第5話 曲者
ブラウンと一線を交えた後、目当ての子供がスプーキー・ドッグにいないことを知った女はウィリアムを追った。
戦闘中、スプーキー・ドッグの代表であるブラウンと共に現れたウィリアムを目にした時間は短いものだったが、ブラウンと親し気にしていた様子や魔術師としての技量から、ブラウンがウィリアムに荷物である子供を託したのだ。
そのように考えて女はウィリアムを追っていた。
幸いにも、ウィリアムに関する情報はその顔の傷が目立つこともあってすぐに集まった。
氏名、ウィリアム・リー。どこの組織にも所属することなく、その魔術師としての技量のみでアルゼナムで一人事務所を構えている。
そして、事務所の場所を知った女はすぐにそこへと向かった。扉からでは警戒されると思い、壁を上って窓から中を覗き込む。
「(誰もいない)」
女には超人的な感覚が備わっている。研ぎ澄まされた五感は、レーダーや警察犬などの探知を軽く上回るのだ。
「(窓が開いてる)」
事務所の窓は開いていた。不用心だとは思わない。アルゼナムに限らず、治安の悪い場所では窓の鍵が開いているかどうかで物を盗まれる確率は変わらない。
盗みたいと思うやつがいれば、当たり前のようにガラスは割られるのだ。
女は窓を開けて事務所の中へと侵入した。アルゼナムという都市にある割に事務所のなかは小奇麗だ。女の鼻が部屋の匂いを感じ取ってピクピクと動く。
「(いい匂い……)
この事務所が視界に入ったときから、女はこの事務所から漂う匂いを感じ取っていた。スプーキードッグの本拠地でも嗅ぎ覚えのあるウィリアムの匂い。
五感が常人よりも遥かに鋭い女は、匂いに対してとても敏感かつ好みが激しい。そういう意味ではこの事務所の綺麗さとウィリアムの匂いに女は好印象を覚える。
「(意外ときれい好き……?)」
そんな感想が女の中にわく。子供をさらった人間たちの仕事を受ける、という言うなれば女の敵に当たるウィリアムに対してそのような日常的な感想が心に浮かんでしまう程度には女はずれていた。
女が人のいない事務所に侵入したのは、子供の居場所に関する手がかりを期待してのことだ。だが、思ったよりも物が少ない。金で動く人間の部屋にしては、何の主張もない質素な部屋だと女は感じた。
そんな部屋の中、女は机に置かれた一枚の紙が目についた。真新しい紙にインクの匂い。つい先ほど書かれたものであることが女には分かった。
女は紙に近づいて覗き込んだ。
『女、ガキに会いたいならここへ来い』
紙にはそのような文章と座標と時間が書かれていた。この座標の場所へ指定した時間に来れば子供に会えるという意味なのは分かった。
だが、ウィリアムの真意が女には分からない。本当のことを言っているのか、それとも自分を欺くために嘘をついているのか。もし、後者なら自分を罠にはめて捉えようとしているのかもしれない。だが、もし前者なら。
「(……何がしたいのだろう)」
どちらにせよ、女はこの場所にいくしかなかった。座標が書かれた紙を強く握りしめて、入って来た窓から外へと出る。
「……それにしても」
女はビルを飛び移りながら握りしめた紙を広げる。紙がしわだらけになり読みづらくなっていることを若干後悔をしながら記載された座標を見つめる。
「(目印になるお店とか書いてくれればいいのに)」
座標だけ書かれても場所を理解できない女はウィリアムに内心文句を言う。
この指定された時間までに場所を割り出せるだろうか。子供の無事以外で、女が真っ先に心配するのはそんなことだった。
★★★
時刻は22:07。場所はアルゼナムの東にある廃墟街、イースト・ブースに数多く存在するかつては商業施設だった建物の一角。
アルゼナムが開発されていた当初は世界中のブランドを集めた超大型の商業施設の建設が計画されていた。しかし、アルゼナムの開発が中断されたあとは何の整備もされず、その上に組織の抗争に巻き込まれたことで廃墟と呼称するにふさわしい廃れ具合となっている。丈夫さが売りの鉄筋コンクリートにいくつものヒビがあった。
青い月光が降り注ぐなか、かつては広場になるはずだったやや広いスペースでウィリアムは煙草に火をつける。ウィリアムが煙草を吸う度に、その先端から赤い光が漏れる。
「───おもてぇな、これ」
盛大にせき込みながら煙が空に昇っていくのをウィリアムは眺めていた。トリシュがハッキングした監視カメラから女が事務所に侵入していることは確認している。
女がウィリアムの置いた手紙を見ていればもう来ていてもおかしくはないのだが、女は来ない。
「(女はあのガキを取り戻したいと思っているはずだが、何か狙いがあるのか)」
ウィリアムが未だに女が来ない理由について思考を巡らせながら、隣に置いたアタッシュケースを触る。これさえあれば女はここに姿を現す。そんな予感がウィリアムにはあった。
「───来たか」
ウィリアムの鼻が匂いを感じ取った。極上の女が発する凄まじい色香。以前遭遇したときはそんなことに気が回るほどの余裕がなかったが、ウィリアムがこれまで感じたことないほどの強烈な女の香りだ。
ビルによって影になっていた暗闇から女が現れる。相変わらず同じ人間とは思えないほど美しい女だ。ブラウンたちと戦ったからだろうか、女の服は一部が敗れており肌の一部が露出している。
傷一つない肌はとても官能的で、比較的そういったことに興味の薄いウィリアムの脳でさえも強く刺激する。もっとも、その欲情を素直にぶつけるには躊躇いを覚えるような女だ。なにせ、ブラウンたちと戦闘をしているはずなのに見える範囲では傷一つない。
「ずいぶん遅かったじゃないか。こういうのは時間きっかりに来るもんだ」
「……あなたが、座標なんてわかりずらいものをよこすから。目印になるお店とか書いてくれてたら分かりやすかった」
色気を感じる低い声。だが、口調はずいぶんと幼く駄々をこねる子供のような印象を受ける。ウィリアムは吸っていた煙草を地面に捨てて踏みつぶす。
「それで……あの子はどこにいるの?」
ウィリアムに聞きながら女は周囲を警戒する。ウィリアム以外に人間の気配は辺りに感じない。だが、夜風が吹いてウィリアムがいる方から匂いが漂ってきた。
ウィリアム自身の体臭に混じって匂うのは強い煙草の匂いと瑞々しい植物の香り。女はアタッシュケースを凝視する。
「お前の探してるガキはここさ」
そう言って、ウィリアムはアタッシュケースを叩いた。
「この中に入ってる」
「ひどい、あの子をものみたいに扱って」
「……まあ、実際荷物なわけだしな」
ウィリアムはニヤリと口角を上げる。
「だが、このガキが住む廃棄街じゃあ日常茶飯事だろ。いまさら何を驚いている?」
「───どうしてそれを知ってるの?」
「優秀な情報屋の知り合いがいてな。時間はかかったが調べがついた。いや、それにしても」
ウィリアムが上にアタッシュケースを放り投げる。女はアタッシュケースを確保するために地面を蹴ろうとするが、直前に違和感を覚える。
「(音がしない?)」
大気中で物体が動けば当然だが空気の流れが生まれる。そうして、生まれた空気の流れは風を生み出し、風は音を発する。だというのに、放り投げられたアタッシュケースからは空気を裂く音がしない。
女が違和感に気が付きウィリアムに視線を戻すがすでにその姿がない。ウィリアムが何をやったのか、女が直感的に理解した直後周囲を囲む建物から光弾が飛来する。
ウィリアムの攻撃であることを理解した女は跳躍することでかわそうとして地面を蹴る。しかし、頭上には魔術による障壁が貼られており女は勢いよく頭をぶつけた。
その程度の衝突では女の体にダメージはない。だが、跳躍を邪魔されてしまったことで光弾を交わすことができなくなった。
広場にクレーターを作る勢いで降り注ぐ光弾は土煙を上げる。だが、それでも女にダメージを与えることはできなかった。せいぜい、女の服をさらに破いた程度。土煙がはれて腕でガードの態勢を取っていた女が現れる。
土煙がはれた視界の中女はウィリアムの姿を探す。しかし、ウィリアムの姿がない。
「……幻術」
『正解だ。魔術師と戦った経験があるのか?』
女のつぶやきにウィリアムの声が聞こえる。いまの声からウィリアムの居場所を特定しようとするが、何らかの魔術を使っているのか声にエコーがかかっていてどこから声がしているのか分からない。
それに対して、ウィリアムは女の居場所を常に把握できる状態だ。ウィリアムの魔術がそれほど女にダメージが与えられないとはいえど、防戦一方という状況は好ましくない。それに、女としては早く子供の安全を確保したいという気持ちがあった。
女は意識を変えるために一度深呼吸をした。女には視覚以外でウィリアムを見つける方法があるのだ。ほんの少し意識を集中するだけで、女は煙草の香りをとらえた。
「───そこか」
つぶやくと同時に女は上を向き地面を蹴った。その爆発的な脚力によって、女はその場をロケットのように飛び立つ。あまりの脚力に地面が思い出したように地面がはじけ飛んだ。
★★★
ウィリアムがいたのは女の頭上、障壁を足場にして空中に浮いていた。呑気に煙草に火をつけようとしたウィリアムの眼前に女が迫る。10メートルは上空にいたのに一瞬で到達する女の脚力は計り知れない。
振り上げる拳は容易に岩をも砕く威力。だが、ウィリアムに焦りはない。躊躇うことなくケースを盾にする。
「───ッ!?」
一瞬止まる女の拳。その隙を見逃すことなくウィリアムは魔術による光弾で叩き落とす。いくら頑丈だと言っても、人間である以上体重はたかがしれている。ましてや空中で何の足場もないところでふんばれるわけもなく女は自由落下に加えてウィリアムの攻撃で加速し地面に激突する。
ウィリアムは煙草の火をつけなおしながら観察していた。
女は魔術が使えない。もしくは戦闘中に満足できるほどのレベルには無い。そして、人質が効く。それがウィリアムがこの攻防で得た情報だ。
だが、
「───やっぱ、効かねえか」
何事もなかったように立ち上がる女を見てウィリアムはため息をつく。建物4階に相当する高さから加速された状態で落下しても無傷。それは人間が単独で出せる威力の攻撃で傷つけることはほとんど不可能であるということ。それは魔術師であるウィリアムにとっても不可能と言っていいい。
勝機がないという状況にあるにも関わらず、ウィリアムは落ち着いた所作で煙草をふかしていた。
ブクマ、評価ありがとうございます。