121:ヒツギ
瞳を開き、視界を広げる。
悪意が色を含み、黒い砂嵐のように下級悪魔の周囲を駆けめぐる。
淀む空気の中、封印札を握り締めた悪魔の瞳が鈍く輝いた。
『ギ、ギィイ!』
歪んだ笑みを浮かべたインプは炭化したように崩れ落ちていく自分の指には構わず札を強引に引きはがし、高らかに吼えた。
封印札の抵抗を受けた指が地面に落ちて灰となる。痛みを感じているはずの悪魔は、宙を巡る力に目をやり粘ついた笑みを浮かべ。
半ば砕けた掌を掲げ、招き入れるように悪意に向かって指を伸ばす。
闇が更に渦を巻き、インプの身体に向かって収束する。
空気が唸り、黒い肌に悪意が吸い込まれていく。
目まぐるしく変わる周囲の変化を取りこぼさないように見据え、私は胸奥で苦々しい舌打ちを打った。
空気の流れを手繰るように調べれば、吐き気を催す空気を発してはいるが、禍々しい悪意の根はインプにはなく辺り中に広がっている。
埃のように漂い、散った部屋の悪意はインプに寄り集まり、束となる。
周囲のみならず、屋敷中から負の感情すべてをかき集め、悪魔は取り込み始めていた。一呼吸ごとに悪魔を取り囲む闇が濃くなっていく。
悪質な。
左手に握り締めた瓶は予想以上の問題児だ。
胸焼けすら覚える光景を眺めながら、胸の内で小さく悪態を付く。
通常インプはこんな能力を持っていない。出来る事と言えばせいぜいが馬屋に小火を起こす程度。
だが、眼前の下級悪魔は水を受け、放出した気配だけで正位悪魔を軽く抜いている。
あの液体は内部の悪意を増大させるだけの増幅装置だと想像したが、そんな可愛い代物ではないらしい。
掛けられた水の影響だろう、悪魔には極上となる餌の吸収が非常識な勢いで早まっている。
近場だけではなく、屋敷全ての負を食い尽くす速度だ。
容量の浅いはずの下級悪魔は己の身の限界も構わず悪意を吸い込み続けている。
一心不乱に悪意を貪る姿を見つめ、右の人差し指に力を集める。軽い火花を散らし、ばちり、と鈍い音が響く。
『ク、クカカカカ』
眩い光を目にしても、悪魔は笑みを浮かべて捻れた声を漏らし続けた。
私の知るインプは頭部の大きさの割に脳の比重が少ないのか知恵があまり回らない悪魔だったが、目前に輝く光の危険位は本能で恐怖として感じる程度の危機感は有していた。
しかし、光を見つめる悪魔の笑みは変わらない。濁った瞳の奥には知性の光は無くケタケタと肩を揺らす。
完全に理性を消し、聞いた事もないような狂った笑い声を上げ続けて悪意を飲み込んでいく。
あの液体には興奮作用も含まれているのか、嫌な能力解放をした上、少量はあるはずの悪魔の理性も意識も吹き飛ばしていた。
ユハの胸奥から悪意を引き出した原因はあの液体で間違いない。
身体が一回り膨れるほどに悪意を喰らい身に浴び続けた悪魔が、何かに気を取られたように闇を啜るのをやめた。
瞳を大きく見開き、崩壊で醜い断面を見せる自分の掌に目線を注ぐ。
ぎちり。荒縄が擦れ合うような嫌な音が響いた。
枯れ枝にも見える悪魔の腕が震え。
黒い皮膚が血液を内側から押し出されるように膨れあがり、弾け。
丸太を思わせる巨大な豪腕が――濡れた音を立て、生えた。
周囲に黒い霞を思わせる血がまき散らされる。
『ギッ、ガァァ』
肩口の繊維を引き裂きながら強引に生え出た腕にインプの喉から苦しげな呻きが漏れる。
繊維がめりめりと引きちぎられていく生々しい音に、肉が引き裂かれる音が重なった。
残った腕が内側からの衝撃で宙に千切れ飛び、バラバラに分解し、灰となる。
小柄なインプの両肩から伸びた腕は、赤子から怪物の腕が生えたような異様さだ。
インプが荒く息をつく間にも、皮膚の下で蛇がのたうち回っているかのように身体のあちこちが歪に盛り上がり続ける。
内側から捩れるように左足がねじ切られ、右足が鈍い音を立てて砕け落ち。逞しい足が生え、下級悪魔の身体と不釣り合いな四肢となる。
痛みに歪む悪魔の顔を見る限り、望む進化ではない。いや、この急激な変貌は進化ではなく、作り替え。
皮膚を引き裂き新たな四肢が生える様は、誕生と呼んだ方が正しいのだろう。
考える間も悪魔は古い器を脱ぎ捨てて、新しい器へと移り変わる。
あの水は悪意の棺だ。悪魔の骨格に強靱な肉を宿す為の棺そのものだ。
心の中で呟いた私の目前でインプの胸部が生々しい音を立てて横に引き裂かれ、ほつれた黒い繊維状になった肉の切れ目から筋肉の付いた胸筋が覗く。
「あ……う……」
共食いじみた肉体の作り替えに、背後から引きつった呻きが零れた。
無意識にドレスの裾を掴んだ指が震えている。
「シリルには無理をさせてますよね」
首を彼の方に傾け、そっと手を添える。触れた指先は恐怖のせいか酷く冷たい。
顔を覗き込むと蒼白で、今にも倒れそうな顔色だ。
答えようと何度か唇を震わせ、
「…………っ」
少年は苦しそうに胸元を押さえて眉を寄せた。
「淀んだ空気、悪魔の声、濁った瞳、肌の色。シリルにとっては全てが不快でしょう」
彼がこの世界に来て、まだ半年も経っていない。
悪魔の出す空気、臭い、呼吸、色。全て禍々しく、思い起こす事もしたくないほどに忌まわしい記憶だろう。
「………だ…い、じょうぶです。気に、しないで……下さい。すぐに、慣れますから」
心配をかけないようにか、首を大きく横に振り無理矢理言葉を絞り出して強張った笑みを向けてくる。
脅えは混じっていても決意を秘めた返答からは、直ぐにでも私の隣に立とうとする気概が見て取れる。
声も出せないほどの恐怖を抱え、それでも役に立とうとする気持ちがいじらしく、痛々しい。
横合いからまた、何か弾け引きつれる音が立ったがそれは無視してシリルの髪に指を当てるか逡巡し。
柔らかい金髪にそっと指先を絡めて、軽く梳いた。
銀髪が肩口から落ち、彼の腕に掛かる。
頭を優しく撫でているせいか、銀髪から力が零れていたのか。彼の指先から強張りが解れ、徐々に頬に赤みが戻っていく。
「シリル。そう気を張らなくても大丈夫。あなたが私を護るというように、私は悪魔なら」
固い物が砕ける鈍い音が脇から響き、びくりと少年の肩が跳ねる。
視線を向ければ、丸みを帯びたインプの顎が蠢くように変形し、大人の手首でも食いちぎれそうな牙が生え始めていた。
引き裂かれた顎から黒い血が落ち、霞となって消えていく。
目を離した間に大体の変化は完了させたのか、太い指先には鋭い爪が生えている。
黄ばんだ瞳がぎょろりと動き、爪先が少しだけ揺れ。
刹那。
視界に霞をよりあわせたような黒い筋が宙を走る。
平坦な薄い線は、シリルの喉元に向かって伸びている。
ふうん。
不可解な光景に対し疑問の前に、口元に笑みが浮かぶ。
この状態に多少の予想は付いたが、考える前に右腕に力を纏わせ、線の軌道上に手の甲を這わせた。
二呼吸程の間を置いて、豪腕が空気を唸らせ少年へ向かう。寸前、無造作に突き出された手の甲にぶつかった黒腕は火花を散らし、空中で停止した。
ミシミシと筋肉が収縮する音に、放電じみた唸りが混ざり合う。
渾身の一撃を受け止めた片腕は重みも痛みも感じない。手の位置を動かさないまま、悪魔に冷たい目線を注ぐ。
眼前に佇む私を完全無視するなんて、酷いにも程がある。
白い掌から爪先ほど離れた位置でぴくりとも動けない悪魔の腕が、自重に押し潰され半ばから千切れ飛んだ。
『ギィッ!?』
「あら失礼。悪意を糧に身体を作り替えたみたいですけど、やはり脆いですね」
表情を変えずに呟いて、そのまま無造作に右手の平で悪魔の顔面を掴む。
花びらを触れる程度の優しい動きで、指先にほんの少し力を込めた。
悪魔の頭部が嫌な水音を立て、奇妙な形に窪んでいく。
力同士がせめぎ合うのを視界の端で確認しながら、更に指を曲げれば、乾いた音を立てて漆黒の表皮がひび割れ、肉体の破片が地面に崩れ落ちていく。
崩壊を止めさせようと黒い腕が少女の細い腕を鷲掴もうと躍起になるが、黒い指先は見えない壁に阻まれたかのように宙に留まっていた。
傷を付けるどころか、触れることすら出来ない悪魔を見、シリルが恐怖と驚愕をない交ぜにした表情で立ち竦む。
「先程の続きですが、私は相手が悪魔ならばあなたの盾になれます」
静かに邪魔をされた話の続きを紡ぎ、右腕に少量力を流し込む。
漆黒の皮膚に無数の亀裂が走り、作り替えられ掛けた顔面が柔らかな粘土のように削れ落ちた。
引きちぎられた皮膚が握り締めた手の隙間から零れた。
盾としては随分物騒か。指から落ちる破片を見て、小さく言い直す。
「正しくは……矛となれる、か」
頭の大半を失った悪魔が敵意だけで残った片腕を振りかぶり襲いかかろうと身体を持ち上げる。
目も向けず空気を払うように腕を軽く一閃させると、半身が吹き飛ぶ気配を鼓膜で捉えた。
残った身体は崩れ落ち、地面に積もる前に消えていき。砂塵が空気を擦るような残響はそう経たず薄れていく。
「強さから言えば正位の上、中位の初め辺りですか」
つい力任せに砕いたが、元が下級とは思えない変貌をとげた悪魔の力を吟味する。
ウィルのカフスにはインプの破片が入っていたのかと思ったけれど、この様子だとユハとウィルに仕込まれた仕掛けは別物だ。
この棺に破片が入れられていたのなら、今頃ウィルの身体は悪魔に蝕まれてしまっている。
となると、彼のカフスは平凡な呪術を使用されていたか……印を描くインクにこの水が薄めて入れられていたか。
そんなところか。
胸の内で呟き、生ぬるい空気を白い指先でかき混ぜた。




