青のトラジェディ
もうじき、夏が終わる。
田舎の駅とはいえ、通勤通学の時間となれば相応に人はいるホームにて、その群れを掻い潜り僕の頬まで届いた風がやや冷たく、僕はふとそう思った。
この時期の空を人は、遠のいて感じると言う。科学的に実証されてはいるが、僕にとっては感覚的なものでしか感じ取れない。しかし、淋しい。そう思った。
線路を跨いだ先の木々はまだ、全盛期の青々と、とは言わないまでも茂っている。そのうち一枚が、冷え始めた風に撫でられ宙を舞った。
淋しく広がる空を、舞ったのだ。
それは、込宮真白の大失態だった。
いや、これも心地良い気温のせいだろう。出発予定の時間を大凡30分ずらす事になるとは、盛大な遅刻だ。もはや諦めたって良い。
それでも真白が走るのは、学校で待っているであろう愛おしい人に1分でも早く会って、いつものように一緒に電車に乗って登校出来なかった事を謝罪する為だ。スマートフォンのチャットアプリで伝えられる端的な言葉に、溢れる想い全ては乗せきれない。だから、いち早く彼に会いたかった。
「はあ、電車…っ」
改札前でもたつきながら定期券を取り出し、乱れた呼吸を整えていた丁度その時、ガタンゴトンと線路を這う巨大生物が迫り来る音がした。
慌てて乗り込んだ三両編成の胃袋に、当然学生の姿は見当たらない。30分遅れと田舎の相乗効果で空いた朝の電車の中を、ゆったり練り歩く。独り占め出来ないだろうかと、くすんだ小豆色のボックス席をいくつか覗いてみて、真白は息を呑んだ。
そこにはいるはずのない人が、窓へ頬杖をついて、瞳を朝日に浸してきらきらと輝かせていたのだ。
「…アオ。どうして、…」
「あ。おはよ、シロ。ああ、くせっ毛が益々ぼっさぼさ。こっちおいで。」
篠藤蒼。彼はまさに先程まで出来るだけ早く会いたい、と真白が願っていた恋しい人だ。真白は蒼を「アオ」と呼ぶ。それは、真白の名を彼が「シロ」と呼ぶからだ。丁度名前に共通性を見つけ、そう呼び合うよう決まったのだ。
疑問を言葉にするより先に、真白は誘われるまま蒼の向かいへと腰かけて、首を垂れる。彼の優しい両手のひらが、灰白色の髪に埋まった。梳くようにうなじにかけて撫でられる感覚に、うっとりと目を細める。冷え切ったとも温いとも言い難い、夢を掴んだような体温の蒼の指に頭皮から真白の熱が伝わって、ゆっくりと、現実的な温かみを帯びてくる。そこで真白は漸く、顔を上げたのだ。
「ん…、…アオ、なんでこの電車乗ってんの。もう朝のホームルーム、間に合わないよ。」
「え?そんな事ない。間に合うよ。」
漸く口に出すことの出来た問いは、存外呆気なく返された。遅刻する真白を待っていたとも思えない。本当に、いつも通りに学校へ辿り着く気でいる表情だった。
蒼の呑気な態度に、真白もすっかり脱力して背もたれのモケット生地に身体を沈ませる。ふと目線を車窓へ向けると、山々は消え失せ、海が広がっていた。毎朝見る景色ながら、白い朝日が世界を青く彩っていく姿にはうっとりと目を細める。
「きれいだね。」
美しい景色に、優しい音が溶け込む。この上無い幸せに、真白は細めた目を蒼へ向けた。
「ずっとこのままでもいい。」
そんな叶わない望みにさえ、蒼は困惑も躊躇もなく微笑んでみせる。互いを想う愛おしさが交差して溶け込む。二人の愛は、水色だった。
―次は、××駅。お出口は、左側です―
無慈悲にも車内アナウンスが終わりを告げ、真白は苦笑して腰を浮かせた。見飽きるぐらいよく見たコンクリートのホームが近付き、やがて停車する。鞄からスマートフォンを取り出しながら、空気の抜けるけたたましい音の発生源へと歩みを進めた。
「ほら、やっぱり間に合わないじゃん。」
ホームに足を着いてから三歩ほど歩いた所で液晶画面を見れば、到着時間は大凡30分遅れである。やはりといった様子で肩をすくめ、振り返った。
蒼がいない。
動揺し一時硬直したものの、慌てて人も疎らなホームを見渡した。彼の姿を捉えられないまま、電車は口を閉ざし、次なる目的地へと走り去ってしまう。
慌ててチャットアプリで連絡を取ろうと試みた。しかし既読の文字は一向に付かない。頭上では駅のアナウンスが定期的に響いている。真白にはそれが言葉として認識出来ないぐらいには、焦燥していた。
一限が始まるであろう時間になった頃、諦めてスマートフォンを鞄へ仕舞った。真白の様子に訝し気な視線を送っていた駅員も、その青い顔を見れば途端心配そうな表情へと変わる。「君、大丈夫?」小さくかけられた言葉に小さく首を振って、次の言葉を待たないまま改札を潜った。
学校に着いても、蒼の姿は無かった。担任は意外にも真白を責める事は無く、同級生らも心配そうに真白を見ていた。そうして告げられたのは、真白の乗る電車の路線で人身事故があった事。故人の身元は調査中だが、事故のあった駅が篠藤蒼の利用する駅であった事。そして、蒼が学校へ来ていない事実。
案の定、昼頃には集会が行われ、篠藤蒼の事故死が告げられた。
騒がしくなる体育館で、本来なら泣き崩れ誰より悲しむはずの真白は、ただ瞬きを忘れてしまうほど、茫然と立ち尽くしていた。
(だって、一緒だったんだ。一緒に、電車に乗っていたんだ。)
彼に撫でられた髪に触れる。まだ、感触を覚えている。
口に出さなければ誰も知る由もないその記憶は、真白の脳裏にだけ留まるものとなってしまった。
続