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124:慣習

 透き通るほど薄切りにされた純白の身を空色のソースに絡めて口に運び、私とシリルはさっきとは別の意味で停止する。

 トマトに近い酸味のソースと淡泊な魚の相性は抜群で、添えられていたみずみずしい根菜が舌に残った味を優しく押し流す。

 激しい色合いとは違った繊細な味と食感に、(私の表情は布に覆われていて見えないが)二人して微妙な顔になってしまった。

 香辛料を大量に掛けられた鳥の串焼きが、実は柔らかく甘いケーキだった位納得行かないものを感じる。

 口内の炙った刺身みたいな魚を舌先で探れば、緑色の部分から深い旨みが滲み出す。

 見かけの割りに良い仕事をするな緑色。これは不気味なまだらの切り身も認めるしかあるまい。

 次に出されたスープは薄い紅色。

 色合いに関しては人参スープだと思えば違和感も薄れたが、温かな液体を漂流する小振りな茸は漆黒に染まっている。

 深く考えないようにして銀のスプーンを傾けて掬い、一口。

 微かに香る野菜を焦がした香ばしい匂いと、しゃくしゃくと茸がさける小気味良い音。


 ――くっ、これも旨いなこのやろう。


 見かけを裏切る美味な食材の数々になんとなく軽い敗北感を覚えながら昼食を飲み込んでいく。

 食べるうちに気にならなくなってきたのか、戦々恐々としていたシリルの表情も平素に戻って無言のまま指を動かしている。

 スープを平らげると、蓋を掛けられた大きめの皿が置かれ、側に水の張られた小振りな陶器の器が載せられる。

 艶やかな白磁の器の水面に、薄紅の蕾と薄切りになった柑橘系の果物が数枚浮かんでいる。

 普通の家庭ではまずお目に掛からないものではあるが、これはフィンガーボウル、だと思う。

 隣に控えた執事がそっと蓋を開くと蒸されて赤くなったカニの甲羅が目に入った。

 大きなハサミが四つある事を除いては私の知っているモノと違いはない。多分、カニだろう。


「え……っと」


 見慣れない水の入った器と食材を前にシリルが困惑の視線を彷徨わせる。

 彼の狼狽える姿を眺めながら、躊躇いなくカニを持ち上げ切れ目を入れられた殻を指で割ると、乾いた音を立て身が顔を出した。

 真似してシリルも恐々と殻を取り外しに掛かる。

 殻から垂れ、指に伝った雫を受け皿に落とし、


「待て」


 指を水面に触れさせようとしたところで声が掛けられた。

 ユハに顔を向け、手に持った殻を置き内心冷や汗を流す。

 少し慣れて来てはいるが、ここは異世界だ。私が知っている常識と作法がかけ離れている可能性もある。

 手を洗ったら駄目だったのだろうか。まさか布を入れて指を拭くとか?


「なにか、間違ってましたか?」


 動揺を出さないようにして尋ねる。彼の後ろに控えるティティが「いえ」と不思議そうな顔で首を傾げた。


「そう言うわけではない。何を身構えているかは知らないが、この場にいる者達はお前達が何をしようとも表情に出さないような人間ばかりだ」

「はあ」


 思わず横に待機していた白髭の執事を見ると、好々爺といった感じの笑みを向けられた。

 紳士的な物腰に、御爺様と呼びたい衝動に駆られる。


「屋敷の中でも規則に五月蠅くない者しか居ない。どんな突飛な行動を起こそうと眉も動かさないだろう。好きなように振る舞うと良い」


 この世界の常識すら怪しいので彼の心遣いは嬉しいが、まるで野獣か何かのような扱いだ。


「……あの。屋敷に着いてからこれまで思ってはいましたが、ユハはどれだけ私が不作法だと思っているんですか」

「なんだ。違うのか?」


 ふて腐れ掛けた私の声に、ユハが不可解そうな顔をした。


「そう言われると自信はありませんけれど。そんなに酷くならないよう気をつけては居ますよ」


 作法には明るくないので使う順番が滅茶苦茶になっている可能性はあるが、食器は外側から使うように心がけている。

 音もなくナイフとフォークを動かしていたユハが手を止め、仏頂面で溜息をつく。


「お前はオレから食器の運び方から席の着き方、果ては話の切り出し方まで揚げ足を取られたいのか」

「嫌です」


 食事の最中に怒濤の駄目出しを喰らいたくないので反射的に即答する。

 話の切り出し方まで決まっているなんて、酷く面倒で堅苦しい。

 貴族はそんな苦行を食事の度にさせられているのか。

 ユハは即座に拒否した私を横目で見、


「そうだな。オレも嫌だ。

 貴族の決まり事の大半は慣習と不確実な術とも呼べない儀式の上に成り立っている」


 食器を置くと、詰まらなさそうに陶器に浮かぶ花を指先でつついた。


「儀式、ですか?」


 遊び飽きた玩具を掌で転がすようにユハは無造作に蕾を爪先で揺らし。首肯を返すと器の縁を指で弾いた。

 澄んだ音が室内に響き、隣の執事と後方に控えるティティの眉が微かに寄る。


「そうだ。そこに指の汚れを取る器があるだろう。中には塩や粉末状にした真珠を溶かすのが習わしだ」


 彼の言葉に、先程水面に触れかけた自分の指先を眺める。

 黒い手袋で肌の色を隠せても、細さまでは誤魔化せない。

 水の張られた浅い器をよく観察すれば、陶器に似た色の濁りがあり、底の方に粉のようなものが薄く溜まっている。


「真珠……ああ、それで指を付けるのを止めたんですか。でもどうして真珠を?」


 彼が告げた通り真珠が溶かされているのなら、繊維の隙間に入り込んで手袋が駄目になっていた。

 服はともかく手袋の替えはあまり持ってきていないので小さく安堵する。


「知っているだろうが、白い真珠は魔を遠ざけ魔から持ち主を護ると伝えられる。塩も同じだ」


 魔を遠ざけ、魔から護る。食事のマナーから一気に怪しい方向に話が流れはじめた。


「つまりこの儀式は悪魔祓いのようなものなんですか?」


 どんなに予防しようとも、貴族の暮らしには負の感情が付きまとう。その事を考えれば悪魔に対する防衛手段が慣習化してもおかしくはない。


「そんな大仰なものでもない。見れば分かるだろうが、インプが逃げるかどうか位には怪しい効果だ」


 半眼で告げられ、そっと視界を切り替える。

 器の中に目を向ければ薄い力が覆っていたが、ユハが言った通り聖水にも届かない輝きだ。

 懸念通り、インプが怯んでくれれば良いほうだろう。


「ぼ、ぼっちゃま」


 貴族の伝統の作法を一言の元に切り捨てられ、ティティが慌てたような声を出す。

 柔らかな胸に拳を当てた彼女の表情は暗いが、何処か柔らかな明るさを身に纏っている。

 なんだろう。ティティの周りに薄く色が見える。

 幾つもの色が瞬いているが、大元にあるのは黄色がかったオレンジ色だ。

 隣の執事も表情をあまり変えてはいなかったが、困ったように眉を寄せていた。

 同じように様々な色が瞬くが、執事の周囲を薄い緑色の燐光が覆っている。

 視界を切り替えたのが原因だろうが、光が示す意味が分からない。


「嘘ではないぞ。言われた通りちゃんと調べてみたからな」


 しらけた表情で頬杖をついたユハには、ティティと同じオレンジと薄い青の光が覆っている。


「調べた結果は、効果の信憑性の薄い慣習だと分かっただけだが」


 耳をすませながら、ちらりとシリルを見る。ユハに近いが少し濃い青が輝いていた。

 よく分からないけれど、一応このままの視界を確保しておこう。


「こんな不確実な事をしなくとも、本当に悪魔や霊を防ぎたいなら専門の人間を雇えばいい」


 光に視線を絡め取られながらも、愚痴に近くなってきた話を聞き流さないように気をつける。

 確かに効果自体はほぼ無いけれど、そこまで腐らずとも良いだろうに。

 調べて拍子抜けしたと言いたげなユハに同意の肯定を一つ返し、


「そうなんですか。まあ、そういう事もありますよね。でも、思い返せば悪い慣習でもないでしょう?」

「どういう意味だ」


 指先で蕾を示せば訝しげに顔を曇らせる。


「この小さな花の色合いを話題にして、水に溶かした果物の香りで心安らぐ。

 共通の話題がない方との雑談の役には立って居るんでしょうし」


 指摘すると身に覚えがあったのか、ユハが小さく眉を動かした。

 彼が不満を言いたくなるのも分かるが、フィンガーボウルに期待を抱く方が悪い。容赦なく話を続ける。


「貴方の言う通り、効果は微々たるものですが、指を清めた程度で正悪魔を祓えるなんて元から期待なんてしていないはず。

 効果は薄くともこの水に触れる事で魔を遠ざる事は可能です。

 おまじないなんて、そんなものじゃないんですか? もっと言ってしまえば、効果があるだけ良い慣習ですよ。悪習もあるかもしれませんが、必要がなければそのうち廃れてしまうものです」


 不良神父の言葉を借りればご立派な聖職者でさえ正悪魔を祓うのは命がけだ。

 貴族の慣習程度でどうこうなるなんて考える方が甘い。簡単に祓われたら教会の商売があがったりだ。

 複雑な聖印を刻み、長い口上を述べて漸く屠る事が出来るのに、ボウルの水だけで防げたら数多の聖職者が血の涙を流すであろう。

 血反吐を吐きながら印を覚えたと語っていたオーブリー神父は確実に泣く。


「……それも、そうだな」


 淡々と告げられた台詞に納得したように呟いて、碧い瞳を細め。数拍ほど器に視線を落とし、ほろ苦い笑みを零した。


「まあ、お前は礼儀作法など気にしなくても良い。第一、その覆面を外す気はないのだろうからな」

「それもそうですね」


 彼の指摘に頷き、自分の格好を思い返す。作法を守っているとは言ったが、覆面にマントの時点で充分不作法か。

 獣だ野蛮人だと罵られたところで外す気は毛頭無いが。

 ぼんやり眺めていると、彼らの光から蜘蛛の糸にも見える筋が宙へ立ち上っていた。

 対面のシリルを指先で軽く扇ぐと、ふわりと糸状の光が僅かに揺れる。

 おお、動いた! 干渉出来るようだけど、どういうものかは相変わらず不明だ。


「どうかしたんですか」

「いえ、なんでもないです」 


 唐突に指先で空気を混ぜはじめた私に、不思議そうな顔をするシリル。

 愛想笑いで誤魔化しながら、割り開いたカニの身を口に放り込む。ほのかな甘みに潮の香りが混じり合い、食欲をそそる。

 口内で解ける身を咀嚼しつつも周囲の観察は怠らない。彼らが不満そうな表情になっても黒い色が視えない辺り、余程強く思わない限り心の闇は表面に出ないのだろう。

 好物をけなされた時、私の胸奥から薄い闇が吹き出したのを合わせて考える。

 色で悪意を探れはしても、相手が我を忘れないと顔色と同じである程度は取り繕えてしまうと言う事か。


「そうだ、言い忘れるところだった。遅くなったが湯浴みの用意が出来ているから入ると良い」


 カニの殻に手を添えて、ユハは慣れた様子で身を削ぎ落とす。


「ゆあみ、ですか」


 風呂の概念が無かったのか、村人だった彼には縁遠かったのか、眉を寄せたシリルが復唱する。

 この世界の浴場は贅沢品らしく、教会でも風呂桶みたいなものはない。

 温めたお湯をタライに張って布を浸して拭くだけで済ませてしまうか、暖かい日に水浴びをする程度だ。


「知らないのか」

「いえ、知ってます。お湯に浸かる入浴ですよね、凄く楽しみで――」


 ユハににこりと答え、重要な事を思い出して硬直する。

 慣れない異世界、教会でも幾つかの苦労はあった。それは文字の読み書きであったり、環境の違いと言ったものが多い。

 その中でも特に私を悩ませ苦しめたのが、マント下に隠してある長い銀髪だ。

 まず、洗髪をしようにも私の銀髪は長すぎてタライからはみ出る。

 次に、あれほどの長さだと自分で洗う事も難しい。この時点で私は一人で入浴出来ない。

 髪を洗う為の水を用意するのも大変という事で、泣く泣くまだ寒い川に髪を付けて流すように洗っている。

 長さや量を考えると、端から見れば洗髪じゃなくて洗濯にしか見えない。

 慣れない初日は髪の重みで川に半身を沈めて風邪を引きかけた。水の冷たさを思い出すだけで肌が粟立つ。

 勿体ないから髪を切るなと力説していたマーユでさえ、余りの重労働に「むがー! 何で切れないのよこの髪ッ」と叫ぶ始末だ。

 暖かいお風呂は嬉しいが、確実に手に余る銀髪を思い浮かべ内心苦悩する。


「そ、そうですね。ウィルの話を聞いてから、夕刻以降に入ります」

「そうか」


 ユハの相槌の隙間を縫い、片付けられた皿とサラダの入った器が交換される。

 緑色のレースのような野菜の上に、薄い色をしたパナナムがサイの目状に刻まれ散らされている。


「入るついでに洗いたいものがあるのでタライのような物も用意して頂けると助かります」

「マナ様、渡して頂ければ此方で洗いますが」


 ティティが私を伺うように小首を傾げた。彼女の申し出は嬉しいが、それは無理な相談だ。


「いえ、大切な道具ですので。だから、ええと。シリルも手伝って下さい」


 曖昧に言葉を濁す私に話を振られ、きょとんとスミレ色の瞳を瞬かせる。


「銀糸の……全部とは言いませんから」

「え……あ……はい?」


 話がうまく飲み込めなかったか、彼は疑問と困惑混じりのまま肯定を返してきた。

 よし、言質を取った。


「あれ…………えっ。僕が!?」


 数呼吸ほどの間を置いて、理解したらしいシリルの喉から悲鳴が漏れる。


「ええ。物が物ですから、貴方が頷いてくれて本当に良かった」


 暗幕の下で掌を組んで感謝の眼差しを送ると、


「………………分かり、ました。頑張ります」


 苦しげな呻きと共に重々しく頷かれた。

 私の洗髪は、そんなに覚悟を込める程のものなのだろうか。

 そこまで深刻になられると少々複雑である。

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