水底の声
梅雨の終わりかけた七月の末、山間に位置する小さな集落「黒淵」はいつもより静かだった。
空は鉛色に澱み、雲は地表すれすれまで垂れ下がり、まるで空気そのものが水を含んで重たくなっているかのようだった。集落の中心を流れる黒淵川は普段なら透明な流れを保っているが、この日は濁り黒ずんだ色をしてゆっくりとしかし確実に膨張していた。
川の上流にはかつて村人が「神の喉」と呼んでいた深い淵がある。その名の通り底知れず音を吸い込むように静かで、誰もが近づくのを忌避していた。村の言い伝えによれば、その淵には「水に呑まれた者たちの魂」が住み、雨の日にだけ声を発するという。
──「おいで……」
──「冷たいよ……一緒に……」
そんな噂を、私は最初ただの村の怪談だと思っていた。
だがその夜、私はそれらの声を実際に聞いた。
私は「水」というテーマでドキュメンタリー小説を執筆するために、黒淵村に滞在していた。水の力、水の記憶、水が人間にもたらす恐怖──そういったテーマを追っていた。村の長老たちに話を聞き、川の写真を撮り、雨の音を録音する日々。そしてある日、一人の老婆が私に言った。
「あんた、上流の淵には近づかないでね。雨が降り続くと、あそこが目を覚ますから」
「目を覚ます?」
「水が人を呼ぶのよ。特に、水に縁のある人を」
私は笑った。
「水に縁のある人って、誰ですか?」
老婆はじっと私の顔を見つめたまま、ゆっくりと言った。
「あんたのことよ。あんたの手首に、あの模様があるでしょう?」
私は慌てて袖を引いた。左手首の内側には、生まれつき薄い青い斑点が幾つも集まって、まるで水の波紋のように広がっていた。誰もが不思議がるが、医者にも原因はわからなかった。
「あれは『水の印』。昔、村にいた巫女が持っていたのと同じ。あの人も、最後は淵に消えた」
私はその話を信じなかった。ただの迷信。都市伝説。そう思っていた。
だがその夜、雨が降り始めた。
三日目の夜、私は部屋の机で原稿を書いていた。外は土砂降り。雨音が屋根を叩き、川の水かさが増す音がまるで何かが這いずるように近づいてくるようだった。
突然、録音機が反応した。
私は録音用の小型デバイスを、窓の外に設置していた。雨音を記録するためだ。だが、そのスピーカーから、雨のざあざあという音の合間に声が聞こえた。
──「……みず……」
私は耳を澄ませた。
──「……みず……ここに……」
それは、子供のような声だった。しかし、声帯が水に浸かったかのように、ぐずぐずと濁っている。録音機のスピーカーから、まるで水が滴るような音が混ざっていた。
「誰だ?」
私は録音を停止し、外を見た。雨の中何も見えない。ただ、川のほうから黒い水がゆっくりと岸を越え、畑を浸しているのがわかった。
次の瞬間、録音機が再び勝手に作動した。
──「みず……みず……みず……」
声は次第に重なり合い、複数の声が混ざり合っているようだった。男も女も、老人も子供も。全員が同じ言葉を繰り返す。
そして突然、私の名前を呼んだ。
「……さとみ……」
私の名前を、知っているはずのない声が呼んだ。
私は録音機を壁に叩きつけた。壊れたスピーカーから、水がぽたぽたと漏れ出た。まるで、中から水が湧いているかのように。
四日目の朝、村人は一人、また一人と姿を消した。
最初は川の氾濫で避難したのかと思った。だが、誰もが「淵のほうへ行った」という目撃情報があった。ある男は傘も差さず、雨の中をぼんやりと上流へ歩いていく。ある女は川辺で跪き、水に手を浸しながら何かを囁いていた。
そして、彼らは戻らなかった。
村の残りの者たちは、家に閉じこもった。電話も通じず道路は冠水し、外に出ることすら危険だった。
私は老婆の家に逃げ込んだ。
「どうすればいいんですか?」
老婆は震える手で茶を淹れながら言った。
「水が選んだ者だけが、声を聞く。そして水が選んだ者だけが、呼ばれる。あんたの手首の模様……あれは昔の巫女の子孫の証。水はあんたを待っていたのよ」
「待っていた? なんで?」
「巫女は水に祈りを捧げ、村を守った。でも、ある日巫女が水に逆らった。水の儀式を怠った。その罰として巫女は水に引き込まれ、今も淵の底で水の声を伝えているのよ」
「……それって、つまり……」
老婆は私の目を静かに見つめる。
「あんたは次の巫女。水があんたを呼び戻そうとしている」
その夜、私は夢を見た。
深い水の中。暗闇。私の身体はゆっくりと沈んでいく。足首に冷たい指が触れた。手が私の足を掴んで、下へ下へと引く。
そして顔を上げると、無数の人が水の中を漂っていた。目は白く濁り、口は半開き。彼らは全員が私を見つめ、口を動かしていた。
──「入れ……入れ……入れ……」
「いやあああああああああああああああああ!!!!!」
私は叫び飛び起きた。
部屋はじっとりと湿っていた。壁には水滴がびっしりとついている。だが、雨は止んでいた。
そして、私の部屋の床に水の足跡があった。
小さな裸足の足跡。それは私のベッドの下から始まり、ドアの向こうへと続いている。
五日目の夜。
私は逃げようとした。
車で村を出ようとしたが、橋は崩落し道は水に呑まれていた。携帯は圏外。ラジオは雑音しか出ない。
録音機だけが、まだ動いていた。
私はそれを手に取り、再生した。
──「さとみ……みず……ここに……」
──「さとみ……冷たい……一緒に……」
──「さとみ……手を……」
そして最後に、私の声が録音されていた。
「……はい……行きます……」
自分の声が、自分ではないかのように冷たく、機械的に響いた。
私は録音機を投げ捨てた。だがその瞬間、家の水道から水が逆流し始めた。
蛇口から黒い水がゆっくりと、しかし確実に部屋の中に溢れ出した。
床が濡れ、足元が冷たくなる。水は私の足首まで達した。
そして壁から、声が聞こえた。
「……さとみ……」
私の名前を呼ぶ声。それは私の声だった。
鏡を見ると私の口が、動いていた。だが、私は何も言っていなかった。
「……行こう……水のところへ……」
私の身体が勝手に動いた。足が水の流れに逆らわず、上流へ向かって歩き始めた。
淵に着いたとき、雨は止んでいた。
黒い水は鏡のように静まり、私の姿を映していた。だが、その中に映っているのは、私ではなかった。
白い肌。濡れた黒髪。口の端が裂け、笑っている。手首には、私のものとそっくりな青い斑点。
──昔の巫女。
彼女は私の身体を使って、水の声を伝えていた。
「ようこそ次の巫女よ。水は永遠に祈りを求める。水は永遠に声を求める。そして、水は永遠に人を求める」
私の口から、その言葉が溢れた。
そして私の身体は、淵へと歩みを進めた。水は私の足を舐め、膝を包み、腰を越えていく。
「冷たい……」
声が震えた。
だが、身体は笑っていた。
水が私の首を越えた。
鼓膜が水圧で破れる音がした。
そして、最後に聞こえたのは、無数の声の合唱だった。
──「……みず……みず……みず……」
数日後、雨が上がり、黒淵村に救助隊が入った。
村は水に呑まれ、家々は崩れ、人は誰もいなかった。
ただ、川の淵のほとりに一台の壊れた録音機が置かれていた。
それを回収した調査員が再生ボタンを押すと、水の音と共にかすかに声が聞こえた。
──「……みず……ここに……」
──「……さとみ……手を……」
そして最後に、複数の声が重なって囁いた。
──「……次は、きみの番……」
録音はそこで途切れた。
だが、調査員の耳元で小さな水滴が音を立てた。
彼が顔を上げると、空はまた曇り始めていた。
雨がまた降りそうだった。
完