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まだ夜明けを知らない世界

作者:

ずっと、お前がかわいそうなままでいればいいと思ってた。

そしたら、いつでもお前のために泣いてやるのに。お前が欲しいもの、何だってくれてやるのに。

そんな方法でしか愛せないなんて、今思うと馬鹿みたいに幼稚だけど、あの頃の俺にはそれしか、お前のそばにいる言い訳がなかったんだ。


※※※


最初から、彼の佇まいはどこか異質だった。

それは育ちの良さそうな整った顔立ちとか長い手足とか、そういう外見のことだけじゃなくて、まだ顔も名前も定かじゃない新入生の群れに何とか擬態しようとする必死さのせいだったかもしれない。


入学式の翌日、学科のオリエンテーションを終えた教室には、もういくつか大きな男女の輪ができつつあった。

その輪に乗り遅れた奴らも隣の同級生に何でもいいから話しかけ、とにかく大学生活をぼっちでスタートするという悲惨な事態だけは避けようと必死だった。

そんな浮わついた空気が漂う教室で、彼は一人で座っていた。

蒼生あおいは一番後ろの席から猿山の猿とそう変わらない同級生たちの姿に鼻白みながら、その輪に溶け込みきれない彼の背中から目を離せないでいた。

絶望的に無個性な白の襟付きシャツに、癖のない黒髪。

後ろからはそれらの何の特徴もないアイテムしか見えないにも関わらず、彼の背中は明らかな違和感を放っていた。

蒼生はゆっくり立ち上がり、彼の隣に座った。

彼は蒼生にちらりと視線を移したが、またすぐ自分の手元に戻し、ポーターの肩掛け鞄に配られた資料をしまい始めた。

「なあ、今日新歓あるって聞いた?」

「…え?」

彼は急に話しかけられて驚いた様子で、手を止めて蒼生を見た。

「今日夜、駅前の居酒屋で学科の新歓やるってさ」

「…そうなんだ」

初めて聞く彼の声は高くも低くもない、穏やかでクリアな声だった。

「LINE、IDある?」

蒼生は彼の戸惑う様子には構わず、スマホを取り出した。

「ない」

「ならコード出して」

畳み掛けると、彼は別に渋ることもなくスマホを差し出し、コードを表示した。

カメラで読み取り、表示されたアイコンをタップする。開いたプロフィール画面には、『蓮』とだけ表示されていた。

「これ、名前?『れん』?」

「そう」

友だち追加をすると、蓮のスマホに蒼生のアイコンが表示された。

「これ、俺な。蒼生。学科のグループLINE追加しとくから、夕方には店のアドレス行くと思う」

「…分かった」

蓮の反応は決して乗り気な様子ではなかったが、蒼生には彼が必ず来る確信があった。

「じゃ、夜にな」

言うだけ言って席を立つ。

同級生たちの青臭い熱気で暑いくらいだった教室から出ると、そこにも春の生ぬるい風が吹いていて、蒼生はため息をついた。


※※※


「ちょっと、蒼生!あの子と知り合いだったの?」

学生がメインターゲットであろう安いだけが売りの居酒屋で、今夜の幹事の梨里りりが興奮気味に話しかけてきた。

三年生の発声で乾杯をし、成人と未成年が入り交じっているのをいいことに新入生も大半がアルコールのグラスを手にしている。

蒼生も冷えたビールのグラスを傍らに置いていたが、今日はあまり飲む気分ではなかった。

「蓮?全然知り合いじゃないけど、昼に話しかけただけ」

「LINEもゲットできたし、超ファインプレーじゃん」

梨里は既にアルコールが回っているのか、頬を上気させて蒼生の肩を小突いた。

「見て、恵茉えまの顔」

梨里の指す方に視線を向けると、蓮と見知らぬ女子が隣り合って何か話している姿が見えた。

ゆるふわ系の完璧にセットされた髪型と柔らかい素材のワンピースで完璧に武装した、『普通の』男子なら誰もがお近づきになりたいと思うであろうその女子は、研究され尽くした上目遣いと軽やかなボディータッチを駆使して目の前の獲物を仕留めにかかっていた。

蓮はというと、彼女の言葉に穏やかな笑顔を浮かべ、時折自分からも何事か話しかけながら慣れない仕草でアルコールらしきグラスを傾けていた。

「あれくらいのイケメンがいると場が潤っていいよねー。私も後でおしゃべりしに行こ」

好き勝手なことを言う梨里に適当に相槌を打ち、蒼生はまた視線を蓮に向ける。

ふと、目線を上げた蓮と目が合った。

蒼生がいることに気付いていたのかどうか、蓮の瞳からは何の感情も読み取れない。

騒がしい座敷のほとんど対角線で、ほんの数秒そうして見つめ合い、どちらからともなく目を逸らした。

「じゃあ後でな、梨里」

「何、どこ行くの?」

おもむろに立ち上がった蒼生に、梨里が不満そうに声を上げる。

「トイレだよ」

「後で集金するから、帰んないでよ」

梨里の声を背中で聞きながら蒼生は店の奥にあるトイレに向かう。4月とあってどの座敷も宴会ばかりで、無理にはしゃいだ笑い声が煩わしかった。

男性用トイレは入れ違いにサラリーマンが出ていき、蒼生が足を踏み入れた時には2つある個室も全て無人だった。ドアを閉めると外の騒々しさが嘘のように静かになる。

用を足し、手をいつもより念入りに洗う。

ペーパータオルで手を拭き終えても、蒼生は洗面台の前を動かずにいた。

獲物が罠にかかるのを待つように、息を殺す。この手の直感は外したことがなかった。

背後でドアが開くのが鏡越しに見える。

誰かに見咎められることを避けるように薄く開けたドアの隙間から、予想通り長身の影がするりと現れた。

蓮の頬は上気し、自分の許容量を超えて飲んでしまっている様子が見て取れる。

彼は鏡の前の蒼生を認めても無表情のまま、後ろを通り過ぎようとする。

「お前、大丈夫か?」

振り向いて声を掛けると、蓮は立ち止まって蒼生に向き直った。

「何のこと?」

狭いトイレに蓮の声が響く。やっぱりいい声だ。

「いや、無理すんなよ、あんまり」

「もう飲まないから」

「酒のことじゃなくて」

蒼生の言葉に、蓮が静かに息を呑んだのが分かった。

「…何のこと?」

さっきと同じ台詞だったが、蓮の声は明らかに強張っている。その表情は、彼がこれまでセクシャリティを必死で隠し通してきたことを物語っていた。

虚勢を張る蓮をあまり追い詰めるのもかわいそうな気がしてきて、蒼生は息をついた。

「もう二人で抜けるか?」

「…」

それは思ってもみない提案だったようで、蓮は立ちつくしたまま視線を泳がせた。

黙ったまま動こうとしない蓮に、蒼生は一歩近づき、その手を取った。

「…触るな!」

蓮は我に返った様子で蒼生の手を振り払う。

「…変な言いがかりやめろよ」

語気を荒げた蓮の反応は、十分想定の範囲だった。蒼生はこれ以上の深追いを諦める。

「悪かったよ。またな」

それだけ言ってドアを開き、蓮を残してトイレを後にした。


恵茉と蓮が付き合い始めたらしいと梨里から聞いたのは、その翌日のことだった。


※※※


「で?お前らうまくいってんの?」

新歓と同じ居酒屋で、向かいの同級生が無遠慮に蓮に絡んでいる。

入学から一ヶ月経ち、ようやく新入生達もペースを掴んで落ち着いてきた頃だった。

誰もが嫌々取っている六限の一般教養の必修科目が教授の都合で直前に休講になり、暇を持て余した何人かで夕飯でも食べるつもりがいつの間にか飲み会になっていた。

「うまくいってるって、何が?」

蒼生の隣の席に座った蓮が、向かいの短髪の同級生に聞き返す。

その声や表情からは相変わらず感情が読み取れないが、この頃にはもう蓮のポーカーフェイスは学科の中では浸透していて、いちいち苛立ったりするような奴もいない。

「恵茉ちゃんに決まってんだろ!お前、おとなしい顔して手が早いとか反則だよな」

手が早かったのは女の方だろと混ぜっ返しそうになるがやめておく。

「別に、普通だよ」

「イケメンはいいよな。あんなかわいい彼女いて、大学生活勝ち組じゃん」

テーブルに置かれた蓮のスマホが、LINEの着信を知らせて震える。

蓮はロック画面を一瞥したが、開く代わりにスマホを足元の鞄の中に投げた。

「なあ、もうやった?」

目の前の既に出来上がった同期の顔には、頭の中それしかありませんとでかでかと書かれている。

蓮が隣で固まったのが気配で分かる。

こんなの適当に流せばいいのに、それができないのは育ちの良さというのかただのコミュ障の一種なのか。

蒼生はため息をつく。

この一ヶ月、蓮とはたまに昼食を取る程度の付き合いだったが、彼が恵茉との時間をできる限り削ろうとしているのは明らかだった。

蒼生ははじめそんな蓮の様子を身から出た錆と高みの見物を決め込んでいたが、いよいよ修羅場の様相を呈してきた状況に、さすがに同情しつつあった。

「お前、人のことよりサークルの子とはどうなったんだよ」

見かねて助け舟を出す。隣の蓮が息をつくのが分かった。

「それなー。なんか、元彼と切れてないっぽい」

「ああ、ダシにされてんじゃん、完璧に」

「やっぱそう思う?俺、当て馬?」

「だろうな。いくら賭ける?」

「賭けねえ。負ける気しかしない」

同級生はビールのジョッキを一気に煽ると、すみませんおかわりーと店員にジョッキを掲げてみせる。

「俺も」

隣で蓮が手を挙げた。見ると中ジョッキがいつの間にか空になっている。表情こそ涼しい顔をしているが、蓮がそんなに酒に強くないこともこの一ヶ月で分かっている。

「飲み過ぎんなよ」

蒼生が咎めると、蓮はちらりと視線をよこしただけで何も言わずに無視した。心配してやってるのに、かわいくない。

「蒼生は?相変わらずバイト先で食い散らかしてんの?」

「人聞き悪いこと言うな」

大学から何駅か離れた繁華街のバーで、蒼生はバイトを始めていた。

バイト先でも大学でもゲイであることは早々にカミングアウト済みで、そうと知って近づいてきた客の中で好みだった一人とは何回か寝ていた。

初々しいが鬱陶しい大学生のダンジョコウサイと違って、なんの束縛も責任もない関係は、常に身軽でいたい蒼生には合っていた。

「食い散らかすほど飢えてないから。お前と違って」

「ああどうせ俺は飢えてるよ、干からびそうだよ、お前らと違って」

くっそー、次行くぞ次、と同級生は大げさに机に突っ伏して見せる。

蓮はそんな同級生の様子を横目に、足元の鞄の中で震えるスマホを憂鬱そうに眺めていた。


※※※


足元が覚束ない蓮の肩を抱えて彼のアパートにたどり着いたのは、その夜24時をとっくに回った頃だった。

あの後何人かの同級生が合流し、蒼生が他のテーブルを回って戻ってくると誰かに飲まされたらしい蓮がとっくに沈没していた。

「だから飲み過ぎんなって言ったのに、なんなんだよお前」

文句を言いながらあらかじめ聞いていた部屋番号を探し当てる。

「おい、鍵は?」

「…鞄の中」

蒼生は蓮の鞄を遠慮なく探る。鍵はすぐに見つかり、玄関ドアを開けて中に入る。

初めて足を踏み入れる蓮の部屋は、予想通り何の特徴もない地味なアースカラーで統一された、最小限の家具しかない小綺麗なワンルームだった。

照明を点ける余裕もなく、窓から差し込む街灯の明かりが頼りなく室内を照らす。

蒼生は何とか窓際のベッドまでたどり着くと、脱力した蓮を放り投げた。

そのまま蒼生もベッドに腰掛ける。

同じくベッドに投げられた蓮の鞄から飛び出たスマホが、何度目か分からないLINEを受信して震えた。嫌でも目に入る画面には、恵茉のアイコンが表示されている。

蓮は画面を横目で見たがそれだけで、スマホを手に取ろうとはしなかった。

「おい、水飲むか?」

蒼生は手持ちのペットボトルを差し出す。蓮はそれには答えず、掌で額を覆って息をついた。

「…何で分かった?」

静かな部屋に蓮の押し殺した声だけが響く。

「何が?」

「しらばっくれるなよ」

重たそうな瞼の下から蓮が睨む。

「お仲間だって?何でだろうな」

蒼生は4月のはじめを思い起こす。新入生のコスプレをしているみたいに何の特徴もなかった蓮の背中が浮かぶ。どうして、こいつだけあんなに気になってしまったんだろうか。

「…単にタイプだっただけかもな」

蓮はその言葉にも何も答えず、目を閉じた。

「今日、帰んの」

だるそうに蓮が問いかける。蒼生は少し苛立ち始めていた。自分では何も言わず、指一本動かそうとしないで、安全な場所から駆け引きでもしているつもりなんだろうか?

「終電ないんだけど」

蒼生が答えるのとほとんど同時に、業を煮やしたスマホが今度は通話を受信して震え始めた。無遠慮に光る画面が部屋をほの暗く照らす。スマホのバイブレーションは大げさなくらい二人のいるベッドを振動させる。

蓮は暗い瞳をしたまま、それでもスマホを手に取ろうと腕を動かす。

蒼生はその腕を制止した。

「出んなよ」

蓮は目を見開いた。スマホに照らされた黒目がちな瞳が濡れて光る。

視線をそらさず覆い被さって顔を寄せると、蓮は首を振ってキスを拒んだ。

その頃には蒼生の苛立ちは収まり、逆にそんな演技でもしなければ自分を保てない蓮が哀れに思えた。

そうやって装ってつくろって、いっときも生身の自分じゃいられないまま生きてきたんだろうか。

(…かわいそうに)

息の触れる距離で見つめ合いながら、蓮の見た目通り柔らかな髪を撫でる。

「じっとしてろよ。誰にも言わないでいてやるから」

その言葉に観念したのかどうか、蓮は蒼生の腕の中で息をついた。緊張していた体が脱力したのを合図に、蒼生は今度こそ蓮の唇を奪う。はじめ強張るように閉じられていた蓮の唇はすぐに柔らかくほどけ、蒼生のキスにぎこちなく応える。アルコール交じりの吐息は震えていた。

ためらいがちに蓮が蒼生の背中に腕を回す。少し動きにくかったが蒼生はその腕をそのままにし、彼のはだけた白いシャツの隙間から熱い素肌を探った。

二人の裏切りを責め立てるかのように根気強く鳴り続けていたスマホは、いつの間にか沈黙していた。


※※※


ほんの少し触れてやっただけで、蓮はあっけなく達した。

蒼生は彼の動悸と乱れた息が収まるのを待って、そっと体を離した。

枕元のティッシュを引き抜き、綺麗に処理してやる。我ながら手厚いアフターサービスだ。

「水飲むか?」

さっきのペットボトルを差し出すと、蓮は今度は素直に受け取った。半身を起こして水を飲み、ボトルを蒼生に返す。その目は何か物言いたげだ。

「なんだよ、もっと飲むか?」

蒼生が訊ねると、蓮は言いにくそうに、それでも蒼生の目を見て口を開いた。

「…続きは?」

蒼生は彼の滑稽なくらいに切実な視線を、笑わずに受け止める。蓮がこれまで胸に秘め続けた誰にも言えない欲望は、一度や二度では冷めることはないのだろう。

「今日はしない。何も準備してないし」

「……」

蒼生の返答に、蓮は黙ってベッドに倒れ込み、目を閉じた。

「お前続きって、やったことあんの」

不意に浮かんだ疑問を口にするが、返事はない。

「…蓮?寝てんのか?」

「…あるよ」

蓮は辛うじて唇だけ動かして呟いた。

しばらくすると規則正しい寝息が聞こてくる。普段の曇った表情が嘘のような、穏やかであどけない寝顔だった。


※※※


カーテンを開け放った気配に、蒼生は目を覚ました。

同じく開かれた窓からは朝日と乾いた風が舞い込んで、昨夜の二人分の体温がこもった空気を洗い流していく。

見ると、窓を開けたこの部屋の主は、既にシャワーを浴びて身支度を済ませていた。

清潔なリネンの白い襟付きシャツに濃紺のパンツという、いつもながらこれ以上無難な服装もないと思える組み合わせだ。

蒼生は起き上がりベッドに座る。

「一旦帰るだろ?」

蓮は昨夜のことなど全く無かったかのような涼しい顔をしている。

「ああ」

時計を見るとまだ7時を少し回った頃だった。シャワーは昨夜蓮が眠った後勝手に使ったので、アパートに戻って着替えて出れば一限には間に合うだろう。

「…あのさ」

「言っとくけど」

少し考えて口を開いた蒼生を、蓮は遮った。

「お前と友達以上の関係になるつもりないから」

顔色一つ変えず、蓮は言い放つ。不思議と彼の言葉には今まで感じたことのない力強さが宿る。

清らかな優等生の仮面を被り直した蓮に腹は立たなかった。別に蒼生も同級生と『お付き合い』がしたかったわけでもない。

それに、今更何を言っても、昨夜蒼生の背中にしがみついて泣くように喘いだ彼の姿が偽らざる姿だと分かってしまっている。

「彼女は?どうすんの?」

「…お前には関係ない」

眉一つ動かさず蓮は言い捨てて、それで会話は終わりだった。


※※※


「蒼生!こっち!」

その日の講義後、教室を出てすぐ梨里に呼び止められた。タイミング的にも彼女の高めのテンションからも、大体の用件が分かってしまうが、逃げ切れそうもなく足を止めた。

「なんだよ、次も講義なんだけど」

「ちょっと、蓮から何か聞いてる?」

梨里は蒼生の言葉には耳を貸さず自分の用件を切り出す。

「蓮?聞いてるって、何を?」

一応はしらばっくれる。誰にも言わないという蓮との約束は、さすがに守るつもりでいた。

蒼生がゲイだと公表している以上、蓮と一晩過ごしたことを知られるのはイコール蓮のセクシャリティを知られることになる。

それは何としてでも避けなくてはならなかった。

「どうなってんのあいつ、恵茉のLINEガン無視なんだけど」

「マジかよ、ひどいな」

現場を見ていたとはいえ改めて聞くと同情する。入学早々学科で一番の男を捕まえて有頂天だっただろうに、落胆は推して知るべしだ。

「マチアプで浮気でもしてんの?あんた本当に何も知らない?」

「知らねえ。昨日は飲んだけど、学科のやつらも一緒だったし」

そのうち他からバレるようなことはあらかじめ伝えておく。

梨里は深い溜息をついた。女の友情は共通の敵を前にすると鉄壁の強さを見せる。

「彼女、なんだって?」

「何考えてるか分かんないって」

それはそうだろう。ほとんど話したこともない相手だが、蒼生は同情を禁じ得ない。

「恵茉とかあんな見た目だからって、舐めてると痛い目見るからね」

梨里が蒼生を睨んで凄む。同時にいつでも小綺麗で隙のない恵茉の華奢な姿が脳裏に浮かぶ。男の庇護欲と独占欲を最大限掻き立てるよう計算され尽くしたメイクとファッション。

いや、お前らが隠してるつもりの牙も爪も、意外と全部丸見えだから。

蒼生は内心苦笑するが、口にしたら最後、倍になって返ってくることが分かりきっているので言わないでおく。

したたかで計算高い女は、性欲の対象でないだけで嫌いではなかった。

「蓮に、振られたくないんなら誠意見せろって言っといて」

言うだけ言って梨里は踵を返す。

蒼生はその迷いのない背中を羨ましいような気持ちで見送った。


※※※


その梨里からの伝言を蓮に伝える機会のないまま一週間が過ぎた。

蓮は最近では彼と同じくらい地味な服を着た真面目そうな同級生達と連れ立っていることが増え、相変わらず梨里や他の騒がしい面々とつるんでいる蒼生とは同じ講義を受けていても会話をすることはなかった。

それでも、教室でお互いの姿を探さないことはなかったし、相手がいると分かれば目が合わないまま教室を出ることもなかった。


その日、午後の講義を終えてバイトに向かおうと中庭を通り掛かると、蓮がテーブル席に一人で座って本を読んでいた。

蒼生は足を止めて彼の周りを見渡し、連れがいないことを確認してからテーブルに近付いた。

蓮も蒼生の気配に気付き、視線を上げる。

「一人?」

「ああ」

蓮の向かいの椅子に座る。テーブルの上には来週の進化生物学の講義までに読むよう指定された専門書が置かれていた。

「それ、もう読んでんの?面白い?」

「まあまあ」

まともに話すのはあの夜以来だというのに、蓮の態度は相変わらず素っ気ない。

「終わったら貸せよ」

講義では一度くらいしか触れないであろうその本は、学生にとっては馬鹿馬鹿しいほと高価だった。

「いいけど」

誰が聞いてもただのクラスメイトのような会話が空々しい。

「梨里がすげー怒ってたぞ。あんま舐めんなって」

「…そう?」

蓮の表情にはあの夜、鳴り続けるスマホを苦々しく見つめていた時の悲壮感がなくなっていた。

「彼女、どうした?」

「振られたよ」

蓮は表情も変えずに言った。

「そりゃ残念」

蒼生の軽口に蓮は少し視線を上げたが、それだけだった。

「今日、暇?」

先に仕掛けてきたのは蓮の方だった。

「今からバイト」

「終わったら家来いよ」

間髪入れずに蓮が言う。蒼生が何と答えてもそう言うつもりだったのだろう。

真意を探ろうと顔を上げた蒼生の視線を、蓮は逸らさずまっすぐ受け止めた。

睨み合ってるのか見つめ合ってるのか分からない時間がゆっくり流れる。蒼生は早々に白旗を揚げた。

「分かった。バイト終わったらLINEする」

蓮は黙って頷くと、また視線を手元の本に戻した。

蒼生は席を立ち中庭を後にする。我ながら足取りがいつもより軽いのは無視することにした。


※※※


その晩、蒼生はバイトの帰りにドラッグストアで必要なものを揃え、深夜に蓮のアパートを訪ねた。蓮は自分から誘ったにも関わらず、期待と不安がピークに達した様子で分かりやすく狼狽えていて、蒼生はまず彼の緊張をほぐしてやらなくてはならなかった。

蓮があの夜から待ち焦がれていたであろう「続き」は、初めてではないというのは嘘ではなかったようで、何が起こるかは知っているものの全く慣れた風はなく、蒼生は完全にビギナー相手のつもりで奉仕に徹した。

ただ行為のあとは少しは甘い雰囲気になるのかと思いきや、蓮は早々にシャワールームに消え、さっぱりした顔で出てくる頃にはまたいつもの不愛想で冷淡な彼に戻っていた。

その夜以来、蓮はLINEや時には電話で蒼生を気まぐれに呼び出すようになった。

恵茉と別れてフリーになったのであればもう少し扱いがマシになっても良さそうなものだったが、全くその気配はなく、彼が自分の欲望と蒼生に対して素直に振る舞うのは狭苦しいシングルベッドの上だけだった。

蒼生は蓮のその二面性にはじめ呆れたが、大学では変わらずつるりと整った外見で周囲を欺いている彼の、いびつで捻くれた内面を自分だけが知っているという優越感は悪くなかった。


蓮との都合のいい関係が始まって一ヶ月ほど経った頃だった。

大学を出た蒼生と蓮は、夕飯を済ませたあと連れ立って蓮のアパートへと向かっていた。

金曜日の繁華街は学生や社会人で賑わい、そこに居酒屋やガールズバーのキャッチも加わってまっすぐ歩くことも難しい。

前を行く蓮は人混みにも歩調を緩めようとしない。ともするとその背中を見失いそうで、蒼生は思わず後ろから蓮の手を取った。

蓮は驚いたように振り向き、素早く蒼生の手を振りほどいた。

「なんだよ、いいじゃん」

「恋人でもないのに、手なんか繋がない」

あんなこともこんなこともしておいてその言い草かよ、と思うが、何事もなかったかのようにまた雑踏を足早に掻き分けていく蓮の背中を急いで追う。

「あれ?君、レイ?レイだろ?」

歩道にあふれた有象無象の中の一人の男が、急に蓮の前に歩み出て呼び止めた。

20代後半くらいだろうか。長身でがっしりした体格のその男は、生成りの襟付きのシャツにチャコールグレーの軽そうなジャケット、ベージュのパンツを洒脱に着こなしていて、ネクタイこそしていないがまあまあまともな勤め人に見えた。

人違いかと押しのけようとしたが前にいた蓮が動かず、その凍りついた表情を見てどうやら男の人違いではないらしいことを察する。

交友関係が広い方ではない蓮に社会人の知り合いがいるのは意外だった。

「あの後、ちゃんと帰れた?また会いたかったのに全然連絡取れなくなっちゃったから」

男が一方的にまくし立てるその内容で、蒼生は男と蓮の関係をおおむね感じ取った。男が蓮を違う名で呼んだことも合点がいく。

「すみません、今急いでるんで」

蒼生は蓮と男の間に割って入り、正面から睨む。男が目に見えて怯むのが分かった。厄介な相手ではなさそうだったが、釘を刺しておくに越したことはない。

「こいつ、俺の連れなんで、もう声かけないでもらっていいですか?」

男が何事か言い淀むのを横目に、蒼生は動かない蓮の手首を掴んで歩き出した。蓮は今度は振りほどくことはせず、俯いたまま蒼生の後に続く。

「…大丈夫か、お前?」

問いかけにも返事はない。ただ掴んだ手首からは彼の動悸が伝わって痛いくらいだった。


アパートに着くと、蓮はベッドに力なく座り込んだ。視線はずっと下を向いて焦点が定まらない。

「あいつ、何で知り合った?ナンパ?アプリ?」

アプリ、と微かに蓮が答える。

蒼生は蓮の鞄から彼のスマホを取り出して蓮に手渡した。

「あいつのアカウント、まだ見れる?」

蓮ははじめ戸惑うように蒼生を見上げたが、大人しくスマホを操作し、画面を開くと蒼生に手渡した。

蒼生も使ったことのあるそのマッチングアプリのプロフィール写真は、飲食店で撮ったのか薄暗い照明のせいでそれほど鮮明ではなかったが、先ほどの男だということはよく分かった。

蒼生はその写真をスクショし、画像検索にかける。

いくつか候補が表示された中に、目的の男が混ざった集合写真を見つける。

それはSNSに投稿された写真で、コメントとハッシュタグを見るとどこかの会社の新入社員が研修で撮った写真のようだった。タップしてみるとご丁寧に会社のアカウントもタグ付けされていて、蒼生は安堵のため息をついた。社会的に失うものが多い相手は怖くない。しかも脇が甘いとなれば尚更だった。

「あいつ、都内のシステム系の会社の人事担当だってさ」

写真を見せても、蓮はまだどこか虚ろな目をしている。

蒼生は自分のスマホを取り出し、会社のアカウントと投稿された写真をブックマークする。その後また蓮のスマホを操作し、マッチングアプリのプロフィールとメッセージのやり取りをスクショして、最後にブロックした。メッセージは、全て一年前の夏頃の日付だった。

『今着きました』

『紺のTシャツと黒の帽子を被ってます』

『こっちももう着くよ。すぐホテルでいいかな?』

『大丈夫です』

見るまいと思うのに生々しいメッセージのやり取りが目に入り、頭に血が上る。あの男が、蓮の初めての「続き」の相手であることは疑いようがなかった。

あんなつまらなそうな、見知らぬ男に差し出したのか。そうでもしないと飼い慣らせないほどの欲望を、一体いつから抱えていたのだろうか。誰にも打ち明けられないまま、たった一人で。

まだ高校生だった蓮が紺のTシャツを着て見知らぬ男を待つ姿は容易に想像ができた。いつものように一見涼しい顔をして、その実、鞄を持つ手は震えていたに違いない。目に浮かぶその姿が小さくて哀れで、蒼生をたまらない気持ちにさせた。

何か言ってやりたい気がしたが胸が詰まって何一つ言葉にならず、蓮の隣に力なく座り込んだ。

膝に落とした視界がゆらりと揺らぐ。ぱたぱたと、手の甲に温かな感触が落ちる。

「…蒼生?」

蓮の驚いた声が聞こえる。名前を呼ばれたのは初めてかもしれない。返事はできなかった。

「…なんでお前が泣くんだよ」

静かに蓮が囁く。穏やかで優しい、蒼生が好きな声だ。いつになく優しいその響きに、蒼生はもはや堪えきれず嗚咽した。

蓮は、蒼生の震える肩を抱き、子どもをあやすように髪を撫でた。

彼の腕の中は予想外に温かく、蒼生はその夢のような居心地の良さにまた涙した。


※※※


その出来事の後も、二人の関係は大きくは変わらなかった。

ただ蓮が鎧のようにまとっていたとげとげしい言葉や態度は徐々に丸くなってこぼれ落ち、二人でいるときも大学で同級生と話すときも柔らかく笑うようになった。

そんな蓮の変化に蒼生は半ば安堵し、半ば落胆している自分を発見していた。

あの夜溢れた涙の理由は、まだ分からないままだった。


季節はとっくに春を過ぎ、初夏というには暑すぎる日が続いていた。

次の講義のある教室へ急いでいた蒼生は、食堂の窓際の席に見知った影を認めて思わず立ち止まった。

中庭に面した食堂のテーブルに、蓮と恵茉が向き合って座っている。遠目にも二人が微笑みながら和やかに話している様子が分かり、蒼生は自分の目を疑った。蒼生が知る限り、別れた後にこの二人が会話している場面は見たことがない。

一体何の用件なのか知りたかったが、講義をすっぽかす訳にもいかず、蒼生はその場を後にした。


※※※


「今日、恵茉といた?」

その夜、いつものごとく呼び出された蓮のアパートで、二人ともシャワーを終えて何となくだらだら過ごす時間に、蒼生はその話題を切り出した。

蓮は別に驚く風でもなく頷いてみせた。

「食堂のこと?いたよ」

「何話したんだよ」

「…付き合ってた頃のこと、話してた」

「なに?」

「何とも思ってないのに付き合ったこと」

「なんだそれ。なんて言ったんだよ」

「…本当は男しか好きになれないって」

蓮の言葉はあまりに予想外だった。そもそも恵茉と付き合ったのもセクシャリティを隠すためだったはずだ。

これまで滑稽なくらいひた隠しにしていたことを、一体なぜ自分から打ち明ける気になったのか、蒼生には見当もつかなかった。

「急にどうしたんだよ。お前、大丈夫か?」

「…恵茉に謝られて」

「謝る?」

「俺が乗り気じゃないの分かってたのに、しつこくしてごめんって」

「…へえ」

「別れた後もずっと気にしてたらしくて」

ストレートな恵茉の言葉は、その実それほど意外なものではなかった。梨里いわく「あんな見た目」の恵茉が、話してみると飾らない率直な人柄であることは蒼生もよく知っていた。

「そんなに風に言われたら、俺も隠してるの恥ずかしくなってさ」

蓮のその決意は4月の頃の彼には想像もできない潔さだった。

何が彼にそんな力強さをもたらしたのだろうか。蒼生は目を見張る。

「…お前、変わったな」

「そう?」

「なんか、人間らしくなった」

「前までは人でなしだって?」

「分かってんじゃん」

蒼生はもはや拭いようのない寂しさを冗談で覆い隠す。

「夏休み、実家帰んのか」

ふと思いついて訊ねる。

蓮の実家は関東にありその気になればすぐに帰れる距離だが、入学後帰省している気配はなかった。

「…考えてない」

「梨里が、花火大会の桟敷席予約してメンバー募ってるけど、行くか?」

「行こうかな」

蓮は薄く微笑む。

こんな誘いも、ほんの数ヶ月前は絶対に乗らなかっただろう。

蒼生は改めてベッドの上でくつろぐ蓮を見る。

見た目は髪を切ったくらいで何も変わらないが、彼の言動はこの数ヶ月で明らかに変化していた。

4月の出会いから、蒼生が蓮の側で特別な位置を占めたのはほとんど必然だった。表向きと本来の姿のアンバランスさに今にも崩れ落ちそうだった蓮には、本音と欲望を吐き出す場所が必要だったし、それには蒼生以上の適任はなかっただろう。

でも、彼が周囲に見せる顔と内面のバランスを取り始めた今、蒼生は自分が彼の側にいる意義を疑い始めていた。

「夏祭りのさ、お面あるだろ」

蒼生の勝手な思索をよそに、蓮が呟く。

「お面?」

何の話かすぐには掴めない。

「小学生の頃、母親と夏祭りに行って、俺がヒーロー戦隊のお面が欲しいって言ったら、あからさまに嫌な顔されて」

そこまで聞いて、実家の話題と繋がっていたのかとようやく腑に落ちる。

「なんだそれ。なんでだよ」

「戦隊ものなんて乱暴で低レベルだって。結局その時もドラえもんのお面にしろって言われて」

大人にとってはどちらも子ども騙しのキャラクターかもしれないが、小学生にとってドラえもんは屈辱的な幼稚さだっただろう。

「…それで?」

「機嫌悪くなるからその時は付けて帰ったけど、後でバレないように公園のゴミ箱に捨てた」

淡々と話す蓮の表情は穏やかな分、余計に蒼生の胸を刺した。

「一事が万事その調子で、俺の希望とかは全部否定されて、自分が男しか好きになれないって気づいたとき、一番に母親の顔が浮かんだ。もうどうしたってあの人が満足する息子にはなれないんだって」

話しながら蓮が視線を上げ、その静かな瞳とぶつかる。

こういうとき、蓮は泣かない。泣けばいいのに。みっともなくても、子どもっぽくても。

そうしたら、俺が優しくしてやるのに。

そんなことを考えて動けないままいると、蓮の手が伸びてきて蒼生の頬を撫で、顎をすくわれてキスをした。

「…しないの?」

蓮が間近で訊ねる。するかしないかを決めるのはいつだって蓮の方だった。

蒼生は訳も分からず込み上げる衝動を何とか噛み殺し、蓮の肩を乱暴に抱き寄せるとそのまま狭いベッドに彼の背中を押し付けた。


※※※


テスト期間まであと僅かとなり、入学して初めての夏休みに向けて、キャンパスが何となく浮足立ち始めた。蓮と蒼生は、大学の学食で昼食を取ったあと、午後の講義までの時間を持て余していた。

学食はこの暑さの中移動することが面倒なのかそのままノートを取り出して勉強を始める学生も多く、いつもより賑わっていた。

食後の眠気と戦いながら重くなった頭を腕に乗せ食堂を見渡すと、梨里と恵茉が連れ立って入ってくるのが見えた。

二人は蓮と蒼生の姿を認めると、テーブルに近づいてくる。

「いたいた、蓮、今いい?」

梨里はいつものごとく返事は待たず、蓮の正面に恵茉と並んで座る。

「なに?」

「ねえ、一緒に学祭委員やらない?」

恵茉が身を乗り出して切り出す。

イベントごとが好きな二人は、揃って秋にある学園祭の実行委員に立候補していた。

「クリエイティブがボロボロで、このままだと小学生の図工展みたいなポスターになっちゃいそうなんだけど」

「蓮、デザインとか得意でしょ?」

「イベントって、参加するより運営するほうが断然楽しいから」

蓮が気圧されているうちにも二人は好き勝手にまくし立てる。蒼生は堪らず口を挟む。

「ポスターだけ依頼すればいいだろ。なんで委員なんだよ」

「メンバーの集まり悪くてさ、蓮が来るならみんな集まりそうじゃない?」

「客寄せパンダかよ」

「なんなの蒼生、そんなに文句言うんならあんたもやれば?」

梨里に噛みつかれ、蒼生は怯む。

「やるわけないだろ」

「保護者面やめてよ、鬱陶しい」

蓮は穏やかな表情で三人のやり取りを眺めている。保護者面という言葉に反論できず、蒼生は黙った。


二人の関係は、梨里にも恵茉にもとっくに見抜かれていた。実は蓮がカミングアウトする以前からあまりの親密さを疑っていたと聞かされたのは最近のことだ。

ただ、付き合っているわけではないことは説明が必要だった。

『なにそれ、セフレってこと?』

『…まあ、そうかも』

その響きは正直しっくり来なかったが、セックスのオプション付き友達という二人の関係に一番近いことは間違いなかった。

『本命もいないくせにセフレってなんなの』

梨里と恵茉は理解に苦しむという表情で目を見合わせたが、それだけであとは何も言わず二人の関係を受け入れた。


「やるよ」

蓮が短く、でもはっきりと言った。梨里と恵茉が顔を見合わせてハイタッチする。

「やったね」

「そしたら明日の午後打ち合わせあるから、空けておいて。委員会のグループLINEに追加しておくから、そっちも見てね」

「分かった」

蓮は頷き、二人に笑ってみせる。

用が済んだ梨里と恵茉は、慌ただしく席を立つ。

「ありがとね、蓮。蒼生もバイバイ」

「また明日ー」

まるで台風のような目まぐるしさで二人が立ち去ると、気のせいか食堂全体が静かになったように感じられた。

「大丈夫か、お前?」

「何が」

「学祭委員とか、普通面倒くさいだろ。いいのかよ」

「俺なんかで役に立つならいいかなって思って」

必修科目の工業意匠の講義で出されたパッケージデザインの課題で、蓮はほとんどセミプロレベルの完成度のボードを提出していた。

同級生はもちろん教授からも絶賛され、少し驚きつつ嬉しそうだった蓮の顔が浮かぶ。

「どうせ騒がしい奴らばっかりだぞ」

「あの二人で慣れてるし。心配ならお前もやれば」

「絶対やらねえ。心配もしてない」

食い気味に返すと、蓮は笑った。

「大丈夫だよ」

微笑んだまま蓮が言う。

蒼生はもうそれ以上は何も言えず、テーブルの上に置いた腕に頭を逆戻りさせた。


※※※


テスト期間がようやく明けた金曜日の夜、蒼生がバイトを終えたのは日付が変わる頃だった。

雑居ビルの裏口の重たいドアを開けると、深夜だというのにまだ体温より高そうな空気が纏わりついてきた。

最近はほとんど蓮からの呼び出し専用機と化しているスマホを取り出してロック画面を確認するが、LINEは何の通知もなく沈黙していて、それも蒼生を苛立たせる。

蒼生のバイトがあろうとなかろうと、週末はほぼ毎週蓮のアパートで過ごしていたので、蒼生はビルを出てとっさに自分の家か蓮のアパートか、どちらに向かうか二の足を踏んでしまう。

これまで何度蓮のアパートの敷居をまたいだか数えていないが、一度も呼び出しなしに訪れたことはなかった。

要は、今夜は用無しということだ。

その何がこんなに苛立たしいのか、自分でも持て余すほどだが、蓮の最近の変化に原因があることは分かっていた。

嫉妬とか焦りとか、ありふれた言葉は蒼生の心情に当てはまらなかった。

入学したての頃、ゼロからやり直そうとして失敗して今にも崩れ折れそうだった蓮を支えてやったと思っていたのに、一体どこで道を誤ったんだろうか。

考えても答えは出ないまま、蒼生は賑わう夜の街を足早に駅へと向かう。

ふと、車道を挟んで反対側の歩道の、大学生らしき男女の一群が視界に入る。二次会が終わったのか、いくつかのグループに分かれてノロノロと移動するその集団の先頭には、梨里の姿があった。

予感がして視線を巡らせると、一番後ろ、ほとんど集団から離れかけている場所に、蓮がいた。上級生らしき男と何やら談笑している。

黒髪短髪で上背のあるその上級生は、いつかこの辺りで遭遇したアプリの男とどこか雰囲気が似ている気がした。

男と話す蓮は穏やかな笑顔を浮かべていて、蒼生はそれ以上は見ていられず、顔を背けてまた駅へと急ぐ。

ああいうのが、好みなのかもしれない。

体格が良くて社交的で、清潔感のある、どこに出しても恥ずかしくないような相手。

蓮が本気になれば、いくらでも男は引っかかるだろう。

(もう、潮時か)

出口のない思索がようやく結論めいたものに達しかけたとき、後ろから声がした。

「…あおい、蒼生!」

蓮のその声にもしばらく振り向く気になれず、蒼生は歩き続ける。

「蒼生!」

ついにすぐ後ろまで追いつかれ、蒼生は観念して振り向いた。

蓮はアルコールが回っているのか、少し頬を上気させている。

「バイト終わり?」

何の屈託もないその声音と表情に苛立つ。

なんで声なんかかけるんだ。

(もう、いらないだろ。俺なんか)

「蒼生?」

黙って立ち尽くす蒼生の様子に、ようやく蓮は怪訝そうな表情になる。

「あれ?蒼生じゃん」

聞き慣れた声に振り向くと、いつの間にか梨里達の一団に追いつかれてしまっていた。

おそらくほとんどが上級生であろう集団の中には、さっき蓮と話していた男の姿もあった。

「バイトこの辺だっけ。良かったら三次会一緒に行く?」

終電間際にこの誘いということは、今夜は始発コースということなのだろう。

勝手にすればいいと思うのに、蒼生は蓮に背を向けられずにいた。ここで別れたら、彼はもう戻ってこないような予感があった。

「いや、俺たちもう帰るから」

そんな蒼生の感傷を断ち切るように蓮がきっぱりと言った。

じゃあまた、と委員会のメンバーに手を振って、蒼生を目で促して歩き出す。

ええー、と梨里が不満そうな声を上げる。

蒼生はその声を背中で聞きながら、前を行く蓮の後を追った。飲んだわけでもないのに、足元がふわふわとして覚束ないかった。

「おい、いいのかよ」

ようやく隣に並んで訊ねる。

「何が?」

「さっきの上級生、お前タイプだろ」

「なんだそれ」

「ああいう、ガタイ良くて善良そうな奴」

蒼生の言葉に、蓮が足は止めないまま顔だけ振り向く。

「…お前、それで無視したのか?」

「何が」

「さっき、無視しただろ」

図星を突かれてとっさに沈黙する蒼生に、蓮はまた前を向く。

「全然好みでもなんでもない、あんな奴」

歩く足を緩めることなく、蓮は早口でそう言い切った。


※※※


蓮のアパートに帰り着いたのは深夜1時を回った頃だった。

蓮とはあれきり会話らしい会話はなく、何となくいつも通り交代でシャワーを浴びる。

どうしてのこのこと着いてきてしまったんだろうか。

先にシャワーを済ませて蓮を待つ間、蒼生は後悔し始めていた。

ベッドに寝転んで眠ってしまえれば楽なのに、目は冴えきって閉じる気配はない。

このまま蓮と向き合ったら、ろくでもないことを口走ってしまう予感があった。

スマホを手繰り寄せ、何の用もないSNSを無意味にスワイプする。

バスルームから聞こえていた水音がいつの間にか消え、部屋着に着替えた蓮が戻ってきた。蒼生は緊張を気取られまいとスマホを操作し続ける。

蒼生が横たわるベッドに蓮が腰掛け、小さいベッドが軋んでたわむ。

しばらく糸が張り詰めたような沈黙が訪れる。蒼生は自分の吐く息すら震えている気がして息苦しさを覚える。

「…夏休み、実家帰ることにした」

沈黙を破ったのは蓮だった。

蒼生は蓮の横顔を見上げる。

「ずっとじゃないけど」

蓮は蒼生の顔を見下ろす。その瞳は波一つない湖面のように穏やかだった。

「母親に言おうと思う」

蓮は以前この部屋で母親について語った時とはまるで違う顔をしていた。何が彼をこんなにも強く変えてしまったのか、蒼生は打ちのめされている自分に絶望する。

「…お前、大丈夫なのかよ」

なんとか絞り出した声はかすれていた。

「この前の進化生物学の本、読んだ?」

話の筋が見えず、蒼生は目を細めた。蓮から借りた課題図書は確かに読みはしたが、レポートを提出した瞬間に内容など全て忘れてしまった。

「あれにさ、『母親は自分の遺伝子のコピーを増殖させるために、あらゆる努力を払うようにプログラムされてる』って、書いてあったろ」

言われてみればそんなことが書いてあった気もする。子どもにとっては迷惑でしかないその摂理を理不尽に感じたこともよみがえる。

「そう思うと、母親のこれまでの俺への叱責とか落胆とか、全部それで説明できるって気付いて、なんか楽になった」

その言葉通り、蓮の横顔は潔い。

「母親が俺をどれだけ不満に感じようと、それは彼女自身にもどうしようもない感情なんだって思えたから」

静かに語る蓮があまりにも遠く感じられて、蒼生は思わず目の前に置かれていた彼の手を掴んだ。そうしないと、手の届く距離にいることを確信できなかった。

蓮はその感触に視線を落とし、蒼生の手をやんわりと握り返した。

「だから大丈夫だよ、蒼生」

蓮の穏やかな声だけが静かな部屋に響く。

「お前、いっつも大丈夫かって聞くだろ。初めて会ったときから」

そうだっただろうか。蒼生は回らない頭で思い返す。初めて会った日の居酒屋のトイレで、怯えたような目で睨んできた蓮の瞳。

『お前、大丈夫か?』

幾度となく彼に問いかけたその言葉は、大丈夫じゃないことを知っていたからこそだった。

彼が大丈夫じゃないことを、心の底では期待していた。そこに自分の居場所があったから。

「俺は大丈夫だよ。実家も、学園祭も、ちゃんとやってくるから」

蒼生の混乱をよそに、蓮は穏やかに語りかける。

「だからもう、心配しないでいいから」

彼の声はもう遠く聴こえる。握った掌の温かさだけが優しく、蒼生はその感触にすがりつく。

心配なんかしてない、お前なんか。

お前なんか、ずっとかわいそうなままでいればいいのに。

そしたらいつでも、お前のためだけに泣いてやるのに。

ふと、柔らかく髪をなでる感触があった。視界が音もなく揺らぎ、蒼生はもうなすすべもなく目を閉じる。

「お前最近、泣いてばっかりだな」

蓮が、小さな子どもをあやすような声音で囁いた。


蓮は手の内で泣き疲れたように目を閉じた彼の髪を撫でながら、胸の内で語りかけた。

(かわいそうな蒼生)

言葉にならないその囁きは指先を伝って蒼生の濡れた睫毛に触れ、涙とともにこぼれ落ちた。

窓の外は暗く静まり返り、夜明けはまだ遠い。



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