ポゥ様 ④ 双子の姉妹
北島酒屋には双子の姉妹がいて、猛行と歳が近かった。姉の美保、妹の志保、二人共ダウン症だった。二人は穏やかで誰に対しても平等だった。猛行は二人のことが大好きだった。三人は幼馴染で、猛行の中に人が現れても、その人数が増えても双子の姉妹は気にしなかった。北島酒屋の店主富雄も幼い頃から猛行を可愛がり、猛行も「北島のおっちゃん」と言って懐いていた。
猛行が北島酒屋へふらっと現れると店の中から美保が出てきて言った。
「えいじ君ひさしぶり」
英二は何となく気が乗らなかった。今日ここへ来た事を後悔していた。そんな英二を見て、美保は分かっていた。
「あのね、わたしたちね、生きられないの、あんまりながくはダメなの」
英二は驚いた。英二は志保のことを伝えようと来たのだけど、見透かされているような気がした。
「美保ちゃん知ってるの?もうすぐなんだよ」
言ってしまってから英二は後悔した。
「きのう志保がびょういん行って、お母さんと行って、まだびょういんなの」
英二は志保へ気を送ってみた。英二の口から「あっ」という声が漏れた。北島のおっちゃんが慌てて出て来た。
「美保、病院に行くから店閉めるよ」
美保は、おっちゃんの言葉が聞こえないような感じで「志保、志保、」と言いながら店の中へ入って行った。英二はなんで来てしまったのだろうと肩を落とした。
「タケちゃん悪いな」
北島のおっちゃんは急いで店のシャッターを下ろした。
病室へ入るとベッドの横に医師と二人の看護師が立っていた。美保は看護師と看護師の間から志保に近付いた。志保の意識は無かった。医師たちの動きは止まっていて、白い機械だけがデジタルの数字を刻んでいた。美保がそっと志保の手を握ると志保の目が開いた。
「志保、がんばったね、またね」
美保がそう言うと、志保は笑顔になってからまた目を閉じた。美保がベッドから離れると、医師と看護師は急に何やら忙しく動き始めた。父親と母親はしきりに志保のことを呼んでいた。
「残念ですが、ご臨終です」
医師の口から発せられたのは、志保が逝ってから随分経ったあとだった。
あれから英二は部屋に戻り、ずっと志保へ意識を飛ばしていた。志保が亡くなった事も美保と同時にわかった。猛行は部屋を出て、店にいる父親の所へ行った。丁度、客が会計を済ませたところだった。猛行の目からは涙が頬を伝っていた。
「どうした、タケ」
郁男が聞くと、猛行は絞り出すような声で言った。
「志保ちゃんが死んだ」
そう言って店の中を通り、正面から商店街へ出ていった。
北島酒屋まで歩いて行ってシャッターの前に座り込んだ。空を見上げていると、夕焼けの向こうから志保がやって来た。志保は猛行の前に降り立つと、にっこりと微笑んで猛行の手をとった。猛行は立ち上がり、志保と手をつないで商店街を歩いた。パン屋のところまで来ると立ち止まり、猛行から手を離してゆっくりとゆっくりと上へとあがっていった。
猛行は母親と話していた。
「お母さん、志保ちゃんが死んじゃったよ」
「そう、悲しいねぇ」
ここのところ、声は聞こえるし会話は出来るのに、母親の姿は見えなくなっていた。
「辛いけどね、ああいう子たちはあんまり長く生きられないらしくてね」
「ああいう子たち?」
「ごめんね、そうよね、そんな言い方は良くないね」
そこへ香織が申し訳なさそうに入ってきた。
「こんな時にアレなんだけど、今夜約束があって行かなきゃなんだけど、いい?」
皆無口だったけど、治一郎が口を開いた。
「今日は走る気になれないから、ゆっくりいいよ」
香織はいつもよりも地味な服装で出掛けて行った。
夢の中で、子供の猛行は母親と一緒に笑いながら野っぱらを走っていた。どんどん走っているのに全く疲れなかった。さっきまで野っぱらだったのに、いつの間にか商店街を走っている。岡本薬局の前で立ち止まると、猛行は母親の顔を見上げた。母親の顔は真上にある太陽が逆光になって黒くて良くわからなかったけど、親しい人に似ているような気がして不思議だった。
老婆の歩みはいつにも増してゆっくりだった。二匹の小型犬はチャイナ服を着ておらず、代わりに小さな黒い布を首に巻いていた。北島酒屋の前に差し掛かると老婆は歩を止め、下ろされたままのシャッターに手を合わせ頭を下げた。ポゥ様が物悲しく「ポゥ」と鳴いた。
老婆は再びゆっくりと歩み始めた。歩み始めて直ぐに女の姿が目にはいった。速足でこっちへ向かってくる。あの女だ。女は老婆の横で歩く速度を緩めて、すれ違いざまに老婆の耳元で囁いた。
「コロス」
女はそのまま前だけを見て歩いて行った。特に老婆は気にすることもなくショッピングセンターを目指した。
それは、トスンという静かな音だった。小さな布袋がショッピングセンター前のアスファルトへ落下したような感じだった。近くにいた通行人や買い物客は何が起きたのかわからなかった。直後に悲鳴があがり、それを聞いた人たちや店員なんかが集まって来て騒然となった。
老婆が買い物を終えてショッピングセンターから出てきた時には警察も到着していた。老婆はいつものように買ったものをポゥ様が座っている下のスペースへ仕舞い、柵に縛っておいた頼りない紐をほどいて手押し車に手をかけた時、異変に気が付いた。二匹の小型犬のうち一匹が居なくなっていた。手押し車にリードは繋がっているから首輪からリードを外されたのだ。人が集まっている方へ目を向けると、警察官が黒っぽい袋へ何かを入れるところだった。老婆は人垣をかき分け警察官のもとへ行き、それをひったくった。
「ちょっと、お婆ちゃん駄目だよ」
そう言う警察官の声も老婆には聞こえなかった。警察官は事態を理解して柔らかい声で話しかけた。
「お婆ちゃんのワンちゃんですか?」
老婆はその呼びかけにも応えずに小型犬を抱いたまま立ち尽くしていた。
集まっていた人達も段々と居なくなり始めた。そんな中、やや遠くから老婆を見ている者が居た。女は含み笑いを浮かべていた。現場に老婆と警察官、それと数人の野次馬だけになったあたりで、ようやく女も去って行った。
小型犬の亡骸を抱えて、老婆は夜を彷徨っていた。老婆の脳裏に様々な者たちの笑い顔が浮かんでは消えていた。アパートの大家夫妻、商店街の店主達、からかいに来る小学生、ショッピングセンターの客、警察官そして、あの女。
開けた場所へ出た。その一画に手で掘れるくらいのやわらかい地面を見つけて小型犬を埋葬した。赤いチャイナ服も一緒に。老婆は暫く其処に留まっていたが、やがてアパートへと帰って行った。
翌日、女はあっさりと逮捕された。入り口付近で小型犬をリードから外すところ、小型犬を抱えて非常階段へと向かうところ、屋上から小型犬を投げ落とすところが全てショッピングセンターの防犯カメラに映っていた。そして商店街の防犯カメラには、現場を嬉しそうに眺める女の顔まで鮮明に記録されていた。
猛行は父親と一緒に志保の通夜、葬儀に参列した。北島のおっちゃんは努めて明るく振舞っていたけど、それがかえって辛かった。美保は、全てを受け入れている様子で頼もしかった。おばさんは憔悴しきっていた。
猛行達がショッピングセンターでの事を知ったのは、志保の葬儀の次の日だった。皆、怒っていた。特に蓮司の怒りは度を超えていた。
「次から次へとあの馬鹿女が」
「女は逮捕されたからここまでだ。蓮司、お前もやり過ぎたんだぞ」
師範が正すように言った。それでも蓮司は感情のコントロールを上手く出来なかった。治一郎も何か言ってやりたかったけど我慢した。
「今は婆ちゃんを守ろう」
英二の言葉に皆そう思った。学光は話を聞いていたけど絵の締め切りが近かったので筆を止めることはなかった。
夕方、ショッキングピンクの帽子とベストに身を包み、南野小学校の校門近くの横断歩道に蓮司は居た。
「さようなら」と挨拶をしてくる児童たちに惰性で挨拶を返しながらあの子どもを待った。もうほとんどの生徒が下校したと思われるのに、あの子どもは現れなかった。
「あの人です」
こっちを指さしながらそう言って教師らしき男の手をひき小走りで向かってくるのが、あの子どもだった。
「畜生、あの野郎」
蓮司は走った。逃げながらレオを呼んだ。偶然にもレオは起きたところで蓮司に代わって余裕で逃げ切った。レオにとってそれは容易いことだったが、そういう場面でしか呼ばれない事に不満を抱いていた。そんな事をやったものだから蓮司は暗い部屋へ閉じ込められて暫く出て来れなくなった。
女は警察の取り調べで変なことを言っていた。頻りに復讐だと主張していて「自分は被害者だ」「あっちも調べろ」それから師範、英二、レオ、蓮司などの名前を口にした。警察も一応は調べてみるものの、そんな名前の者が居るはずもなかった。
老婆が商店街に現れたのは、ショッピングセンターの事があってから二週間程あとだった。相変わらず猛行が北島酒屋のところでワンカップの日本酒を飲んでいる時だった。手押し車の上にポゥ様は乗っていたけど小型犬の姿は無かった。
「婆ちゃん、大変だったね」
駆け寄った猛行が話しかけると、少しやつれた顔を笑顔にした。
「心配かけたね」
「婆ちゃん、もう一匹はどうした」
「あんなことがあったばかりだから、可哀想だけど留守番だよ」
「散歩は」
「夜にしてるよ」
その日から猛行は午後八時になると老婆のアパートへ向かうようになった。なんで老婆の事がこんなにも心配なのか自分でもよくわからなかったけど、一緒に散歩に付き合った。
夜に見る老婆は少し変わって見えた。背が高くなっているというか、腰が伸びているような、暗くてよくわからないけど顔つきも何となく若く見えた。婆ちゃんという感じはしなかった。暗い道を好んで歩きたがり、店舗の前や電灯が灯っているところは極力避けているみたいだった。でもそんな事は猛行にとってはどうでも良かった。ある晩に猛行は無意識に聞いた。
「婆ちゃんって家族居ないの?子どもとか」
すると、さっきまで明日の朝ごはんのおかずの事なんかを話していた老婆の口が閉じた。
「ごめんごめん、聞かれたくない事あるもんね」
空気を読んで英二が出てきて取り繕った。猛行にはよくわからなかったけど、それからも毎晩の散歩は楽しかった。
ポゥ様 ⑤ へ続く