『塔』。そして、そこにいるであろう、『物語の支配者』。
僕たちは、再び、動き出した。この世界の『物語』を、希望に満ちた結末に書き換えるために。




