#1 それじゃあ仕方なく
人生初の告白をして嫌なフられ方をした園村やよい。
失意のなか帰宅途中にうっかりスマホを落としてしまったやよいの前に、自分をフった相手、日下部総司が現れて…。
「関西弁とか話してて可笑しくなるし、そもそも親しくもないのにいきなり好きって意味不明。怖くて付き合えない」
はははは、と軽い声が響き、一つの恋が終わりを告げた。
「あんなん言われると思えへんかった」
カラスの鳴く声を背に受けて、無意味にスマホをいじりながら、先ほど突きつけられた真実に頭がくらくらする思いで家路に着く園村やよいの足取りは、やはり鈍い。
背景設定の土手、その横を流れるのが川と言うのもなかなかに物悲しさをあおる。
少し、目頭が痛い。
それはそうだろう、失恋した直後でしかも思いやりに欠ける言葉を放たれたのだから、夕暮れの状況も重なって雫も溢れるというもの。
だが時間と共に、フラれたというショックではなく理解のし難い拒否を食らったことが大きくなってきていた。
“関西弁とか話してて可笑しくなる”
滑舌良く、イントネーションも滑らか、さらには心地よく喉仏を震わせたかのような低い声ではっきりと言われた。
何が可笑しい?
どこにウケる要素がある?
まるで、標準語以外の言葉は受け付けませんとばかりに真っ先にぶつけてきた拒否。
「あいつ…何言うてん?」
立ち止まって呟く。
粉砕するまでは彼の事を考えて夜も眠れない…とまではいかないまでも、頭の中の大部分を占めていた恋心の相手はもう一方では苛立ちの対象ともなっていた。
標準語だらけの中での関西弁はたしかに浮く。
関西弁だけでなく、方言自体目立つ。
しかたない。
去年の春、父の転勤で関西から越してきたやよいからすれば、たった一年くらいで標準語に口が馴染むわけもなく、馴染んだとしても気恥ずかしくもあり、標準語のイントネーションにすんなり移行できなくても無理はない。
住み慣れた土地、仲の良い友達とも離れ、文字通りの心機一転を高校一年目から余儀なくされたわけだから、標準語だのイントネーションだのに気を配っている余裕もなく。
ここの暮らしやリズムに合わせるのが精一杯だった。
幸い明るくハキハキ物を言う性格がうまく作用し、いつも一緒に騒げる友達は数人出来た。
関西弁であることをからかわれる事もなく、なんなら関西弁を真似したり会話のネタにさえなるくらいで方言いいなぁとまで言われていたのだ。
そんな中での“可笑しくなる”は結構なパンチ力だった。
しかも惚れた相手からのお断り理由のトップに来るのだから泣いてもおかしくない威力。
「あかん、なんか腹立ってきた。なんで?私にとっては産まれて初めて覚えた言語や。あいつかって、その気取った喋り方むっちゃウケるとか言われてフラれてみ?…いや、まぁ、ここ住んでたらそんな理由でフラれることもないか。ちゅうか、そんな理由でお断りもあかんしな、しかもあの顔やしな、フラれることはない…かもしれんな」
首を傾げつつぶつぶつ口にし、自分をフった男の顔を思い浮かべる。
せやな、男前やわ。
腹立ちが膨れているとは言え、いいものはいいを否定できずさらにイラッ。
「あかんっ、あかんで私!そんなん言うたかてっ、そりゃ日下部くん男前やけどっ、あかんっ、これは私の母国語や!!それをバカにされたんやでっ、アイデンティティの問題や!アイデンティティの正しい定義なんぞ知らんけどっ、なんで母国語バカにされなあかんねん!同じ日本人やろ!おんなじやろーっ!!!関西弁は関西人の母国語じゃーーーぃっ!!!」
男前をどうしても排除しきれず、そこにもまたむしゃくしゃしながら感情のままに叫んだやよいは、地団駄を踏みながら両手を振り回した。
のが、
よくなかった。
「あっ、あかんっ」
少し小柄なやよいの手には余ってしまう購入三年目のスマホが勢いよくすっぽぬけ、見事に放物線を描いき───────
「ラッキーなんかなんなんか分からんけど、草むら着地!?」
深い茂みに落下した。
なんてツキの薄い日なのか…。
違うな、ツキとはまた違うな。
そんな心痛にまたじんわりくる目元を押さえ、慌てて土手を駆け下りた。
石などの硬いものにぶつけていませんようにと祈る。
落下した地点に視線を集中させ、血眼に近い目をかっぴらく。
何かの光に反射したような光が見え、間違いなくスマホだと確信したやよいがさらに足を早めた。
「ひゃっ」
急ぎすぎて足元が疎かになった瞬間、見事に生い茂った草花に足をとられてしまった。
転げ落ちるのを何とか持ちこたえたが、その分加速する脚の運びの制御が怪しくなり、意思とは関係なく速度が上がる。
やばいっ、
目の前にはごろごろと散らばる石、石、石、岩。
このままでは転んで着地する場所はごつごつの超怪我ゾーン。
フラれた日に骨折もしくは怪我、スマホ紛失など断じて受け入れるわけにはいかない。
あまりにも、この先生きていく気力がわかない。
いや、少なくとも明日、明後日、一ヶ月、怪我が治るくらいは。
精一杯踏ん張って体勢を立て直そうとするが、無情にも完全に間に合わずそのまま怪我ゾーンへダイブした。
さよなら、とりあえずニキビもなく、七難隠すの肌やねぇと言われた肌。
諦めて目を閉じ、流れに身を任せようと覚悟した直後、突然腕が引かれて進行方向とは逆の方へ引っ張られた。
「っぶねぇ」
聞き覚えのありすぎる声、そして仄かな柔軟剤の甘い香りがやよいに届く。
目を開くとすぐ傍にはやよいを待ち構えていた石や岩、走り下りてきた草むらが見えた。
痛みを覚悟していた体が、そこから解放されて力が抜ける。
助かった…。
ほっとしたのもつかの間、視線をもう少し下げると自分と同じだが自分の物ではない制服の生地が飛び込んできた。
パニックに近い状態の脳みそでも容易に想像がつく。
背中に触れる暖かさ、自分の体をホールドしている腕、頭の後ろを支える大きな手。
間違いなく他人のもので、そして先ほどから心をくすぐるこの香りは…。
力が抜けてほどなく、別の緊張が間髪入れずに襲ってきた。
「なにしてんの」
呆れたように溜め息を吐き、登頂部に顎を乗せて気だるげに呟いたのは、先ほどやよいをフってほやほやの、日下部総司だった。
このタイミングでっ、なんでっ!
大きな振動で心臓が一つ跳ね、その後ばくばくばくと脈を打つ。
だが苛立ちは覚えてもまだ好きな気持ちが振り切れていないやよいにとってはショックの方が勝っていて、激しく騒ぐ心臓と血の気が引いていく二つの感覚に襲われた。
日下部が、あの日下部総司が、今、自分の体をすっぽりと抱きしめ(?)ている、抱きしめて(?)、いる………?
私フラれた直後に、自分をフッた相手に抱きしめ?ハグ?されてる?
「ちょーーっ、なんっ、なんでっ、いつまでっ…」
言葉にならずあわあわし、身をよじって日下部の腕からすり抜けた。
暖かった体温が、外気に触れて急激に冷やされる。
「あぁ、つい。サイズ的に顎乗せやすくて」
サイズ的、やと??
たしかに大きくはないが、そんな軽くつむじに顎を乗せる程度のサイズでもない。
顎の刺さっていた辺りに両手を当て、ある程度の感覚を空けて日下部と向き直った。
目を逸らすでも逃げるでもなく、あからさまに避けるわけでもなく見据えてくるやよいに驚いた日下部が少し目を見開いた。
「こんなとこダッシュして、何しようとしてたの?」
片ひざを立てた上に腕を乗せ、こんなとこのあたりを指でくるくる指し示す。
一度口を開いて止め、聞かれたことの答えを標準語に近いイントネーションで探す。
ウケると言われてしまったので反射的に脳が働いたのだが、考えてるうちにそんな必要全くないことに気づき、モヤモヤの中に浮かびかけていた標準語のそれをかき消した。
「あー、スマホが飛んでったんで拾おうと思たら、加速がすごくて、止まらんかって」
で、さっきの騒動に至る。
「なんか、ごめん、迷惑かけました。おかげで怪我もなく助かりましたありがとう」
ペコリと頭を下げる。
緩いポニーテールが揺れた。
まだ気まずくてついぎこちなくなってしまった。
日下部はふーんとだけ返して、その場に座っている。
「日下部くんはなんでここにおんの?」
「帰り道だからね、ここ」
「あ、そうなんや」
え、そうなん??
全く知らんかった。
同じ道を登下校に使っていたとは全く知らず、まさかの遭遇にタイミングの悪さを痛感した。
知ってしまったから、いやでも意識してしまう。
だが、今まで出会うこともなかったのだから時間をずらすなど小賢しいことしない方がかえっていいかもしれない判断に落ち着いた。
「そしたらなんか、一人でぶつぶつ言う園村さんがいて、で、おんなじ方向歩いてたらいきなり、関西弁は母国語だとか俺が男前だとかなんとか叫んでスマホ投げ捨てたかと思ったらすごい勢いで坂下るから、危ないから後追っかけた」
で、今に至る。
「え、わりと最初の方から知ってたんやったら何してんのとか聞かんといてよ」
恥ずかしさで顔が火照り、また血の気が引く。
嫌な感覚が眉間にシワを寄せさせた。
「ほんとはどうだったのか分かんないから勝手なこと言えない」
だとしても、聞かれていたことを知らされるのと知らないままでは事情が違ってくる。
しかも日下部が見て聞いた通りで、勝手なことなどなにもない。
日下部くんが男前だとかなんとか叫んだのを本人に聞かれてしまえば未練があると思われかねないし、告白云々の事実がなかったとしても聞かれて気まずさがないわけなど無い。
恥ずかしさに磨きがかかる。
「最悪や。恥ずかしすぎるわ」
スマホの事がなければダッシュで逃げていた。
「でも顔は逸らさないんだね」
「え?」
ポツリと呟いた日下部の声が聞き取れず、聞き返すがなんでもとぶつ切りされてしまった。
赤くなるからてっきり俯くと思ったのに、やっぱり目を逸らして話をしようとはしないやよいを見て、何故か日下部の方が直視できなくなってしまった。
こんなに目を見て話すタイプには会ったことがなかったし、あの件もあったりで…。
「で?どこ?落ちた場所」
「は?」
ゆっくり立ち上がった日下部を見上げ、ぽかんとする。
「探すよ、一緒に」
袖をまくり、ネクタイを胸のポケットに押し込んだ日下部が、バックパックを下ろした。
思いもよらない提案にもともと大きめなやよいの目が見開かれたる。
「えっ、嫌やで」
即座の拒絶に日下部が「はぁっ?」と漏らす。
やんわりではなくはっきりとばっさりと、こんなにくっきりバリアを張られてしまえば、しまえば、
さっきのあれなんだったんだよ。
告っといて。そりゃ断りはしたけど、でもそんな即答あるか?
気まずいからってそんな嫌がるってなんだよ。
となるけで。
「なんで」
となる。
「なんでて、どう考えてもじゃあよろしくとはならんよ」
本気で訊いてんのか、分かるやろ。分からんでも分かれやっ。
これがモテる奴の余裕なのかと、自分には起こり得ない状況をこっそり恨んだ。
困惑、にも似た瞳が真正面から見据えてくる。
だからといって探す気満々で立ち上がった今となっては、引くにも引けない。
それに、
「けど、園村さん見つけるまでここで探すよね。夜になっても夜中になっても」
やよいがまとっている空気は強気で、途中で諦めてすごすご帰るという選択肢は思いつかない。
「ん、ぅ、ん」
夜中までには探し出す、けど、モゴモゴと答える。
「で?もし変な人が来て何かしらの事があったりしたらどうすんの?俺むちゃくちゃ後味悪いじゃん。なんであのとき娘を置いて帰ったんですか、とか園村さんの親に責められるじゃん」
「多分親には責められへんと思う…」
「誰かしらに責められるでしょ、俺が。そうなるくらいなら探した方がデメリットが少ないんじゃない?俺の。園村さんが夜中までスマホ探さなくてすむし」
自分への迷惑の度合いをプッシュすれば返事も変わると思ったが、
「えー…嫌やなぁ」
嫌を連発されるとさすがにいい気がしない。
だが、やよいの方もやはりすんなりお願いする気にはなれない。
モヤっとが色濃く大きいのだ。
俺の事好きって言ったんじゃなかった!?嫌じゃないだろっ!と、人間のみっともない部分が言わせそうになって、無理矢理引っ込めた。
「暗くなってきたし言い合っててもしかたないから探すよ?どの辺?」
とうとう根負けしたやよいが、飛んでいったであろう場所を指差した。
場所を確認した日下部が先に向かい、その後気乗りしないやよいが続いた。
そうして、二人でスマホを探すことになったのだが…。
私は今、何をやってんのやろ。
二人で草むらを掻き分け、無言でスマホを探す今の状況を消化しきれないやよいがふと手を止めた。
最初はよかった。
早くスマホを探し出せばこの気まずさから逃げられると思って探していたのだが、未だ見つからずただ時間だけが過ぎていくという過酷さの中での捜索は想像よりきつい。
友達なら何だかんだと喋りながらジョークも飛ばしつつ気が紛れることもあるけれど、相手は友達でもなんでもない、ただの失恋相手。
そんな相手が一緒にスマホを探しているとは、どういう状況だろうか。
まるで告白劇なんかが無かったかのような。
ただぼんやりと、真面目に捜索している日下部を見つめる。
そして思う。
フラれた後でよかった、と。
こんなの期待してしまう。
好きでもない相手のスマホ捜索なんて普通はしない。
もしかして少しは自分に気があるのではないか、と、考えずにはいられなかっただろう。
けれど、日下部の意図と真意がどの言葉にあるのかは知らないが、そこに恋愛感情は微塵も含まれていないことも同時に思い知らされる。
やはり、吹っ切るのにはまだまだ時間がかかりそうだ。
涙が薄い膜を張り始めたあたりで日下部から少し目を逸らし、先ほどよりも暗くなってしまった周りを見渡す。
川のせせらぎが大きく聞こえる気がするのは、見えない分を補うためだろうか。
春と初夏の間で冷まされた風に、いつのまにか滲んでいた汗を拭われる。
ポニーテールの先が口元に当たり、頬に引っ付く。
それを人差し指で外すと、もう一度日下部に目をやった。
すると、日下部もこちらを見ていて目が合う。
やよいが萎ませなければならない恋心を弾ませるのとは反対に、意地悪なカーブを描いて日下部の広角が上がった。
「ちなみに、関西弁は母国語じゃないから」
腰を伸ばしながら軽く体を揺すった日下部が、ふッと笑う。
その仕草にまた胸が締め付けられたものの、またもや関西弁アンチの挑戦状を投げて寄越されたやよいが唇を尖らせた。
「母国語や」
「日本語が母国語だから」
わりと、というか、結構嫌な言い方をする奴だと、日下部の人物像が上書きされた。
けれど、友達でもなんでもない通りすがりの相手に優しい一面を見せてくれる人であることも隣に添えられた。
たとえそれが、自分の評価のためだとしても。
「あのさぁ、ほんとにこの辺?」
「やと思うんやけど、ごめん…」
もはや自信は底辺だ。
探し始めてもうどれくらい経っただろうか。
薄暗いからすっかり暗いに変わってしまう分の時間は費やしている。
非常にマズイ。
自分で探すのでさえいい加減苛々してなにかに当たり散らしたくなるほどなのに、無関係の者がこの立場にぶち当たってしまったら心境はいかがなものだろうか。
自分だったらどうだろうかと考える。
いや、そんな腹立てへんな。
軽く考えてみて、見つからなかったとしても自分に害はないとして落ち着いている姿と、何がなんでも探してやると躍起になっている鬼夜叉バージョンが濃厚だった。
どちらにしても人に知られたくない自分の姿にげんなりしてしまった。
「あー、もう、くっそー…。すごい気乗りしないんだけど…しかたないかぁ…」
草むらに置いたバックパッに戻った日下部が中からスマホを取り出し、腰に手を当ててなにやら操作している。
後ろ姿だけで分かる、全く、絶対、これだけは避けたかった、というオーラ。
「番号教えて?かけるから」
振り向いて、番号を打ち込む準備をする。
思いもよらなかった申し出。
だがそれは、やよいの望んでいたシチュエーションとはかけ離れていた。
そんな嫌々…。
えぐいな、この人。
「ええわ。止めとく。もう帰りよ。ありがとう」
自分はどうしてこんな負の感情をそのまま表す人間に心惹かれたのだろうかと、好きになった原点が大きくぐらついた。
「まだ言ってんの?」
しつこい、と言わんばかりの反応。
複雑な気持ちを払拭できないやよいに、これは、きつい。
感情のアップダウンがこれほど大きい経験をしたことの無いやよいにセーブは難しく、深く吐き出した呼吸に乗せて「なんやねん、こいつ」と漏らしてしまった。
「日下部くん、自分あんまり自覚ないねんやろうけど言動も行動もぐっさぐさに辛辣やで?」
「は?」
わざわざ時間を割いて捜索に手を貸しているのに辛辣とまで言われてしまっては、当然こちらもいい感情は持てない。
しかしやよいとしても浴びせられた言葉にしっかり傷ついていた。
途中で下がるなど出きるわけもなく。
「そんな嫌がられてまで番号言いたないわ。どうせ私のスマホに自分の番号残んの嫌なんやろ?心配せんでもかけへんわ。おつかれ、ばいばい」
虫でも払うように、邪険にヒラヒラ手を振った後日下部に背を向け、その場にしゃがみこんだやよいがただ闇雲に邪魔な茂みを掻き分ける。
なんや思てんねん。
いつまでも好きな気持ちが継続する思てんのか。
早よ帰ってくれ、
これは、あかん。
もうそろそろ泣く。
フラれたときは泣きもしなかった。
言われた言葉の大きさは予想外だったが、結果は覚悟していた。
不意打ちは準備できないから不意打ちなのだ。
日下部にはやよいにここまで付き合う義理はない。
彼氏どころか友達ですらないのだから、見つかるまで探すなんてしなくても誰も責めはしない。
やよいを放って帰るのが妥当だし、実際そうする人が大半だろう。
日下部の言うように誰かから責められることなど無いだろう。
だから、感謝しなければならないのは分かっている。
分かっていてもあの溜め息、すごい乗り気しないの一言がやたらと響くのだ。
好きになったきっかけとはまるで、違っていて、まるで、やよいの空想の産物だったかのような。
だがちゃんと存在している。
空想なんかじゃない。
あの時、無性に心惹かれた彼の姿は確かにあった事だ。
日下部にしてみれば些細なことだったかもしれないが、目の当たりにしたやよいには衝撃的だった。
去年の夏休み前の事だ。
掃除当番で帰りが遅くなり、担任にごみ捨てを頼まれたやよいがごみ捨て場までの道を間違い、遠回りで旧校舎側を通ったときの事。
日下部が別れ話をしている現場に居合わせてしまったのだ。
────ごめん、もう気持ちには応えられない。好きじゃないのに付き合う事で二人に得られるものはないだろうし、無駄だと思う。期待もされたくない。もう一度好きになる努力を、俺はしたくない────
泣きじゃくる彼女を見つめ、地獄へ突き落とすかのような冷たく凍った言葉をはっきり言いきった日下部の瞳は、言葉とは真逆にとても優しく、暖かだった。
前のような気持ちをもう持っていなくても、だからといって大事じゃなくなったわけではないと思えるような。
大切にしていたことも、放った言葉の重さも辛さも、受けた彼女がどう傷付くかもちゃんと理解した上で、それでも対等でいようと誠意を示したことは、第三者のただの通りすがりでも分かるくらいだった。
好きになる努力をしたくない、その言葉がやけに胸に食い込んだ。
そうやって、ちゃんと断ってほしいと、感じてしまった。
別れ話だというのに、彼女が羨ましいと思ってしまった。
そして自分も、あんな瞳で誰かに見つめられたらどんなにいいだろうか、と胸を高鳴らせたのがきっかけだ。
その後は日下部の容姿にまんまとはまってしまったのは付け足しである。
確かに見た目は素晴らしい。
整った顔立ちなのだ。
綺麗にラインの入った二重と瞬きすれば音がしそうなくらいに長い睫、そこに引っ掛かる少し固めの髪がまたいい味を出している。
高くも低くもないがパーツに影響を及ぼしていない鼻は自分の役割を分かっているかのようだ。
そして、乾燥から見放されたかのような唇。
男前だと口にしてしまうのも無理はない。
180センチ近い身長は男前度を上げるに相応し過ぎる。
ダメ押しとばかりに、なんだかいつもいい匂いがしているパーフェクトぶり。
見かける度に目で追い、ばくばくする心臓を抑える毎日となり、授業中にうっかり日下部くん好きやわぁと呟いてしまいそうになったことに恐怖を抱いた結果、このままでは四六時中口にしてしまうかもしれないと怯えたため告白したのだ。
どんな形でもこの片想いから解放されたかったという理由が本人は不本意ではあるが。
まさか、あんなフラれ方をした後こんなに鬱陶しがられるとは…。
あの時見かけた誠意ある別れ話は、誠意を示すに値する人間にのみというのが立証された。
自分の時とは大違いである。
考えなくてもいい過ぎたことをほじくり返したおかげで傷口が悪化してしまった。
それでもあの瞳と混じりっけの無い誠実さをまだ信じたいと思ってしまう。
恋は盲目とは、まさにこの事なんだなぁと実感してしまった。
くそっ、
絶対嫌やったのに…。
必死で堪えた涙はついに限界を突破し、大きな雫となって落ちた後、筋になって頬を滑る。
涙の原因が傍にいるというのに、よりにもよってその人の前で崩壊するなんて。
止めたくても止まらない涙に、情けなさも込み上げる。
「泣くくらいなら強がらなきゃいいのに」
視界が歪み、目の前がワントーン低くなる。
励ます言葉でもなく、むしろ否定的な声色なのに鼓膜を優しく震えさせた。
「泣くのは私の自由や」と顔を上げると間近に日下部がしゃがんでいて、次いで大きな手が伸びてきた。
殴られるのかと思ったがその手がどこへ伸び、本当に殴るのかどうかを見届けたかったやよいはかかってこいとばかりに構える。
「うそ…びくついたりしないの?」
喉仏が上下して、奥の方からくつくつと聞こえた。
咄嗟に手が目前まで迫れば誰もがビクついて肩を竦めるか、顔を逸らせて目を瞑るか距離を置くのに、まさかの迎え撃つ姿勢。
これにはさすがに笑ってしまった。
凛々しい姿に新鮮さを感じた。
冷えた目元に、それ以上に冷たい指が添えられる。
手のひらが頬を包み、太い親指が目頭から目尻にかけて移動する。
それを横目で見送ってから正面へ視線を移すと、アーモンドより少し膨れた瞳にぶつかった。
視線が絡まる。
ひゅっと喉が鳴り、呼吸が止まる。
遅れて鼓動が跳ね、動けなくなった。
「気の強い子は嫌いじゃないけどね…」
初めて見る笑顔に甘酸っぱさが込み上げる。
風が吹き抜け、揺れる毛先が唇に絡まるのを今度は日下部の手がほどいた。
忙しない瞬きと共に涙の音がする。
「そんなん言うたらあかんやん」
日下部の肩を軽く小突き、呆れを全面にぶつけた。
どういうつもりで言うてんや。
誰に向かって言うてる!?
仮にも…
本日何回目か分からない失恋用語を追いやり、頭を数回振った。
「気い持たせ屋さんか。こんなんしてもあかんやろ」
涙を拭う振りと髪を払う振りをして窘める。
キュンとされたことはあっても本気でダメだと言われたことの無い日下部は意味が分からず呆然とする。
「あっぶないわぁ。まぁもうこれ以上好きになることはあり得へんし私が好きになることを自分に許さんけど、こんなん好きんなってしまうやん。そりゃぐらっとするわ。二度とせんといてな?こんなシチュ二度はないけど二度とせんといて?」
さっきまで泣いていたのに、涙の筋がきっちり浮かび、大きな瞳はまだ潤んでいて綺麗でもあるのに、向けられたのはただのお叱り。
独り言のような、心の声のような、そんな勢い。
本心。
もうこれ以上好きになることはない、ということはまだ少しは好きなのかと思ってしまうほどの、マックスよりどれくらい低いとこで?と確かめたくなるくらいの。
「あー、もうええわぁ。番号?えと、080××××○○○○」
早口で、聞き取れるかどうかも定かじゃない声で言い捨てると立ち上がり、日下部から離れて探し始めた。
頬が熱い、触れられたところにまだ日下部の体温が残っているように感じる。
冷えた肌との境界がくっきりしすぎていて、痛みさえ感じてしまう。
だからといってそれを拭いたくもなくて、痛みも心地よく感じて。
どうにもいたたまれず、恋心からも逃げてしまった。
「番号間違えたかも。鳴ってないよね?」
辺りを気にしながら声をかけてきた日下部に驚いた。
聞き取れたんか、早口。
邪険に振り払ったし、恥ずかしすぎてきつい態度を取ってしまったし、それだけではなくさっきもさっさと帰れみたいにしてしまったからさすがにこれ以上はないと思ったのに。
日下部は嫌々ながらも番号を入力し、やよいの携帯にかけてくれていた。
だからいちいちっ、好きになるようなことをっ!
諦めなければならない相手だというのに、瞬間瞬間で挫折させるようなことをする日下部が憎らしい。
「サイレントやから鳴らんで」
「はっ?なんで…っ」
うっかりスマホを落としそうになった。
淡々と、何事も川の流れのようにこなしていきそうな日下部からの驚きの反応。
ちょっと乱れた声がおかしい。
「学校持ってくのに音出したらあかんやん」
「じゃあ鳴ってても裏向きになってたら分かんないじゃん」
真面目かお前は。
授業中はマナーにするとかでいいだろ。
日下部の周りにはまずいないタイプ。
授業中もマナーにするかそのまま音ありというのが多く、また、授業中に音が鳴っても教師からそこまで強い指導も入らない。
なのに一応飾りで記載されてるマナーモードにの校則をしっかり守っている奴がいるとは、驚き以外の言葉が出てこない。
「うっすら光ってたら分かるよ。外暗いんやから。かけっぱにしといてもらっていい?」
「ったく…」
結局すぐに発見、という道筋は無いようだ。
スマホをバックパックの上に置き、鳴らないスマホを探す。
不思議とうんざりした気持ちにはならなかった。
そうしてどれくらい黙々と探しただろうか、何度か電話をかけ直したり場所を変えたりあらゆる事をしたが見つからず、仕切り直してまた明日にと声をかけようとしたとき、
「あっ、あった!あったあった!日下部くんあった!!みつかったー!多分あっちのやつっ!」
喜びに小躍りするやよいがあっちの方へ指を指して日下部を呼んだ。
いつの間に遠くに移動していたのか、日下部からやよいがもっと小さく見えるほど離れていた。
「多分っ?てか、それ落ちたって言ってたのと全然違う場所じゃん!」
そこは最初に指して示した場所とは全く違っていて、今までの時間はなんだったんだと別の意味で力が抜けた。
「ごめんてー」
「走るなって、滑るからっ」
「大丈夫ー!」
その言葉に説得力が無いのは自覚していないのか。
ここまで来て怪我をされたらたまったもんじゃない。
考えるより先にやよいに駆け寄っていた。
草むらをかけ分けて手を伸ばした先にあったのは、裏向きになって仄かに光を放つ白っぽいスマホ。
「ほらっ、これ!これ私のスマホ!みつかったぁぁ、よかったぁ、怪我もしてへんし無事やぁぁぁ」
胸元に抱き寄せて、子供をあやすように体を揺する。
その屈託の無い笑顔は周りが明るくなくてもはっきり分かるくらいに…、
はっとなって口元を押さえる。
え、俺今、なにを言おうとした?
やよいを見つめ、緩いカーブで広角を上げ、うっかり声にしてしまうところだった自分に問いかけた。
言ってはいけないわけではない。
考えてもいけないことではないけれど、後ろめたさにセーブをかけてしまった。
「無事に見つかってなにより」
「あっ、ほんまにごめんっ。遅なったね。お腹空いたん…」
違う?を盛大なお腹の音が割り込んでかき消した。
一泊置いて、日下部が吹き出す。
それはそれは盛大に。
そしてたまりかねて豪快に笑う。
そんなふうに笑うんやぁ。
白い歯だって見えるくらいに口を開けて無防備に笑う日下部が眩しくて、どの一瞬も逃したくない一心で表情を追いかけた。
「すっごい腹の音」
ひとしきり笑い、落ち着いた辺りで笑いの原因を評価。
「あははは、鳴ってしまった」
スマホを持った手でお腹をさすり、一昔前の芸人さんがやるように額をピシッと叩いたやよいがみっともないと苦笑する。
「隠しも恥ずかしがりもせず」
「恥ずかしいけどまぁもう今さらやし。さんざんカッコ悪いとこ見られたからお腹の音くらいなんてないっていうか」
潔いというか、なんと言うか。
清々しすぎる姿が女性という枠を越えて光っている印象を受ける。
考えてみれば女性のお腹の音なんか聞いたこともなく、例えば鳴ったとしたら恥ずかしさに小さくなってしまって何も言えなくなってしまう姿しか想像できない。
こんなに堂々として、恥ずかしいと言いながらも笑える精神力はきっとこの子の美徳なんだなと感じた。
「じゃあ帰ろか。日下部くん送っていくわ」
「は?いや、いいよ」
次々訪れる予想もしなかった展開が都度日下部には斬新に刺さる。
やよいにとっては当たり前の提案であったが、自分と日下部のポジションや立ち位置を考えて「あぁ」と思い当たった。
「違うで?別に一緒におりたくて言うてないから」
「分かってるよ。でもそれ、俺が言うべき事だし。送るよ」
「送ってくれんでいいよ。もうすぐそこやし一人で帰れるし」
お互いに送る必要がないのであれば取るべき行動は一つで。
「じゃあこれで、どうもありがとうこざいました」
日下部の返事も待たずに土手を登り、一人先に帰路に着く。
次は落とさないよう、しっかり鞄にスマホをしまって。
その姿を見届けてから、日下部も自分のバックパックが置いてある場所へ移動し、乗せてあったスマホを放る。
「日下部くん、ごめん、ちょっと」
呼ばれて顔を上げると、帰ったはずのやよいが土手の上にいた。
「またなにか落とした?」
「そうやなくて、えーと、これ、お礼。いくで?取って?」
「え、ちょっ…」
ひらっと何かをちらつかせたかと思ったら予備動作も少なく投げてきたので、慌てて掴み取る体勢を作る。
何色かも大きさも分から無いものが降ってきて、恐々キャッチすると手のひらがレジ袋の質感を感じた。
ナイスキャッチと拍手し、ぴょんっと跳ねるやよいの姿はなんて、なんて────
「駄菓子やけどいらんかったら捨てて。今それしかないねん」
言って手を振ろうとするのを寸でのところで止める。
日下部にも止めた理由は筒抜けで、親しくなったと思っていると勘違いされたく無い意図はすぐに理解できた。
それが意地らしくも見え、罪悪感に似たものがこみあげた。
「ありがとう。またね」
「またねはもうはないわ」
徹底した予防線にやよいの決意がこもる。
学校でも会うだろうに、またねのタイミングがない事の方が難しいくらいなのだが。
小走りで帰るやよいをまた見送り、姿が消えたところで投げて寄越された物の正体を覗く。
「きな粉棒…」
渋い駄菓子のチョイスにまた笑みが漏れる。
さわさわと風が吹き、汗ばんだ体の冷えを感じたところで土手を上がり始めた。
まさかこんな事態になるとは、という感情を今さら強く意識してしまい、放課後からの出来事が事細かく思い起こされる。
フった相手と直後にスマホを探し、その相手の頬に触れ、叱られ、お土産をもらう。
なかなかの出来事。
疲れはしたし、自分の時間が減ってしまって残念ではあるが悪い気はしていない。
最後のお土産が効いた。
こんなふうにお礼をされたのは初めてで、だいたいいつも軽くサンキューとかありがとうとかで。
おはようやおやすみと同じリズムと印象のものばかり。
土手を走り降りる女の子を見たのも初めてだったし、あんなふうに人のピンチを救ったことももちろん初めて。
初めて尽くしたった今日に日下部は思いの外満足していた。
「ナイスキャッチ…ね。可愛い人ってああいうのをいうのかな」
日下部がおやつをキャッチした時のやよいが脳裏に過る。
さっきは罪悪感のようなものが割り込んできて押し込めたが、次は無理に押し込める事もせず、気付けば自然に口から漏れていた。
それほど表情がころころ変わり、苛立っている顔も喜ぶ顔も子供とは違う女性的な可愛らしさであることは否定できなかった。
「けど口は悪い」
そう言うと、街灯の少ない道を歩き始めた。
無事に帰ってればいいけど、と、やよいのことをほんの少し心配しつつ。