108:血の宝石
雨粒は小さくなったのか天板を叩く音は壁に阻まれ少し遠い。
頭上で揺れるシャンデリアは鈴のような音を立てて波打ち、テーブルに置かれたティーセットから白い湯気が立ち上っていく。
柔らかな紅茶の微香が室内に充満し、心を落ち着ける。
微かにかじかんだ手袋越し、両手で包むように持ち上げて一口啜る。
渋みのある紅茶が雨に晒されずとも冷え込んだ躰に染み渡った。
白磁のカップを元の位置に静かに戻し、私達とは違い完全に雨に降られてしまった人物へと目を向けた。
私から見て斜め左辺りに座った彼はフェルナンドさんから渡された白い厚手のタオルに髪を挟み込む。
茶色の髪は雨を受けたことで濃く見えるが、水気をぬぐい取った髪が照明の下淡く輝いている。もしかしたら茶髪の中に金髪も混じっているのかもしれない。
「寒くはありませんか」
「大丈夫だ。お気遣い感謝する」
尋ねれば瞳を伏せ口早に答えを返し、澄ました顔のまま洗髪でもするようにやや乱暴な手つきでタオルを動かす。
一見すると拒絶とも感じられる表情と態度だが、かけた言葉にはきちんと反応してくれる辺りただの強がりにも見える。
「水気はしっかりぬぐい取ってください。変なやせ我慢で風邪を引かれても困ります」
「……手間をかけて申し訳ない」
言葉内に少しだけ棘を含ませてみたら、彼が気まずげに眉を下げた。彼の手にした布の端から雫がこぼれ落ちている。
体半分を覆うほどのタオルだったが、一枚では足りないか。
予想以上に濡れてしまっているな、と頭の中で感想を漏らし。壁際に寄せていた袋から体を包めるほどの布を取り出して口ごもっている相手の頭にふわりとかぶせる。
不意を突かれたか彼は驚いたように肩をはねさせた。
掛けられたタオルとこちらを交互に見つめ、口を噤んだまま目線をずらして頬を僅かに染める。
あらかわいい。
やや憮然とした表情に薄く赤みが差したのを見てそんな感想を胸中で一人ごちる。彼の返答は毎回色が薄く素っ気ない。だが、感情を無理に押し込めているわけではないのだと話しているうち、何となく察することが出来た。
元々生まれつき感情の起伏が少な目で表情がわかりにくいタイプのようだ。
彼に対しての苦手意識は抜けないもののバツの悪そうな顔は素直に可愛らしいと思える。
暗幕の下微笑ましさに口元を弛めると、体が少し右側に傾き、もの言いたげな視線が肩口辺りに突き刺さった。
視点をずらせば両手を膝に行儀よく置いたシリルが、表情は動かさず目線に不満を載せて見上げるように伺って来る。
コッソリ和んでいたのに気がつかれたらしい。
しかし何だろう。目を向けられただけだと言うのに沈黙がやけに重苦しく微妙な罪悪感まで感じてしまう。
胸奥に見えない重石が積み上げられている錯覚を覚え、硬い愛想笑いを浮かべてみる。
それにごまかされる風もなくスミレ色の瞳が正面に腰掛けた貴族の青年を警戒混じりに一瞥し。またこちらに視線を戻す。
シリルは無意識だろうが私へと意識を向けられる度、体の重心がずれ、壁に挟まれそうになる。
大人数で移動するための馬車ではないので片側の席に二人を詰めるとやや手狭に感じる。
どの程度かというと、少し体をずらすだけで接点が増えた服がこすれた音を立て、体を傾ければ重みが掛かり体が壁際へずれた。
体を傾けないように気をつけてはいるが身じろぎをするだけでも体重が掛かるので可能な限りにすぎない。
そんなギュウギュウ詰めの私達を見て罪悪感を感じたらしく青年は一瞬「隣に」といい掛けたが、体格差を思い出したのか言葉半ばで口を閉ざした。
ええ、その通り。あなたの隣に移動したのならばこの程度の狭さではすまなくなる事は考えるまでもない。
今にも威嚇の唸りを発しそうなシリルを見るにおそらく移動もままなるまいが。
もっとも、苦しくなるだけでもあるから移動しないけど。
「それで――ウイリアムさん。この天気の中どちらか出かけるおつもりだったんですか」
「ウィルで構わない」
髪を拭く手を止め、頭からタオルを外し脇に寄せ。ティーカップの取っ手に指を絡めながら彼が口を開く。
はいと頷こうとして思い直す。ユハに対し呼び捨てておいて今更ではあるが、バリエイト家は大分有名な貴族じゃないのか。
一般庶民が軽々しく身内で呼んでいそうな呼び名を使って良いのだろうか。
「ですが、私が呼んでも良い物なのですか」
そんな気持ちを込めて問いかけたら、意外そうに蒼い瞳を瞬いて彼がゆっくり首を傾けた。
「貴女がそう気にする程の物でもないだろう。
吸血鬼一族の末裔から見てしまえば我々の血の濃さなど湖に一滴の雫を垂らす程度の物だ」
口端を僅かに引き上げ、彼が皮肉げに笑う。
「…………ええ」
カップを揺らしながら、世間話のように呟かれた言葉に打とうとした相槌が止まる。
平然とした顔で凄い事を告げられた気がする。
吸血鬼一族の末裔の血が貴族よりも濃く尊いとでも言いたげな呟きを漏らさなかっただろうか。
そんなわけが無いと詰め寄りたい。しかし、である。
騙っておいてなんだが、吸血鬼一族の末裔自体をあまり知らない。
知っている事なんて人前に出る事を好まず歴史上では滅多に姿を表さない、とか。特殊な体質と能力を持つ種族だとかそんな当たり障りのない話だった。
記憶を探る為、思考の海に意識を強引に沈めこむ。
歴史上でもあまり顔を出さないと伝えられているのに何故名を知られて居るのか。
この疑問の裏を返せば、この血族は細々とは言え歴史の重要な局面に出現していたのだろう。
古文書にすら残されているだろう一族は酷く長い間、血を残しているはずだ。
時代の端々に顔を出し、長い道のりの先に残された血を受け継ぐ、それは王や選ばれた貴族の道とどう違いがあるんだろう。
異種族の上、触れる事すら躊躇われている一族であるから今まで核心部分には触れられなかったが、私、もしかしてとんでもなく身分が高い種族の振りをしていないだろうか。
今更そんな嫌な事実知りたくなかった! 私は目立ちたくないんだというのに。
定着して撤回は出来ない上に、聖女より異種族の王族の方が数倍マシなのでなりきるしかない。
慰めになるものがあるとすれば、その高貴な一族の中でも〈聖〉に属する力は忌み嫌われる事だろうか。
忌み子か。貴い身分なら生まれる事すら許されないような嫌な響きではあるがその設定で突き進む事にする。
「そうか、そうだな。我が家も一応は混じっているか。気を使って頂けて嬉しく思う」
内心頭を抱えたまま沈黙を続けるこちらの姿をどう受け取ったのか、彼は何度か納得したように頷くと謝礼を述べる。
「一応?」
唐突に礼を述べられても意味が分からず眉を寄せる。
「ああ、そうか。ユハが言っていたな。貴女は人の世にはあまり詳しくなさそうだと」
「申し訳ありません不勉強で」
「いや、知らない人間もたまにはいる」
勉強不足にしゅんと俯けば、ゆったり否定される。
フォローは有り難いけれど、その口ぶりだとたまにしかいないんですよね。
言外に非常識宣告を受けて深く落ち込む。人目がなければ壁に手を突いて陰を背負ったところだ。
「私が言うのも可笑しいだろうが、バリエイト家は少々特殊でな。
代々の当主達が配偶者に恵まれたお陰であちらこちらの血筋が入り込んでいる」
「はあ」
貴族ならばそう言う事も多そうだと納得し、返そうとした生返事は彼の言葉の続きで喉奥に引っかかる。
「その中には国を失った王族や遠縁で嫁いできた姫もいたらしい。
お陰で我が一族は『血の宝石』と呼ばれている。
もっとも、王族に関しては世代が遠いのもあって随分薄まっているとは思うがな」
辞書に記された一文を読み上げるような淡々とした口調でそこまで言い切ると、紅茶で唇を湿らせる。
内心穏やかならない物を感じながら静かに相手に問いかけた。
「…………本当にウィルと呼んで良いのですよね。いきなり無礼打ちとかありませんよね」
王族の血筋入りって、愛称とかで呼んで良い人物なのだろうか。本当に。
ユハにした様々な暴虐を思い返し額に汗する。
「誓って無い」
彼はよく通る声で肯定を返し、かるく瞳を閉じた。
不安はぬぐえないが、ここで何度も尋ねるのも女々しいか。
気持ちを切り替え出来る限り不自然にならないように話を戻す。
「それではウィル。どこに向かう途中だったんでしょうか」
好奇心を混じらせて尋ねれば、彼がああ、と頷きながらシリルと私へ交互に視線を触れさせ、手持ちぶさたに器を揺らした。
半ばまで飲み終えたカップを弄ぶのに飽きたのか、受け皿に戻し姿勢を正す。
陶磁器が擦れ合う涼しげな音が響いた。
黙したまま聞きの態勢に入った私にウィルは「いいや」と答え僅かに相好を崩して口を開く。
「弟の客人を眺めにきた」
「私、たち。ですか?」
見て楽しいものではないだろうに。
反射的に漏れ出た疑問に彼は首を縦に振り、思い返すように瞳を細めて窓を見つめる。
「酷く待ち遠しそうだったからな」
「では、忘れた物は私達になにか関連のある品だったのですか」
「関連……?」
復唱する彼の呟きが微かに低い。考えるように瞠目し、口端をほんの少しだけ持ち上げる。
「そうともいえる」
含みを持たせた台詞に疑問符を浮かべたまま首を傾けたらウィルが力無い息を長く吐き出した。
「家の者にイレイユを取りに行かせた」
思考の奥で記憶の糸が引かれる音が聞こえた。