117:従者と主
頭を振って呻きながら起きあがるユハを横目で眺め、ゆっくり立ち上がる。
節々に鈍い痛みは残っていたが、肩にかかる重みは少し和らいでいる。
「はあしかし、着いて早々とんでもありませんでした」
呻いて首と肩を軽く回すと鈍い音が響く。うう、体中が引きつっている。
「大丈夫ですか?」
心配そうに差し出されたシリルの腕に遠慮無く掴まり、ふらつきそうになる足下を踏ん張った。
僅かな目眩に頭が左右に揺れるが、力を放出した直後よりも身体が楽だ。
「よし、平気です」
「全然平気そうには見えませんが」
シリルの腕を外し、元気よく拳を握って見せて歩くと彼が不安げに顔を曇らせ、何が起こっても対処できる位置に待機する。
相変わらずの心配性だ。
痛む頭を軽く押さえ、座り込んだユハの横を通り過ぎて絨毯に転がる石を拾い上げた。
小石程度の大きさで、見た限り気配も何もない変哲のない石を天井に向けて透かし見る。
薄闇の混じった室内で血のような赤が鈍く光った。何の気配もゆらがない。
「ユハ。まず今回の報酬として『この石』を頂いていきます。文句は聞きません」
念のためマント奥から封印用の紙を一枚取り出し、厳重に石を包んで裏に仕込んだポケットに突っ込み言い捨てる。
「……う。はあ、分かった。それはオレにと贈られた品だったのだが、仕方あるまい」
「ええ。悪魔祓いの報酬としては破格ですよね」
皮肉を混じらせた意地の悪い私の台詞にユハは一瞬言葉を詰まらせた後、渋々溜息混じりに頷く。
贈られた品の部分で微かに眉を動かせてしまったが覆面のお陰で気が付かれない。
「悪魔……祓い?」
唐突だった為か、状況の異常さからか、事情がいまいち飲み込めていなかったらしいシリルが、不思議そうに首を傾けた。
あの勢いでは予感にしたがって飛び込んできたのだろう。思えば、止めるのに必死で説明をした記憶もない。
「そう、悪魔祓いです。またユハに悪魔のようなものが取り憑いておりまして、今回の件は恐らくそれが原因でしょう」
空気をなぞるように軽く左の人差し指を動かして、改めて先程の状況を説明する。
含んだ言葉の半ばでスミレ色の瞳が一瞬強く細まったが、シリルはそれには触れずユハを睨む。
「ですが、だからといってこんな部屋まで」
珍しく険しい表情で腕組みをし批難を口に上らせたが、廊下から彷徨うように乱れた足音が響き続く言葉を途切れさせた。
「シリル様! シリル様お待ち下さい!! ぼっちゃま、シリル様がこちらに」
騒音に疑問を覚える前に、焦ったような声のメイドが弾くように扉を開け広げ、入り込んできた。
なりふり構わず追いかけてきたのだろう。紺に近いスカートは乱れ、白いエプロンの腰紐すら解け掛けている。
丁寧に結い上げていた濃紺の髪も僅かに形を崩していた。
客間で穏やかに応対していた彼女からかけ離れた姿に、部屋の空気が一瞬硬化する。
荒い息を整えながら彼女は瞳を彷徨わせ、シリルを捕捉して掠れた呻きを漏らした。
「…………これは」
眼前に広がる光景に絶句したように息をのみ、ユハを見る。
座り込んだ主と私達へ交互に視線を這わせ、自分の頭上に掛かる金のアーチを仰いだ。
二人が三階に行ってからそれ程時間は経っていない。シリルが彼女と別れたのもついさっきだろう。
この狼狽ぶりからすると、彼女の制止を振り切りこの部屋まで走ってきたのか。
ほんの少しの間で、劇的に変わった状況にメイドが衝撃を受けたとしても不思議はない。
「ティティか。客人の前だというのに騒がしいな」
埃を落とすように肩口を払い、ユハが諦めを交え小さく苦笑した。
「も、申し訳御座いません。ですが、ぼっちゃま」
掛けられた批難に彼女は素早く頭を下げ、
「やはり、踏み留まられました」
瞳を潤ませて自分の豊かな胸を覆うように両手を重ねた。
彼女の口ぶりに疑問を覚え、表情を伺う。メイドは僅かに瞠目し、ユハを見つめて優しく口元を綻ばせる。
「よう、御座いました。ぼっちゃまはやはり、ぼっちゃまでした」
小さく微笑むティティの呟きに、ユハの眉が跳ね上がる。
「……ティティは。私は、ぼっちゃまならばきっときっと……
先々代様のようにはならないと、信じておりました」
濃紺の瞳を揺らし、涙声でメイドがうわごとのように「良かった」を繰り返す。
部屋の状況を見ても変わらぬティティの暖かな表情に主人である少年が戸惑うのが見える。
薄く浮かびかけた涙を消す為か指で素早く目蓋を拭い、彼女は覚悟を決めるように一呼吸置いて私とシリルへ視線を向けた。
「マナ様、シリル様。私は、この部屋の事を存じておりました。
理解してなお、シリル様をお連れ致しました。
ぼっちゃまを責める前に、私に罰をお与えになって下さい」
「ティティ……お前」
「何故、そんな事を」
喉を詰まらせるユハを横目に尋ねると、真剣な眼差しが貫いてくる。
「私は、信じておりました。ぼっちゃまはきっと留まってくれると。
ですが、恐らく私の言葉だけでの制止は不可能だとも感じていたのです。
マナ様、貴女のお力は聞き及んでおりました。
だから、私はメイドの分際にも関わらず貴女に身勝手な賭をしたのです。
ぼっちゃまがどうしようも無いほど崩れてしまう前に、貴女に何も言わず可能性に賭けたのです」
自身でどうにも出来なかった事への悔恨か僅かに口惜しげに唇を噛み、彼女は静かに言葉を続ける。
「たとえ原因が違うのだとしても、闇への対処は貴女様に縋るしかないと愚考したのです」
メイドの告白に目蓋を落とす。
ユハに絡まった闇は酷く曖昧で強大な悪意、本来なら悪魔祓いの領分ではなかった。
彼女の言う通り、私でなければ解く事が出来なかったであろう危険な代物だ。
きっとユハの態度は何処か歪になっていて、感覚的に疑いはあったのだろう。
「…………貴女から見てもユハは、不安定だったんですね」
ただの女のカンかそれとも、ユハの話から私の本質を推察しているのか。
「はい。まるで脆い木柱をみるようでした。頑強な檻を望まれたと思えば、このように」
判断に決めかねながら尋ねる私に彼女は肯定を返し、柵の隅にある玉のような金具を細い指先で幾つか弾く。
微かな音と共に、金の格子が横へずり落ちた。
「留め具が、外れた」
軽く砕け散る接合部にシリルは驚愕を隠さず柵に近寄り、確かめるように格子をなぞって留め金に指をかける。
部品は涼しげな音を立て脆い砂糖菓子のようにぱらぱらと地面にばらけて落ちていった。
テコの原理を使用しているのか、力が掛かるだけで留め具は酷く呆気なく千切れ飛ぶ。
部品の一つを拾い上げ、元の位置に戻ったシリルが部品の破片を摘んで見せてくる。
柵はとても丈夫そうだが、部品の原材料はあまり強度があるように見えない。
「簡単に外れてしまう仕掛けを作れ、と。正反対な事を仰いました」
重ねた両手をきつく握り、懇願するようにティティは私を見つめた。
「ですから、どうか。どうか、お願いです。私に――」
「黙れティティ」
途切れ途切れに紡がれる言葉に、深い溜息を吐き出し。ユハはメイドを睨み据える。
「で、ですがぼっちゃま」
「お前はこれ以上オレに恥をかかせる気か。お前がどんな策を弄したのだとしても、起こしたのは他ならぬオレ自身だ。
自らの行動の責位負わずにどうする。バリエイトの名に泥を重ねる気はない」
濃紺の瞳から視線を逸らすように視線を落とし、決意を込めて少年は言葉を放つ。自分のメイドが何を言おうと引き下がらないという意地が垣間見える。
どうにも引っかかる。
二人が言い合いをし始めた辺りで、暗幕の下思わず顔をしかめて首を傾けた。
地に着かんばかりに頭を傾けて疑問を散らす。
なんだろう。なんだか予想した反応と随分違う。
知っている限り、いや、私の予想した通りであればユハは「オレのせいではない! これは悪魔に憑かれたからだ」位は臆面もなく言ってくれそうだと思っていたのに。
お貴族の坊ちゃん像とは違って、あまりにも潔くて吃驚する。拍子抜けと言っても良い。
ほんの少し、ほんの少しだけからかうネタが出来ず残念だと思う。下手な抵抗をしてくれたら徹底的につついてその様を眺められたのに。
ギルドでちょっと味をしめてしまった私は、内心酷い感想を漏らした。
「……ふうむ。どうにも調子が狂いますよね。私の知ってるユハとちょーっと違うんですよねぇ」
本当のところはちょっとどころではなく大幅だが、じぃっと見つめると不愉快そうに彼が口元を引きつらせた。
「…………なんだその存在自体を疑っていそうな視線は」
彼の一言にぴんと来た。なるほど、実は他の兄弟がいてすり替わっているという落ちなのだろうか。
それだと多少は納得がいく。名前を本人と間違えて呼び続けていたという非常に失礼な事をしたという事実は残るが。
「確かにぼっちゃまは時折あまり考え無しに行動なさいます。でもっ」
予想外の反応に思わず現実逃避を始めた私を見て、ティティが自分を落ち着けるよう胸元に手を当てて声を上げる。
「ティティ」
援護に見せかけた追撃としか思えない台詞に、たしなめるようなユハの声が曇る。
「ぼっちゃまは常に貴族たろうと努力はしているのです。方向性が逸れるだけで!」
真摯な眼差しでメイドは言葉を続けた。擁護するのに必死で、主の顔が暗くなっていくのは目に入っていないらしい。
「成る程。言われてみれば私と出会った原因も目的からすると……恐らく関係しますね」
結果として見る事すら叶わなかったが、彼が手にしたがったのは国を災禍に巻き込むだろうほどの禁忌の力。
貴族であれば名を汚し地盤を揺らがす程の行いになりそうな気もするが、莫大な力は畏怖に繋がる。
たとえ悪魔であろうとも、正しく使いこなす事が出来るなら、バリエイトの名は国中に轟き、その地位は確固たるものとなるだろう。
出来るのならば、ではあるけど。
彼は出来なかった。運良く私が居たから良いものの、あの騒ぎは下手をすれば彼の思惑とは逆の方に転がり落ちた。
悪魔に手を出した貴族の未来は明るくはならないはずだ。
彼との邂逅を思い返し、連鎖的に子供のような罵り合いを思い出す。
籠の中私を地に伏せて、これならと悲痛な眼差しで嘆いた姿が脳裏をよぎる。
ああ、そうか。
ティティの言葉とこれまでの彼の言動をつなぎ合わせ、気が抜けるような馬鹿馬鹿しさと胸の奥がくすぐられるような可笑しな気持ちが混ざり合う。
許しを請うよう真剣に頭を垂れ腰を折るティティには悪かったが、なんだか笑いが込み上げそうになった。
ああもう本当に。なんて、馬鹿馬鹿しい。
思い返せば、増幅の掛かった闇とあれだけの悪意を抱え、聖遺物の助けを借りたとしてもこの程度の危害しか加えてこなかった。
そんなユハの本質は、呆れるほど純粋で愚かで、憎めない位の馬鹿で。きっと酷く臆病な寂しがり屋の子供なのだ。
原因がまともでは無さそうだし、元々大した怒りはない。
どす黒い悪意に煽られても、心の端から顔を出したのは『鳥籠をつついて拗ねる子供』程度の独占欲だったのだと思えば、怒りよりもまず微笑ましい笑いすら込み上げてくる。
「仕方ありませんね。ティティさんの熱意に免じて大げさに騒ぎ立ては致しません。
ティティさんの言うように、今のユハは信じましょう」
「マナ様、ありがとうございます」
肩を揺らして笑うのを耐えながら、メイドを見つめると彼女の顔が輝いた。
ユハが驚いたようにこちらを向き、碧い瞳を揺らしていたが見なかったふりをする。
端から見れば寛大とも思える私の台詞に、ティティが頬を鮮やかな朱に染めて祈りを捧げるように両手を組み合わせる。
告げた言葉に嘘はない。
そう。今の彼は信じよう。
私は静かに両手の平を合わせると、不服そうな顔で隣に控える少年ににっこり微笑んだ。
「じゃあシリル。何か仕掛けがないかこの部屋を徹底的に調べて下さい」




