119:疑念
「ユハ。行く前にちょっと良いですか」
「何だ?」
機嫌が悪そうに扉から出ようとしたユハに声を掛けると、ほんの少しだけ相好を崩し彼が振り向く。
大した用事ではないからそんなに期待を向けられると申し訳なくなる。
「少し疲れてしまったので、ウィルの所に伺うのは夕刻になると伝えて頂けませんか」
私の「疲れた」の一言で彼の表情に一瞬影が差すが、静かに頷き口を開く。
「そうか。分かった、伝えておこう……もう暫くすれば食事の時間だが、昼食は口に出来そうか」
食事という単語にそれは勿論、と思わず胸を張れば隣にいるティティが日なたで眠りこける子犬を眺めるように優しい笑みを零す。
う。慈母のような目が痛い。食事という単語で反射的に返事をしてしまった。
「ええ。今後の予定も話し合いたいのでシリルと此処にいますが、ゆっくりしたいのでそっとして下さいね」
先程も言いましたが、と前置きし。内心の動揺を悟らせないように穏やかに言葉を紡ぎ出す。
「ああ。体力を随分消耗させてしまったようで済まないな」
用事を聞き終えると今度はシリルに突っかかる事もなく、扉のノブに手を掛けた。
「あまり殊勝なユハは気持ちが悪いです」
「そうか、丁寧な言葉を使うお前も気持ちが悪いので痛み分けだな」
しおらしい受け答えに居心地の悪さを感じつっけんどんに告げると、ユハが苦笑気味に肩をすくめた。
時間が経ったせいか、軽口を叩き返す余裕を取り戻したらしい。
む。そう返すのか。
だけど、丁寧なのが気持ち悪いって何だ。私は何時でも礼儀正しいのに。
ユハからあまり深刻な空気を感じない事を薄く喜びながらも、胸の中で小さく文句を呟いた。
舌の上で飴のように不満を転がしていると、視線を感じユハがいる方向に顔を向ける。
いきなり視線が噛み合った事に驚いたらしい彼が全身で分かり易く驚愕を表し、躊躇いがちに口を開く。
「そうだ。その、お前はパナナムが好きだったようだが」
「はい、大好きです」
大好物なので迷わず肯定すると、彼がびくりと身を竦ませ視線を逸らして頬を染めた。
どうしたのだろうと不審を向ける前に、気を取り直すように相手は軽く咳払いをして話を続ける。
「……そ、そうか。あまり美味い物ではないだろうから、家で出されたものには口を付けないほうが良い」
彼の挙動不審さや、曖昧な言葉運びに気を向けていたが、その一言で全て思考から吹き飛んだ。
美味しくない。
ユハは今なんと言ったのだろう。
いま、美味しくないとか言わなかったか。
あの芳醇な香りを放つ柔らかな果実。滴る果汁の中に濃厚な甘さとまろやかさが混ざり合う至福!
それを味わい、貪った過去があってなお、そのような愚かな戯れ言を口端から紡ぎ出そうというのだろうか。
「まだ言う気ですか。まだ不味いとか言う気なんですか。私に喧嘩を売っていますね」
心の中で記憶の中にある果実を咀嚼し、口一杯に広がる甘さを思い返しながら睨み付けると、地面を揺さぶられたようにユハが大きく身体を震わせる。
「ち、違う。本当にただの善意だ。お前が出したアレは美味かったからその叩きつけるような殺気は仕舞え!」
なんだか青ざめながらパナナムを必死に肯定し、気の触れた暴れ馬でも見るように脅えた眼差しを送ってくる。
うん、美味しいと分かっているなら良いのだ。
殺気と言われて先程ユハへ使っていた視界に切り替え、自分の身体を見回す。
なにやら黒みがかった光が前方に勢いよく放出されている。
悪意と言うほどではないが、胸奥の蓋が微かに揺れてしまったらしい。
「あら、なにか吹き出ていましたか。これは失礼」
丁寧に隙間を塞ぎ、誤魔化すようににっこり笑う。
いけない、好物を否定されて感情を僅かに漏らしてしまった。
気配が消えた事に胸をなで下ろして、ユハが溜息を吐き出す。
「心臓に悪い。何かあったら声を上げれば誰かしら来るだろう。遠慮無く使え」
「はい」
肯定を返すと、「昼にな」と言い残しユハが扉から出ていく。
「それでは、お昼になりましたらお声をおかけ致します。ゆっくりお休み下さい」
主の行き先を目立たぬ動きで確認し、ティティがメイドならぬ淑女とでも言うべき笑みを浮かべて、淑やかに会釈した。
「あ、ありがとう、ございます」
あまり見慣れぬ年上の女性の笑顔に、シリルは戸惑ったように顔を赤らめてしどろもどろに礼を告げる。
その姿を眺め、ティティは母のような柔らかな微笑を漏らし。メイドの見本となる音の立たなさで退室していく。
閉じられた扉の前で熱にあてられたようにぼうっと佇む少年の姿に、私は得心したとばかりに頷いてみせる。
暖かく見つめる私の視線に気が付き慌てたが、誰が批難するというのか。あの暖かな微笑みは見とれるなと言う方が難しい。
素晴らしきかな年上の包容力。
あの豊満な胸に抱かれてみたい。
同性だけど思った。自分にない物というのは誰だって羨ましいのだ。
うんうんと頷いたら、赤から青に顔色を変化させたシリルがブンブン勢いよく首を横に振ってまだ慌てていた。
鍵を掛けて遠ざかる足音と気配を確認し、ほっと二人同時に息をつく。
先程なにやら慌てていたシリルは酷く疲れたような顔で脱力し、
「なんだか、短時間で色々ありましたねって、何でいきなり脱いでるんですか!?」
安堵の息をもう一度漏らしたが、襟元に指を差し込む私を見てぎょっと目を剥く。
「よいしょ、っと。ふう、だって息苦しいじゃないですか」
批難の声を聞きながら内と外の留め具を全て外し、左右に頭を振りながら暗幕を剥がす。
乾いた音を立てて抜け殻が地に落ちた。
覆面を脱いだだけで大げさな。
湿り篭もりがちだった空気が新鮮なものとなり、身体が軽くなるのを感じる。
んーっ、やはり外は良い。人間素顔が一番だ。
この格好をする度、しみじみそう考える。マーユに告げたら「それはマナの場合意味が違うと思うわよ」と悲しげに見つめられた。
頑強な作りの留め具は頼もしいが、外す時は面倒臭い。
胸の内で小さく文句を漏らしながら外套の留め具も外していく。
「ですけれど、あまり気を抜かない方がって、更に脱がないで下さい!」
焦るシリルの言葉を聞き流し、布地の内側で束ねた銀髪を引きずり出す。
長い銀糸が光を受け輝きながら床に広がった。
「マントも汚れてますから替えないといけませんし」
腕から漆黒の衣を剥がし、足に引っかかる多層のフリルから抜け出た。
自分の銀髪を踏みつけないように注意する。何故か赤くなったシリルが物言いたげに口を開閉している。
そう言えば荷物何処だろう。シリルが持っていたから、三階の部屋に置いたままなのだろうか。
注がれる視線がなんだかとても批難めいている気がして居心地が悪い。
「…………何でそんなに怒るんですか」
「知りません」
不機嫌の理由を尋ねれば、拗ねたように視線を逸らされた。
「濡れてて気持ちが悪いのもあるんですが、やっぱりこの方が動きやすいですからね」
首を傾けながら手袋を外し、落ちたマントの内側から何重にも巻かれた紙を探り出す。
「この屋敷に来てからどうも空気がおかしいんですよね。そう、不愉快です」
ペンの立てられた机に向かい、マントから取り出した四角形の白い布を机を覆うように広げていく。幅は、シリルの肩幅位だろうか。
中央に石を乗せ、白紙に念のため封印札を隣に置いた。
「それは?」
作業を眺めながらシリルが不思議そうに口を開く。
「さあ。私にも分かりません。けど、起こった事を思えばろくな代物ではないのは確かですね」
答えて巻き付けていた紙を解き、金属の土台に据えられた赤い石の側面を眺めた。
予想は幾つか立てている。けれど、それは私の漠然とした想像なだけで実際の所分からないのが正解だ。
きっと何処かに切れ目があるはずなんだけど。
机に両手をつき、中央に乗せた石へ鼻先がぶつかるほどに顔を寄せる。
肩口から零れた銀髪が机上に流れ、地面に落ちていく。
赤い石をいろいろな角度から眺め回す。隙間のようなものは見つからない。
指先で触れてみたが、それらしい感触も感じない。
「どうかしましたか」
石を引っ掻くように爪を立てていると、シリルが色素の薄い金髪を揺らし覗き込んできた。
「切れ目を探しているんですが、見つからなくて。絶対あると思うんですけれど」
僅かに混じった苛立ちで、冷静に返したつもりの言葉はやや憮然としたものとなった。
彼は頭を少し傾け、石の表面に視線を往復させていたが、何かに気が付いたように土台部分に目を注ぎ。
「…………ん、土台と石の接着面が。これじゃないんですか?」
鏡の曇りでも指摘するような軽い口ぶりで接着面を指し示す。
言われた通り裏面に指を這わせると、金で作られた装飾の一部が押し込めるようになっている。
無言のまま細長い針金のような部品に力を込める、カチンと何かが外れるような小気味良い音が立った。
「シリル、切れ目を探すの上手ですね」
「そう、ですか?」
迷うことなく正解を導き出したシリルの眼力に戦慄を覚えながら称えたが、本人は大したことでは無さそうに首を傾ける。
隠し扉といい、この部品の事といい、この調子だと隠し事をしても直ぐ暴かれそうで言い知れぬ恐怖を感じる。
緩んだ台座の隙間に爪を差し込み、持ち上げると石の表面が蓋のように浮き上がる。
「開いた」
そっと外れた部分を隣に置き、中を覗き込む。
小石程度の石をくり抜いた空間に収まっていたのは何かの液体が満ちた小さな瓶だった。
「なん、でしょう。これ」
金の双眸を細め、じっくり調べるが見たところは変哲のない小瓶だ。
教会でも聖水用の瓶は見ていたが、歪みの少ない硝子にこの世界の硝子加工技術の高さに内心舌を巻く。
透かし見た向かいの景色すら透けて見える。完成度を見る限り、一般人には手が届かない値段だろう。
ユハやウィルに接触できるのだから、当たり前か。
足が着くのを考えて職人位は抱え込んでいるかもしれない。
「水……に、見えますけれど」
自信が無さそうなシリルの言葉に瓶を摘み上げ、軽く揺らす。
透明度の高いガラスのような容器でピンクがかった水が波立つ。
「薄い赤みがかった水ですね」
透明な水に数滴赤いインクを垂らしたような色。
コルクで出来た蓋を引き抜く、事が出来なかったので開けて貰って再度揺らす。
ちゃぷちゃぷと水音は立つが、何の香りも広がらない。
「匂いもしませんし、ただの水、なんでしょうか?」
――違う。
首を捻る少年の呟きを吟味する前に、切り捨てるような速度で内心否定の言葉を紡ぐ。
まさか。
そんなわけがない。
水だとしても何かしらの劇薬だ。
そうでないと異変の理由に説明は付かない。
可能性を探る為、瓶を傾けて脇に置いてあった紙の先端を湿らせる。
紙は無事なまま。煙も立たない。また一つ予測が消える。
この水は何だ。
全く何の反応も示さない水を眺め、胸の奥で呻く。
気配もない、臭いもない、物を溶かす劇物でもない。
リスク無く出来る事は全てやった。後出来るのは――触る位。
逡巡する耳に微かな音が滑り込む、部屋の扉の方からから濁った小さな笑い声がした。
反射的に視線を向けるのを辛うじて堪えて顔を伏せる。
扉をすり抜けたインプは、くるくると風切り音を立てながら回転し掠れた笑いをあちこちに飛ばしているようだった。
深刻な空気を吹き飛ばす黒い闖入者にシリルが困惑と疲労を交えた微妙な表情で鬱陶しそうに目線を送る。だがそれも、未だ響き渡る哄笑で訝しげなものへと変化していく。
常であれば私が無意識に視線を向けただけで塵にもならず消えたはずのインプはまだ無傷だ。
俯く私と保険代わりに机に置かれた札にスミレ色の瞳を向け、嫌な予感を覚えたか彼は頬を微かに引きつらせた。
「丁度良いかもしれません。シリル、私が触ると消えてしまうのでそのインプを持ってきて下さい」
インプを視界に収めぬよう可能な限り顔を伏せ、下級悪魔を消し飛ばさないよう注意して力を押さえ私は囁くような言葉を紡いだ。




