127:風と炎
軋んだ音に目を向ければ、渋色のデスクの向こうに腰掛けた青年の姿が滲んで見える。
多少の誤解や悪意ならば見ないふりも出来たが今回ばかりはそう言うわけにはいかないか。
心の中で憂鬱な溜息を一つ吐き出し、彼に釘を刺す為に口を開く。
「疑問や文句は幾つかありますが。……ウィル」
「ん?」
時折目を押さえるこちらに良心が刺激されるのか、彼の返事は鈍い。
その事には触れず、表面上の穏やかさは保ったまま問いを投げる。
「先程の光は遠回しな宣戦布告だと受け取っても良いんですよね」
空気に浅い亀裂が入る音がした。
漸く鮮明になりはじめた視界に、目を軽く見開いた状態で硬直しているウィルの姿が映る。
のんびりとした彼の態度からそうじゃないかとは思ってはいたが、やっぱり悪意はなかったらしい。
だが、やられた事が事だけにうっかりでは済まされないのが頭の痛いところだ。
「そ、れはどういう意味だ」
「どういう事かと聞かれましても。ウィルだって私の一族の特徴はご存じなのでしょう?
知っていてこの歓迎なら、どう考えても友好的ではありませんよね」
不機嫌さを示すため、腕を組んでウィルの瞳を睨み据える。
そう。マナ・メムンは光に晒されても無害ではあるが、今は吸血鬼一族の末裔の姿を仮面とはいえ被っている。
彼はそんな私に対し本物なら致命的な量の光を浴びせかけた。
吸血鬼一族の末裔であれば重傷寸前だ。種族自体詐称なので無傷だが、流石にそれを見て見ぬふりをするのはまずい。
――まあ、私は見ての通り種族でも光に強い体質なんですが。
舌先までのぼり掛けたフォローの言葉を吐き出さず、飲み込む。
カフスの件と同じく、無償奉仕も慈善事業もするつもりはない。と言いたいところだが正直なところ、私はウィルとの距離を測りかねていた。
ユハから話を聞いているにしても、彼の態度は初対面にしては柔らかい。
悪魔祓いの出来る特殊な種族を便利な手代わりとして顎で使おうとしているのか、吸血鬼一族の末裔の振りをした私が無条件で頷くほどにお人好しに見えてしまうのか。
「……すまない。安易に君に見せようとしなければ良かった。危害を加えてしまうほど強力な品だとは思いもしなかったんだ」
冷ややかな目線に貫かれたウィルは目線を落として力なく呟く。
彼の瞳をよぎった後悔の色に、溜息を噛んで頬を掻いた。
「私は、見ての通り体質から特異です。なので、先程の攻撃はほとんど効いていません」
陽の光は苦手で通しているが、聖なる光が苦手だと宣言した事はない。
苦しい言い訳ではあるが、こうなってしまったら嘘を通す。ギルドでも聖なる結界に触れた事でもあるし。じわじわ墓穴を掘っている気もするが、元々種族の詐称の時点で無理があったので気にしたら負けだ。
机の向こうでウィルが安堵の息を吐き出すのが見えたが、姿に種族と幾重にも重なった嘘のせいで居心地が悪い。
顔が出ていれば問いつめられてもおかしくないほど、私は分かり易く暗幕の下で目を逸らした。
「怪我が無くて何よりだ。何か飲みものを用意しよう。そのあたりに腰掛けていてくれ」
「いえ、お構いなく。純粋な疑問ですが布の下にあるのは聖遺物ですか?」
来客用なのか、出入り口の側に二人掛けの小さめなソファが二脚とデスクが置いてある。
お茶はともかく、立ちっぱなしは辛いので遠慮無く滑らかな質感の革張りのソファに沈み込む。
ふかふかして気持ちいい。
届かない爪先を揺らしていると、視力の回復したらしいシリルも、そっと左隣に収まった。
「近くはあるが、正しくは聖人が描いた絵だな」
彼の言葉を信じるなら、布の下にあるのは聖人直筆の絵と言う事になる。
あまり思い出したくもないが、アオの台詞を思い返せば、私は聖女のような者だ。
この世界に来てから、途中で止められた事も多々あったが料理に裁縫と挑戦した事はある。
けれど教会の中に強力な聖遺物は存在しない。
アオに聖女と断言された後、実験の為酒瓶やら何やらを無差別に手で触れて弄り回したが、その程度では聖遺物は出来上がらなかった。
「わ……ええと、例え聖人が描いたとしても異常な力ですよ」
危うく「私が描いてもそれ程光りは」と言いそうになり、言葉を変える。
ウィルは記憶を探っているのか、顎に手を当てて目を細めた。
「悪魔の劇薬に成りうる絵を目標として描かれたらしく、インクや絵の具に自分の血や身体の一部を混ぜられている、と聞く」
「理由は分かりますが、狂気を感じますね」
劇薬か。悪魔撲滅を目指す身として理念は分かるが理解はしたくない。
インクや絵の具に血を混ぜ込む辺り、狂気の一歩手前を通り越し渦中だ。あの光量を考えれば失血死寸前程には血液を使っているだろう。
「絵の前に立った時点で正悪魔位なら蒸発するでしょうね」
「…………そこまでなのか。良くできた贋作だと思って競りおとしたんだが」
「そうですか」
なるほど。何となくこの絵の手に入った経緯が見えてきて納得する。
ウィルの反応からすれば庶民は出入りしない貴族向けのオークション会場で手に入れたらしい。
これだけ輝いていれば鑑定眼なんて必要がない、と言いたいところではあるがこの輝きは貴族に対しては適用外だろう。
教会建て直しの資金を貯めるにあたって何匹か中位悪魔を祓ったが、外聞を気にしてか身分を偽り依頼を出す貴族も多かった。
オーブリー神父を通して貴族の要請は断ったが、彼らを観察して感じたものは、鈍感さだ。
悪意渦巻く環境に身を浸しているのが原因なのか、インプはともかく、他の下級悪魔を視る事の出来る貴族が少ない。
ギルドでもお茶を配ろうと顔を出したイアンが天井に蠢く下級悪魔に悲鳴を上げ、引きつれてきた当の本人達が迷惑そうに眉をしかめる、等と端から見ればある意味愉快な光景はもうお約束と化していた。
あれだけ鈍い人達なら聖人が描いた絵だろうと、悪魔が創った壺だろうと見分けられずに同列に並べてくれるだろう。
納得していると鼓膜に、紙が擦れる音が刺さった。見ればウィルが手早く机の中心に散らばった紙を束ねている。
「……あら。もしかしてお仕事の最中でしたか?」
今まで視界が効かなくて分からなかったが、よく見れば机上には分厚い本が何冊も積み上がっている。
書類も結構な量があるようだが、これを一人で処理して居るんだろうか。
視線を素早く周囲に走らせたが、メイドや執事の姿はない。
「いや、気にしなくて良い。そうだ、先程馬車の中で言うつもりで忘れていたんだが」
「何をでしょう」
ばらけた書類を一纏めにしながら真面目な顔でウィルが口を開く。
「ユハが隠れて何かしているようだ。充分に気をつけて欲しい」
遅ぇよ。
思わず条件反射で突っ込みそうになって踏み留まる。
私の喉から微かに漏れた低い呻きに、隣に居るシリルの肩がぴくりと動いた。
『…………』
たっぷりと二人で沈黙を数拍挟み、
「いいえ。それはもう問題ありません」
不穏な響きを含まないように、出来る限り優しい声音で答えを返す。
屋敷に到着した時点なら耳を貸す価値はあったが、問題が起きた後である今は、問題はない。
なんとも間延びした忠告ではあるが、善意は頂こう。
馬車内、いや、玄関で言ってくれればと溜息をつきたくなるが過ぎた話だ。
黙する私達の姿で察したらしいウィルが沈痛な表情で目蓋を伏せる。
「……そうか。忠告が遅かったようだな。重ね重ね申し訳ない」
「いいえ。終わった事です。」
「そうか――〈風〉客人をもてなして欲しい」
澄まし顔で首を横に振るとウィルが考えるように顎に手を当て、言葉半ばで指を弾き合わせた。
肌を冷たい風がなぞり、部屋の空気を集まって彼の手元で新緑色の風が螺旋状に渦を巻く。
緑色の光を瞬かせながら手の平で包めるほど小規模な竜巻がウィルの左掌の上に浮かび上がった。
彼は作り上げた渦を軽く一瞥し、無造作にこちらに向かって放り投げる。
腰を浮かし掛ける寸前、一瞬早く壁際に備え付けられた木棚が鈍い音を立て勝手に開く。
透明な掌が伸びたかのように、人数分の茶器が棚から取り出される。
渦巻く風の中心にカップやポッドと茶葉諸々一式を抱え込んだまま、竜巻が悠々と硬直した私達の間を走り抜け。微かな音を立てて三人分の白磁のカップや銀のスプーンと言ったティーセット一式が整然と並べられる。
机にはついでとばかりに白いテーブルクロスまで掛けられていた。
シリルと二人で呆然と竜巻を見上げる合間にも、中心で蓋の開いたポッドへと適量の茶葉が風と共に吸い込まれていく。
魔法は、魔法……なんだろうけど。
アオのよく分からない術は別として、この世界に降り立ってから見たどの魔法とも種類が違う。派手さのない、酷く日常に特化した術だ。
ソファに改めて身を沈め、眉間を寄せて考えていると、何時の間に湧かしたのか湯気の立つポッドがテーブルに着地する。衝撃で薄く開いていた蓋が閉じ、ぱふ、と気の抜けた音が漏れた。
なんとなくポッドから自慢げに胸を張られている気がしたので、蓋をつついて褒めておく。
「済まないが、これを片付けるまで少し待ってくれ 〈風〉」
左手で数枚厚手の紙を持ち上げ、ウィルがまたぽつりと妙な句を挟んだ。
そのまま澱みのない動作で宙に掴んでいた紙を滑らせる。
透明な板の上に乗せられたかのように、等間隔で上下三枚ずつ、計六枚の紙が宙で停止する。
「簡単なものだから、すぐに終わる」
ウィルはこともなげにそう言って机上からペンを取り、紙面を走らせた。
手慣れた風に左上から順にサインを入れていく姿に、私とシリルはただただ唖然と口を開く。
「何ですかそれ」
軽い目眩を感じる視界の端でポッドが竜巻に運ばれてお茶を注いでいる。
「あまり重要でないただの契約書だな」
三枚目を書き終えたウィルが私の質問の意図とは微妙に逸れた答えを返す。
軽い契約書ってあるのだろうかと問いたかったが、私が聞きたいのはそれではない。
四枚目を終え、五枚目にペンを立てようとしてウィルが目を細める。
ペン先のインクのノリが悪くなったのか、暫く摘んで先端を弄っていたが呟き混じりに先端を爪で弾いた。
「〈炎〉 何処かおかしいところでもあるのだろうか」
小石ほどの炎を宙に出し、ペン先の表面を炙った後インクを付けて残りの紙を仕上げに掛かる。
何処がおかしいも何も、私にとってはおかしい事だらけだ。
常識に疎い自覚はあるが、教会での生活でここまで日常に特化させた術を見た事はなかったし。専門であるスーニャは明らかに攻撃系の魔術師だった。
ウィルの手の中で先程瞬いた赤にふと思い出す。
オーブリー神父やマーユも悪魔に向けて術を放つ事はあるが、聖印や聖句が違っても紡ぎ出す色は同色のみ。
スーニャが術を行使したところも見たが、やはりそれは変わらなかった。
「二属性……?」
「ああ、これか 〈炎〉」
最後の一枚を書き終えたウィルが、もう一度掌に炎を出したが、そう長くは保たないらしい炎は数拍ほどで掻き消えた。
「確かに多属性は珍しいらしいが、珍しい事でもない」
「その一言の中だけで矛盾が発生してますよ」
半眼で突っ込むとウィルが軽く首を横に振って肩をすくめる。
「そうだな、バリエイト家では珍しい事ではないと訂正しよう。
だが、これは本当に大した術ではない。
主に使っている小精霊は……あまり言いたくはないが血筋を尊ぶ生き物だ」
「つまり、才能で選ばれたと?」
アオに素養がないと正面切って濁さず告げられた私に対する嫌みなのか。
遠回しの自慢なのかと内心恨みがましく問えば、僅かに苦い顔をしたウィルが否定する。
「違う。素養という名の血統だ。
私がたまたま風の素養を持っていたに過ぎない。
馬車の中でも言っただろうバリエイトは『血の宝石』だと」
――血の宝石。
ポッドが周囲を伺うように傾いて、ずれた蓋が小さな音を立てる。
ユハの泣きそうな顔を思い出した。