ポゥ様 ② 女と男達
駅の方へ歩いている老婆達の前に女が立ちふさがった。今朝、部屋へ来たあの母親だった。老婆は一旦手押し車を止めたが女から視線を外し再び歩き始めた。女は慌てて老婆の肩を掴んだ。
「待ちなさいよ」
老婆の目が女の目と合い暫く時間が止まっているような気がした。女が何か言おうとした時に、女の足元で手押し車の左側を歩いていた小型犬が、右足をヒョイとあげて放尿していた。
女は足元にいる犬が何をしているのか一瞬わからなかったけどスカートの裾辺りに生暖かいものを感じた。放尿を終えたチャイナ服の小型犬が身体をブルブルっと振り動いた時に、女は声にならない怒りとも悲鳴ともわからない音を口から発した。老婆の肩から手を放し、犬を蹴り上げようとしたらバランスを崩して尻餅をついた。そこには小型犬の尿が垂れていた。
そのまま老婆達はゆっくりと歩き始めた。女は少しの間そこでそうしていたけど急に立ち上がり老婆達を追った。
「待て、ババぁ」
老婆達までもう少しのところで、後ろから強い力で髪を掴まれた。その強い力は女に向かって低い声を出した。
「やめろ」
女が振り返ると、そこには誰も居なかった。商店街を行き交う人達が何となく忙しそうに見えた。老婆達は視界から消えていて自分だけが狐にどこかを摘ままれたような、それでもスカートの裾から下は濡れていて、夕方の商店街は賑わいを取り戻していた。
駅の近くにあるショッピングセンターは少し頼りない。一階が食料品、生鮮食品売り場で二階は衣料品や日用品なんかを取り扱うフロアになっている。大した規模ではないけど、一応ショッピングセンターだ。老婆はいつもこのショッピングセンターで買い物をする。入り口の前は歩道との間に柵があり、老婆はその柵の左端に手押し車を頼りない紐で結んで店内に入っていく。おとなしく手押し車の上に座っているポゥ様も、この時だけは手押し車に繋がれる。
老婆の買い物は大体十五分くらいで、人との接触は極力避けている。買った品物はポゥ様が座っている下のスペースへ入れて、またアパートへと帰っていく。
買い物を終えた老婆のもとへ女の子がトコトコと近付いてきた。水色のワンピースを着て髪をツインテールに結った幼い子だ。女の子は老婆に、何の疑いもない素直な表情で話しかけた。
「ねぇ、おばあちゃんはおとこのこ?それともおんなのこ?どっちなの」
すると女の子のもとへ男の子が駆け寄ってきた。
「あーちゃん、だめよ」
男の子はそう言って女の子の手を引いた。女の子は兄に手を引かれて、老婆の答えを聞けないまま何処かの店に入って行ってしまった。
アパートの外階段脇に女は立っていた。チャイナ服の小型犬に放尿された白いスカートは着替えられ、スリムのデニムに紫のパンプスを履いていた。女は老婆を待っていた。怒りの表情は誰が見ても異様と思える程だ。
「やめろと言っただろ」
声がした方へ女が目を向けると、男が立っていた。額には絆創膏が貼られ、両手の拳や腕は腫れあがりうっ血していた。髪は変な寝癖がついていたけど目は正気を保っていた。
「あなた誰?」
女は少し気味が悪かったが尋ねてみた。
「俺は師範だ」
そう言われても何の師範なのか、そもそも何を言っているのか理解に苦しんだ。
「婆ちゃんに近付くな」
さっきより力強い声で師範が言った。
「あなた、あの婆さんの息子か何か?うちの子嚙まれたのよ、あの犬に、怪我したの、どうしてくれるのよ。わたしはシッコをやられたわ」
女が興奮気味に捲し立てた。師範は目を閉じた。再び目を開けると感じが変わっていた。そして口を開いた。
「あれはさ、だいたいからしてあんたんとこの子供が悪いよ。知らないの?聞いてない?学校帰りの事」
その口調は子供のようだった。声も若干高くなっていた。更に表情というか顔の形や体つきまでがさっきまでの男と明らかに違っていたけど額の傷や拳、両腕のうっ血はそのままあった。
「あなた誰?」
女は思わず聞いてしまったけど、その男はクスクスと子供のように笑った。
「おれは英二に決まってるじゃん」
恰も自分の事を女が知っているかのような口調だったけど、そんな名前に心当たりは無かった。英二は続けた。
「見つけたら必ずやるんだよ。毎回だからね毎回だよ。犬達にも聞いてみたけどさ」
「何のことよ?」
「婆ちゃんにだよ、婆ちゃん何もしていないのに五六人で近寄ってはからかってさ、はじめは犬達も我慢してたんだよ。それなのに酷いよ、どんどんどんどん面白がってさ、婆ちゃん何も言わないから犬が代わりに少しだけ懲らしめただけだよ」
それを聞いて女は黙り込んだ。そして英二は目を瞑った。英二が目を開けるとそれは師範になった。
「わかったか?だから婆ちゃんには近付くな」
女は変な感じがしたけど師範に無言で頷きトボトボと帰って行った。
二階の自室で猛行が楽しそうに話をしていた。
「あの女の人もう来ないかな?」
「師範があれだけ言えばわかるだろう」
「よくレオを起こせたね」
「婆ちゃん危なかったから必死に呼んだら起きて走っていった」
「今、レオは?」
「また寝てる」
「治一郎は今夜も走りに行くの?」
「香織がデートらしいから帰って来たら行きたいけど、香織、帰り遅いの?」
「そんなのいちいちわからないわよ」
「学ちゃんの絵ってもうすぐ仕上がるんだよね?」
「だから猛行が暴走しないようにしてくれないと、こんな手じゃ上手く描けないから」
「ごめん」
「じゃ、わたしそろそろ行くから」
「はいはい気をつけてね」
それから猛行は部屋を出て一階へ降り、まだ営業している岡本薬局の裏口から夜に溶けていった。薄水色のカーディガンに深紅の口紅が良く映えていた。
治一郎がエンジンを始動させたのは深夜二時半を回っていた。商店街から通りへ出て少し走ると環状線と交わった。治一郎は環状線に乗りアクセルを踏み込んだ。赤いスポーツカーはどんどん速度を上げて北上していった。
郊外の埋め立て地へ着いた頃には、昨夜から走っていたであろう車の数は大分少なくなっているようだったけど、まだまだ爆音を響かせてコーナーを攻め続ける数台は元気だった。
埋め立て地のアスファルトには色々な形のタイヤ痕がシュプールを描いていた。治一郎はタイミングを見計らって入っていった。急加速してコーナーを目指す。ギリギリのところでフルブレーキをかけながら逆ハンをきると車体は綺麗に横滑りをしてコーナーを回る。
東の空が白けてくると治一郎は来た道を南下して帰って行った。週に四日は埋め立て地でドリフト走行に興じている。
家に帰って子どもを問いただすとポツリポツリと話し始めた。それは師範と名乗った男の言った事と相違なかった。女は夫へ今日の出来事を話した。
「じゃ仕方ないね、もうこの件は終わりにしよう」
夫は消極的にそう言ってダイニングテーブルからゆっくりと立ち上がった。ダイニングから出ていく背中に向かって女は言った。
「でも嚙まれたのよ、わたしは髪を引っ張られて、あの犬にシッコやられて」
ダイニングのドアは静かに閉められ、女の小さいけど悔しさの塊みたいな声だけが部屋の中で行き場を失った。女はもう只々老婆の事が憎くなっていた。あの顔、あの声、あの態度、犬そしてあの男達その全てに納得がいかなかった。
翌朝、夫と子供を送り出すと身支度をした。表情を硬くして向かったのは老婆が住むアパートだ。
午前中の早い時間、商店街は豆腐屋、文房具店、パン屋を除いてまだ開いていない。猛行は北島酒屋の自販機でワンカップを買うところだった。なんとなく見覚えがある感じの女が歩いてくるのがわかったけど、その女が誰なのか猛行には分からなかった。女はワンカップを手にしている猛行に気付くと足が止まった。女は躊躇した。猛行は女を見たけど直ぐに視線を逸らしてパン屋の方へ歩いていった。女はホッとしてまたアパートへ歩き始めた。商店街を抜ける少し手前の駐車場に差し掛かった時、駐めてある赤いスポーツカーの運転席からあの男が降りてきた。
「おい、どこへ行くんだ?言ったことがわからないのか?」
師範だった。女は息を吞んだ。そして咄嗟に通りの方へ走り出した。通りへ出て右に曲がり横断歩道を渡り切った。女はそこでようやく足を止め、肩で息をしながら振り返ると師範の姿は無かった。女は安堵の表情を浮かべ前を向いた途端に何かにぶつかり、その弾みで歩道わきの植込みに倒れ込んでしまった。
「痛っ」女は何が起こったのかわからなかった。上から見下されているような視線を感じ瞑っていた目を開けると、服装は師範と似ているけど身体の線が締まっていて目の色がブラウンの男が立って睨みつけていた。
「やめろと言っただろ」
その声に聞き覚えがあった。あの時の、後ろから髪を引っ張られた時の声だ。
「あなた達なに?兄弟かなんかなの?」
「やめろと言っただろ」
ひと際大きな声でレオは繰り返した。
「あなたには関係ないでしょ」
女は立ち上がった。レオは素早く女の背後へまわり後ろ手を捻った。
「痛い痛い、やめて、ちょっとちょっと、痛い」
「やめるか?」
「痛い、わかったから離して」
レオはそこで手を離してやった。女は暫く手を押さえて下を向いていた。
「師範や蓮司だったら折れてたぞ」
女は無言で頷き商店街の方へ引き返して行った。全く納得はいかなかった。
老婆は今日もポゥ様を乗せた手押し車に二匹の小型犬を繋ぎ、それをゆっくりと押しながら商店街を歩いている。小型犬達が着ているチャイナ服みたいなのの色は赤色ではなく紫色をしている。
「むらさきになってる」
「あ、ほんとうだ」
老婆達の行進を金物店のところに隠れて待ち構えている小学生が三人でコソコソと話をしている。
いよいよ老婆の手押し車が金物店を通過しようとした時に手押し車の左側を歩いていた小型犬が「ぎゃん」と悲鳴をあげた。それと同時に小学生達は走って逃げた。小学生達の中のひとりが犬に小石を投げつけたのだ。
老婆が小型犬を抱きかかえると幸いにも小石は掠った程度で大事には至らなかった。その一部始終を見ていた金物店の店主や向かいの本屋に居た者、店の外で煙草をふかしていた中華屋のマスターも老婆達を心配するような感じではなく見て見ぬふりを決めていた。
小型犬をおろすと、また何事もなかったかのように老婆達は行進を再開した。
ポゥ様 ③へ続く