老婆達の行進
手押し車を押しながら商店街を進む老婆の顔は常に不満気だ。手押し車の両側を二匹の小型犬が歩いている。小型犬はお揃いの赤いチャイナ服みたいなのを着せられていて、リードは各々手押し車に繋がれている。手押し車の上にはポゥ様が居る。誰が名付けたのか、その梟はポゥ様と呼ばれていた。
老婆が押す手押し車には二匹の小型犬と梟まで居て、その行進はちょっとした宗教儀式にも思えた。そんなものだから、それを見た好奇心旺盛な小学生達にとっては恰好の的となっている。一行と遭遇しようものなら一目散に駆け寄ってきて、しばらくは後をつけたり、コソコソ話をしたりしているのだけど何かのタイミングで、
「どこ行くんですかぁ?」とか「ナンミョーホーレンゲーキョー」「犬田ワン!」「ババぁ」「なんかちょうだい」
と、訳の分からない事を囃し立てる。老婆が一瞬立ち止まり鋭い目つきで睨むと、一旦は蜘蛛の子を散らすように逃げていくけど、また寄ってきてちょっかいをだす。
その日もいつものように何人かの小学生達がワイワイやって来た。老婆は鬱陶しかった。
突然、手押し車の右側にいたチャイナ服の小型犬が一人の子供の足に嚙みついた。小型犬の動きは速かったけど嚙むというよりも小型犬なりに威嚇したという感じだった。子供は痛さというより驚きのあまり泣き出した。一緒にいた子どもたちもびっくりして動きを止めたけど老婆は何事もなかったかのように行進を続けた。
翌朝、老婆は部屋のドアを激しくノックする音に嫌気がさしていた。
「ごめんください、ねぇ、深田さん、居るんでしょ?」
その声に聞き覚えは無かった。
「ちょっと、開けなさいよ、話があるの」
何やら荒げた女の声に老婆はようやく重い腰をあげた。入り口のドアを開けると一組の家族連れが立っていた。老婆と目が合うと子供は父親らしい者の後ろへ隠れるように下がった。
「どちらさん?」
老婆が低い声でがなる。
「昨日うちの子が嚙まれたの、犬に、商店街で、知っているでしょ」
三十代だろうか母親らしい女の息は乱れていた。老婆は子供に目をやり一言、
「知らないね」
そう言うが早いかドアを閉めてしまった。
「ちょっと、開けなさいよ、ちょっと」
女はそう言いながらドアを叩いた。老婆は何事もなかったかのようにちゃぶ台の前に座り中断していた朝食を再開した。ドアの外からは女の声がして相変わらずドアは叩かれていた。
煩いとばかりに、まだチャイナ服を着せられていない犬がキャンキャンキャンと吠えた。暫くするとドアの外は静かになっていった。
アパートの大家夫妻はどう対応していいのか分からなかった。朝、突然やって来た三人家族、特に若い母親の怒りは相当なもので、彼女が話すその特徴からして二〇六号室の深田さんの事で間違いなかった。どこでこのアパートの事を調べたのか分からないけど、小学生なんかにからかわれながら帰って来る事もあるからそんなとこからだろうと思った。
「被害届を出されますか?」
老婆のアパートを後にして向かったのは駅前の交番だった。夫と子供は仕事や学校があるので一人で来た。
「被害届、ですか?」
母親は躊躇した。さっきまでの怒りが被害届という言葉を聞いた途端になんだか大袈裟な事になりそうな気がしてきて、そもそも息子は怪我もしていないしと心細くなっていった。
「いや、そこまでは… でも迷惑なんです。あんな事を商店街でされては」
若い巡査は、この母親らしい人が何を求めているのか理解できないでいた。
「とにかくあの婆さんに警察から注意してください」
「注意って、犬を散歩させるなとかですか?」
母親はそれを聞いて、自分の考えていることが少し幼稚に思えてきて恥ずかしくなった。でもうちの子は昨日泣きながら帰って来たのよ。そう言いたかった。
「すみません、もういいです。失礼します」
やるせない気持ちで交番を後にした。
いつもの商店街は老婆の住むアパート側から入ると直ぐ左側に商店街を利用する人のための駐車場がある。駐車場といっても普通車が三台も停められるかどうかといった狭さで、右隅には常に赤いスポーツカーが駐車している為に実質二台分の広さしかない。赤いスポーツカーはいつも其処に在るのだけど不思議と動いた形跡が感じられた。
よく晴れた平日の午後、夕方と呼ぶにはまだ早い。コーラの自販機は西日を浴び始めオレンジ色で気怠く突っ立って居た。商店街中程にあるこの自販機の前を老婆は手押し車を押しながらゆっくりと歩を進めていた。両脇を歩く小型犬は今日もお揃いの赤いチャイナ服を着ているし、ポゥ様も荷台の上に静かに居る。夕方に向けて徐々に活気を取り戻す準備を始めている商店街を駅の方へ歩いて行く一行。
「コラァ、なんか言え、ワレェ、コラ」
変な音程の怒鳴り声が聞こえた。声のする方へ視線をやった人は、事態を確認すると呆れた感じでため息をついた。
男の目は血走っていた。白いヨレヨレのポロシャツに紺色のスラックス、履いていたサンダルは明後日を向いて転がっている。天然パーマのボサボサの髪は変な寝癖がついていて、無精髭に唾が纏わりついている。男は殴りながら叫んでいた。
「嗚呼嗚呼、クソが」
手は血だらけだ。そしてハイキックを繰り出した直後に地面へ倒れた。へたり込んでも叫び続けた。
「お前、ブチ殺す、糞が、糞が」
商店街を歩く人達は、そこを通る時だけ大袈裟に除け速足で通り過ぎた。
岡本薬局の自動ドアが開くと同時に北島さんが勢い良く入って来た。
「タケちゃんが大変だ。郁さん早く、タケちゃん電柱で」
それを聞いて岡本薬局の主人である岡本郁男は察知した。駆けつけた北島酒屋の北島富雄とは親の代からの付き合いだ。急いで其処へ行ってみると息子の猛行は案の定電柱と闘っていた。手足は傷付き額も切れていた。息子にはこの電柱がどう見えているのだろうか?
「猛行、どうした、帰るぞ」
「父ちゃん、こいつがクソで」
猛行はそう言って電柱を指差した。
「よく見ろタケ、それ電柱だぞ」
猛行が振り返ると電柱が立っていた。
「あれ?電柱だ。電柱になったな、なったな」
猛行は不思議だった。さっきまでのあの糞野郎は何処へ行った?そんな事を思っているところへ老婆の一行が通りかかった。
「あ、婆ちゃん」
猛行はごく自然に老婆へ話しかけた。老婆の方も何故か少し微笑み、
「怪我してるじゃないか、大丈夫かい」
低い声で応えた。猛行にも笑顔が戻った。
「婆ちゃん、買い物行くのか?」
老婆は猛行の目を見て優しく言った。
「手当てしてもらいな」
猛行は駅の方へ歩き始めた老婆達の背中を見ながら頷いた。
岡本薬局は商店街で唯一の薬局だった。駅前に何とかという横文字のドラッグストアが開店したのは、数年前の火災で北口駅前の数軒の店が焼失してしまって、もう高齢の店主達は引退を決意したからだ。各種薬の他にも食料品、酒類、日用雑貨なんかも取り揃え更に女性用コスメコーナーまであり、専用のアドバイザーまで常駐している。そのドラッグストアが開店してからというもの岡本薬局の売上は明らかに数字となって跳ね返ってきた。
その頃から猛行の母親は少しずつ変わっていくのがわかった。朝起きれなくなったり、ご飯が作れなくなったり、何となくうわのそらだったりする事が増えて、そのうち夜に出かけて行くようになり帰って来るのは朝方で酒に酔っていた。郁男は自分が不甲斐無かったけど、どうすることも出来なかった。妻がそうなるのもわかる気はしたけど受け入れられなかった。そのようなことが続くと夫婦間のコミュニケーションは取れなくなり、たまに口を開くと愚痴と嫌味しか出てこない。夫婦の争いは激しくなり、妻は猛行が五年生の夏休みに家を出ていった。
猛行は友達と遊ぶことが少なくなり、一人部屋で過ごすことが増えた。母親が居なくなったからといって生活が大きく変わった事はなかった。家事はこれまで通り父親がこなしていたし、母親が居なくなったから両親の争い事も無くなった。食い扶ちが一人減ったことで生活に少しだけ余裕ができた。ただ猛行の中で母親は母親だった。
ある夜に郁男が猛行の部屋へ食事を運んだ時に、部屋の中から猛行の楽しそうな声が聞こえてきた。
「タケ、誰か来てるのか?」
猛行は部屋から静かに出てきて食事を受け取ると小さな声で言った。
「お母さんと話していた」
郁男は部屋を覗き込んだけど人の気配は無かった。猛行は引きこもりの生活を数年続けた。
十八歳に成った頃には猛行は商店街でちょっとした有名人だった。一日の大半を商店街で過ごしていた。あっちの店、こっちの店先、パチンコ屋の中、通りのベンチの上なんかで一人ブツブツと訳のわからない事を呟きながら過ごしていた。
老婆達を初めて見た時の事は忘れられない。岡本薬局近くのパン屋には店の入口の脇に白いテーブルと椅子があって、買ったパンを食べたり出来るオープンスペースになっている。猛行はいつものようにそこへ座って日本酒のワンカップをチビチビやっていた。
妙に懐かしい雰囲気が近付いて来る様な気がして、そちらへ目をやると手押し車の一行があった。珍しく猛行は駆け寄り話しかけた。
「婆ちゃん、今日は涼しいねぇ」
すると老婆は笑顔になった。
「そうだねぇ、涼しいねぇ」
猛行は嬉しくなったけど、なんでそんな気持ちになるのかわからなかった。老婆達はそのまま行ってしまった。
猛行は一人だったけど独りではなかった。猛行には様々なものが見えていたし話し相手もいて、みんながサポートしてくれた。そこには頭の良い奴、足が速い奴、話が上手い奴、車が好きな奴、可愛い女性、格闘技の先生、絵が得意な奴、コンピューターに詳しい奴がいて、母親も居た。
駅の方へ手押し車を押しながら歩いている老婆の前に女が立ちふさがった。今朝部屋へ来たあの母親だった。
ポゥ様 ②へ続く