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ポゥ様   作者: 後藤章倫
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ポゥ様 ⑤ 宜人

 母親の姿を久しぶりに見れたのは、最悪のシチュエーションだった。男は母親の背後から右腕を首に回し、左手には出刃包丁が握られていた。顔は、何が面白いのかにやにやしていて、猛行を挑発している。真っ昼間の商店街での出来事なのに、商店街の連中はお構いなしをきめている。

 最初に危険を察知したのは師範だったけど無理だった。レオは寝ていて、蓮司は出られず、英二と香織は震えていた。絵が完成間際だった学光は絶望し、治一郎は諦めた。

 猛行は母親を助ける為に全力でその卑劣な男へ突っ込んだ。出刃包丁なんてどうでも良かった。ビシッという鈍い音がして、猛行の額は割れた。夥しい量の血が噴き出して猛行は倒れた。猛行は頭から電柱へ激突したのだ。

 老婆が通りかかった時には救急車が到着していた。人だかりが出来ていて、血だらけの男は蘇生措置を受けていた。

「タケ、おいタケ」

父親が声を荒げていた。

 老婆の前にすうっと現れたのは猛行だった。笑顔の猛行だった。

「お母さん、お母さん、よかった。僕行くよ」

そう言って猛行は居なくなった。老婆は立ち尽くしたまま動くことが出来なかった。涙だけがアスファルトを濡らしていた。


 猛行が亡くなってひと月ほどが経った。郁男は北島家で富雄と酒を酌み交わしていた。奥の仏間から志保の遺影が笑顔を見せている。

「タケちゃん、突然だったよな」富雄が口を開いた。

「志保ちゃんを追っていったのかもな」

そう言ってはみたものの、それが違うことを郁男はわかっていた。いつの間にか富雄の傍には美保が座っていた。郁男は薄々感じていた事を富雄へ言ってみた。

「あの手押し車の婆さん、あれ多分、出て行った女房だよ」

すると、穏やかな表情で美保が頷いた。

「そうなの、わたしたちしってた。タケちゃんうれしそうにはなしてて」

それを聞いて、富雄は信じられないという目をした。

「だって、あれ、あんな婆さんだし、いくら何でもそりゃ違うよ」

確かに老婆は皺くちゃで腰も曲がっている。とても四十代とは思えない。

「俺も最初見た時は只の婆さんだと思っていたんだけど、二、三年前くらいかな、そのくらいからもしかしたらってなって、確信したのは最近だよ」

「いったいどういう事よ?」富雄には全く理解が出来なかった。

「ショッピングセンターで婆さんの犬が投げ落とされたあとなんだけど、猛行が夜八時になると家から出ていくようになって、今までも夜出て行って夜中に帰ってきたり、帰ってきたかと思うとまた出て行ったり、そんな事はよくあったんだけど、最近は決まった時間に毎日出ていくもんだから後をつけて行ってみたら」

そこまで聞いて、富雄も最近そのくらいの時間に店の前を歩いて行く猛行を度々目にしていたことを思い出した。

「通りを渡って少し行ったとこのアパートんとこで婆さんと待ち合わせてるみたいで、それから一緒に犬の散歩をしてたのよ」

その事と、あの婆さんが咲江さんっていうのとどう関係があるのか分からず、富雄は無言で頷くだけだった。

「いつもの婆さんなんだけど雰囲気がなんか違っていて、腰も曲がってないし。暗い道ばかりを歩くんだけど、街灯のところを通った時に顔を見たら、あいつだった」

富雄は郁男が噓を言っているようには見えなかった。確かに酒は飲んでいるものの、酔っぱらいの戯言には聞こえなかった。それでも信じ難い事だった。

「長居したね、そろそろ帰るわ」

郁男はそう言って席を立った。富雄は、もう少しゆっくりしていけと引き留めたが、郁男はもう玄関まで達していた。

「じゃ、また。美保ちゃんもおやすみ」

郁男は北島家を後にした。


 男はずいぶん前から商店街の住民だ。岡本薬局の斜め向かいは、こじんまりとした豆腐屋なのだけれども、昔からの屋号なのか店の名前は千特院豆腐店という。豆腐屋の二階部分は千特荘というアパートになっていて、四畳半の部屋が四部屋犇めいている。四部屋中、二部屋は商店街側に面していて陽当りも良いのだけど、あとの二部屋は豆腐屋の後ろに建つ建物の陰になって一日中薄暗い。心なしか空気までが淀んでいるような気がしてくる。

 男は千特荘に長く暮らしている。部屋番号は二○五で、陽当りと空気通りが悪い方の住人だ。名を倉田宜人と言い、独身のフリーターだ。大概の人は最初、ノブヒトとかヨシトと読むけれども、ヨシンドが正解で今年四十二歳になる。

 宜人は気難しい性格でプライドが高い。そのくせ何かに長けているということは無い。そんなものだから友達はなく、仕事も転々としていた。宜人は兎に角、鳥が嫌いだった。幼い頃、祖母の家で飼われていた鶏へ餌をやるときに嘴で手を突かれて大泣きしたことは今でも忘れない。幼いながら嫌だった。最初から嫌だった。その時にはもう立派な鳥嫌いになっていた。にもかかわらず祖母は宜人へ命じた。皿の上に鶏の餌を乗せ、それを持った宜人の手を掴み鶏小屋の中へと差し入れた。数羽の鶏が宜人の持つ皿へ突進してきた。宜人は皿を手放し逃げたかったけど、手を掴まれ後ろに張り付いている祖母がいて、なすすべが無かった。そこから更に宜人の鳥嫌いは深刻化した。

 一度、職場の同僚達と昼食を共にしたことがあった。食堂で各々が注文を済ませ定食が出来るのを待っている時、話題は嫌いなものの事になった。ある者は職場の上司の名前を挙げ、ある者は昔からグリーンピースが食べられないと言い、ある者は読書が嫌いだと顔をしかめた。宜人は自分の番が回ってくると堰を切ったように鳥についての嫌悪感を次々と捲し立て、同僚達は引いていた。注文したものがテーブルに運ばれてくると、同僚達は宜人の顔を不思議そうに眺めた。さっきまで青筋を立てながら嫌いだとアピールしていたものが宜人の前に置かれたからだ。それは鳥の唐揚げ定食で宜人は躊躇なくそれを口の中に運んでいた。同僚達は無言だったけど目配せして、食べるのは良いみたいだという事を理解しあっていた。

 宜人が初めて老婆達の行進を見たのは三年くらい前だった。たまたま平日が休みの午後、千特荘から商店街へ一歩踏み出したところで一行に遭遇してしまった。我が目を疑った。その質感を感じ取り鳥肌が立った。老婆が押す手押し車の上には、変な鳥が阿呆面下げて座っている。老婆、赤いチャイナ服みたいなのを着た二匹の小型犬、手押し車、そして変な鳥。冗談だと思った。身動きが出来ずに固まってしまった。それからは、しばしば一行を見かけるようになった。見るたびに沸き起こる嫌悪感。老婆の顔はいつも仏頂面で、恰もそれが当たり前のように行進している。

 宜人は先日、職場で揉め事を起こして仕事を辞めたばかりだった。今年に入って三回目の離職だった。

「あいつら何でわからないんだ?馬鹿ばかりだ。辞めて清々した」

そう言ってはいるものの、また職を探さなければいけない事が億劫だった。そんな時に限って老婆達を目撃するのだった。なんで俺がこんなものを見せられなきゃいけないのか?ふざけるのもいい加減にして欲しい。犬は居ないのに何で変な鳥はそこにしっかりと座っている?

 宜人は老婆のあとを追った。後ろからハンマーで殴り倒したかった。ショッピングセンターまで来ると老婆は手押し車を入り口の柵へ紐で繋ぎ、あっさりと店の中へ入って行った。宜人の頭の中は悪いもので満たされていた。そうしろと背中を押された。紐をほどいて手押し車を柵から外し、駅の方へ押して行った。宜人の口元は笑っていた。手押し車の上に座っている梟は偶に翼をばたつかせた。その度に宜人はビクッとし、直後にはそれも怒りへと覆われていた。

 踏切は遮断棒が降りていた。カンカンカンカンカンカンカンカンという遮断機の警報音が宜人を狂わせる。踏切に電車が迫ってくる。急行の車両が通過するのだ。手押し車の上で梟が鳴いた。

「ポゥ、ポゥ、ポゥ」

宜人は力強く手押し車を押し出した。

 金属がひしゃげる音がして火花を出しながら電車が通過している。ブレーキ音が響き、宜人はもう随分と前に亡くなった祖母の事を思い出していた。数名の悲鳴がヒステリックに聞こえた。電車は踏切から随分と進んだところでようやく停まった。鳥の羽がゆっくりと前後左右に揺れながら数枚舞い降りてきた。



  ポゥ様 ⑥へ続く

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