112:ゆらぎ
二人が三階へ向かい暫くし会話が途切れたのを切っ掛けに私達も席を立って客間を出た。
お茶請けとして白磁の皿に並べられたクッキーに良く似た菓子は手つかずだ。
ちょっとは食べれば良かったかなぁ。一口も味合わなかった事をほのかに後悔する。
先導するように歩を進めていたユハが振り返り、私を見た。
一階の廊下の奥まった場所であるせいか、玄関に比べると薄暗い。
耳をすませば砂があたるような雨音が響いている。廊下に溜まる湿った空気がべたりと肌にまとわりついて少し不快だ。
「それではまず、何処に行きたい?」
「何処も何も」
唐突な質問にぽかんと口が開かないようにするのに全力を傾け、このお坊ちゃんは何を言っているんだ、との気持ちを隠さず見つめ返す。
何処に行きたいもなにも、腰を落ち着けられる場所に行きたいし、服を着替えたいに決まっている。
ユハにそう言おうとして、重要な事を思い出し頭を抱えた。
ああああ、しまったっ。私の荷物はシリルが持っていたんだった!
服が入っただけの袋位自分で持てると散々主張したが、何時も通り優しく微笑まれて荷物を奪われ今に至る。
ううむ、日に日にシリルの過保護が加速していっている気がするなぁ。
数拍ほどの間をどう捕らえたのか、私の反応に顎に指をあて考え込んでいたユハが名案だと言いたげな顔で手を打った。
「そうだな、庭園はどうだ。確か庭師が育てた花が見頃だと言っていた。先程飲んだばかりだが、別の茶の手配を――」
「待って下さい」
庭園って本当に何を言い出しているんだ。
彼の台詞に唖然としかけながら制止する。窓の隙間から入り込む土と雨の香りが混じった空気が重たく肺に溜まっていく。
気分を落ち着かせる為にふー、と不機嫌混じりの息を吐き出すと不思議そうにユハが碧い瞳を瞬いた。
「どうした」
純粋に疑問に思っているらしき顔で小首を傾げると、束ねられた金髪が尻尾のように揺れた。
なんだその異様な者を見る眼差しは。どうしたってのはこちらの台詞だ!
闇で濃く見える碧瞳が怪訝そうに細められるが、こちらも負けじと哀れみを交え見据える。
前々から鈍い鈍いと思ってはいたが、悪魔に対しての察知能力は言うに及ばず、耳の機能すらも欠陥品になってしまったのだろうか。
外は相変わらずの様相で、厚い壁に覆われた廊下の奥でも風で叩きつけられた雨の悲鳴がぱらぱらと聞こえる。
時折屋敷の灯りが瞬き、臓腑に響くような重低音が壁を震わせた。
「ユハ、それは真面目に言ってるんですか? 冗談でなく」
豪雨だけでなく落雷すらも轟いているのに外でティータイムとか、彼は正気なのだろうか。
丁度咲く頃だと言われても、この雨と風の勢いでは満開の花なら既に散ってしまっているだろう。
風の強さを考えると花壇の何割かが壊滅している可能性すら考えられる。それを思うと、手塩に掛けて育てた庭師さんには同情を禁じえない。
「ああ、何故そんな冗談を言わねばならないのだ」
きっぱりと尋ねられ頭痛が増す。
「外はお世辞を重ねても良い天気だとは言えませんよ。
豪雨の中でお茶を嗜む奇特な趣向が貴族で流行っているのならその誘いもアリなんでしょうけど」
「い、いや。流石にそんな流行りはない」
貴族の流行である可能性も考慮し、出来る限り真剣に問いかけたら、焦り気味にユハが首を横に振る。
何度目かの雷鳴に、今気が付いたように顔を強張らせ、
「そ、そうだ。父上が珍しい絵を買い付けたんだがそれを見よう」
身をすくませながらも必死で誘いを掛ける姿はほんのちょっとだけ健気に見えた。
「…………ユハは私に着替えないで欲しいんですか? 悲惨な格好だって言っていたじゃないですか」
気のせいでなければ、ユハは先程から話を脇道に逸らそう逸らそうとしていないだろうか。
長々とこの服のままで居させ、私の格好がいかに貧相だったか後々まで散々馬鹿にするつもりなのかと勘ぐりたくなってる。
荷物がないからどちらにしろ着替えられはしないけど。
「そう言う訳じゃないぞ。お前達は美術品はあまり目をしないだろう。目を肥やす良い機会だ」
胸を張るユハに脱力しそうになる。気持ちは有り難いが、そういうものは荷物を置き着替えてからでも良いと思う。
「む、なんだそのあからさまに疲れた空気は」
「あら、私の空気に気が付いて頂けるようになるなんて。ユハも進歩して居るんですね、私は嬉しいですよ」
大きく頷いて感心してみせると、ユハが渋面で睨んでくる。
「何だろう。褒められている気がしないぞ」
あたりまえだ。褒めてないのだから。
表皮にびっしり棘を生やしていそうな険のある声すら前向きに解釈するようになったら今度こそ頭を掴んで揺らしてやる。
脳の嵩が減ってやしないか確かめてやる。
何処かぼけているユハの受け答えに胸の奥で怨嗟を漏らし、暗澹たる決意を固めた。
「そうだな、お前の部屋だったか。そんなに行きたいとは、もう眠くなったのか」
豪雨と雷雲の影響で薄暗くなってしまってはいるが、道のりや腹具合を考えれば時間帯はまだ昼前辺りであろう。
馬車に揺られて疲れはしたが、眠いか眠くないかと問われれば後者だ。
そのことは告げずに肩をすくめる。
「いえ。ですが、寝室をまず拝見したいと思うのは、それ程の不審を向けられるような事だとも思えませんけど」
下宿先でまず荷物を置きに部屋に向かうのは、全国異世界共通事項だと思う。
それともそんな間すら許したくない位に待ちわびていたんだろうか。
ふっと脳裏をよぎった予想だが、ユハの場合ありそうで嫌だ。何しろ馬車の前例がある。
「別に不審がっているわけではない。こちらだ」
唇を僅かに尖らせ、拗ねるように廊下から出、広間の端にある細身な階段の手すりに指を掛けた。
二階に伸ばされた白い道は、上品な蛇を思わせるしなやかさだ。
角を削られ丸みを帯びた白石の階段は何処か優しげに見えた。赤い絨毯の隙間から、乳白色の艶やかな光が零れる。
ひとつだけ段を踏んでユハがゆっくり身体を持ち上げ、頭一つ分高くなる。
私の背丈だと見上げるようになってしまって首が痛い。
「階段を上るが、転がり落ちたりしないだろうな」
視線を落とした彼は、不安げに顔を曇らせて尋ねてくる。
堂々としているつもりなのに、そんなに不安定な歩き方に見えるのかと少なからずショックを受ける。
いや、早合点は良くない。何時も誰かしらが私の背を支えるように動いているから気になるのだろう。
「失礼ですよ。大丈夫です…………たぶん」
「多分とは何だ」
自信を示す為大きく首を縦に振り、言葉の後半でそっと顔を逸らすとユハが半眼になる。
地面に伸びる銀髪と比べれば、マントは短く踏みつける事は減ってはいる。が、ゼロではない。
未来への可能性は、善し悪し問わず考えるべきだと強く思う。
気軽に切り捨てた枝葉に貴重な答えが眠っている事も多いのだから。
一人で階段を上った場合、万に一つの可能性としては階段から転落する事も考えられる。
世の中に絶対はないのである。