106:アメ・カレ
酷くタイミングの悪い雨音のせいか、話を切り出す隙間を見つけられず、誰も口を開かない。
分厚い布に覆われた天板を弾く硬い音が聞こえる。濡れた地面を削る音と前後の揺れで目的の地に到着した事に気が付いた。
「本当に到着のようですね」
ええ、と頷く声を聞き。躊躇するように外を眺めるシリルに目をやった後、ゆっくり立ち上がった。
「外に出る前にこれをお持ち下さい」
背中から掛けられた声に振り向くと、酷く懐かしい物が目に入った。
恭しく差し出された品をありがたく受け取る事にする。
この世界にも、傘。あるんだなぁ。
静かに開いた扉から見えた地面は、ぬかるんでいた。
指先で払っても視界を乱す邪魔な雨は消えない。
マントに隠れた靴先を降ろし、タ、タと軽い音を立て滑らないよう慎重にタラップを降りる。
土が抉れた影響で斜めになっているのか、車体が不安定に揺れる。
ゆらゆら揺れる姿に不安をかき立てられるのか、右手を引くシリルが何時でも落ちて良いような体勢で待ちかまえている。
邪魔になる髪も仕舞ってあるから自分では危なげないつもりなのだが、他人の評価は違うようだ。
大げさな反応に納得いかないものを感じつつ、繋いでいた手を解いて握りしめた左手で金属音を立てている傘を一瞥し、右手を添えて開いていく。
さすがにワンタッチで開くタイプではないが、元の世界と同じ原理なのかかちりと金属音がして傘が固定された。
見よう見まねでシリルも傘を開こうとするが、火を起こす時とは違い慣れないのか上手く開けない。
もたつくシリルの手から傘をさりげなく奪い、開いて差し出す。
シリルは微動だにせず、ぼんやりとこちらを見ていた。
現実と非現実の境が分かっていないような、夢うつつの瞳。
「どうぞ」
ぼうっと見つめてくる彼に、傘を突き出す。
水袋を開く事やたき火を起こす事が全く出来なかった私が、手早く傘を差したのがかなり意外だったらしい。
感心しているを通り越して魂が半分飛んでいる。
傘の柄で軽く数度つつくとようやく現実に戻ってきてくれた。
「あ、ありがとう、ございます」
まじまじと傘を眺め、恥ずかしそうに瞳を伏せる。
「いいえ。たまにはお役に立たないと立つ瀬がありませんもの」
「そんなこと、ないです」
雨音に掻き消されそうなほどの呟きは、幸か不幸か私の耳に入ってきた。
多少なりともときめく場面のはずなのに、表皮の厚い心臓は跳ねもしてくれない。
「さ、それじゃあ早く行きましょう。きっとユハが待ちくたびれてますよ」
心の中で表情の変化もない自分に呆れつつ、傘を指先でくるりと回転させ、門を示す。
「そうですね。馬車の迎えが来るほどには待ち焦がれているみたいですし」
私の言葉に、微苦笑してシリルが頷いた。
ぐずぐず歩いてもしょうがない。自分に渇を入れ、大股気味に歩を進める。
靴底に踏みつぶされた草が濃厚な香りをまき散らす。踏みしめるたびに粘度の高い音が立った。
踏み込もうとした門の脇に誰かが居た。
人影は微動だにせず、佇んだまま。
外見は十代後半か二十代前半ほどの青年だった。土より明るい茶髪を雫がシトシトと濡らしていく。
仕立ての良い生地で作られたシャツは、長時間雨に晒されているのか肌に貼り付いていた。
白い袖口には雨に濡れたカフスが美しく光っている。
網膜に焦げ付く光景に足が地面に縫いつけられる。
通り過ぎようとした道を振り返った。
数歩遅れて進んでたシリルが隣で足を止め、同じ方向を眺めて眉を寄せた。
暫し不審げな色を隠さず見つめた後、伺うようにこちらに顔を向ける。
シリルの言いたいことは何となくわかる。
あの人はいったい? ここでなにを? 服の仕立てからして貴族ですか?
様々な疑問が浮かび上がっただろうが、一言で言うなれば「異様」だ。
雨足の強まる中ひたすら佇むだけでも少しおかしいが、全身黒ずくめのあからさまに怪しい人間が隣を通り過ぎようとしているにもかかわらず、彼は動揺するどころか視線すら向けない。
時折考え込むように顔を伏せ、地面に筋を作る雨水を眺めている。
少しだけ迷い、結局相手に声を掛けることにした。
このまま無視しても良いのだけど、様々な意味で気になって後で後悔しそうだ。
「濡れますよ」
せめて気の利いた台詞の一つも絞り出したいが、短時間で上手い問いかけも思い浮かばず淡泊な問いかけになってしまった。
他の問いかけを思いつければ良かったのに。濡れます、ではなく既に充分すぎるほど相手は濡れているのだし。
先程から考え込むように顎に手を当てて瞠目している。袖口に取り付けられたカフスから絶え間なく雫が滴り落ちた。
「ああ」
ようやく、彼がこちらに焦点を合わせる。
青空よりもほんのすこし濃い色の瞳を薄くあけ、指先で滴の滴る自分の前髪を邪魔そうにかき分ける。
考え事の最中だったのか、答えは随分と曖昧だ。
口を覆ういつもの仕草はせずに、彼に尋ねる。
「こんな場所で考え事ですか。随分長く居るみたいですね」
布で篭もらなかった言葉に彼が少しだけ瞳を細めた。
なんという鉄面皮。
口に出す事はせず心の中で感嘆の溜息を漏らす。
布で押さえず出した声は明らかに私の容貌にそぐわないだろうに、この程度の表情の変化で済ますとは。
私に負けず劣らずの表情筋の動かなさだ。うん、多分褒め言葉ではない。
「そう言うわけでも、ない……と思うが」
答えながら瞼に張り付いた髪を指先ではがし、目線まで持ち上がった自分の袖口を眺めて不思議そうに首を傾げた。
ぬれそぼった布は絶え間なく滴を落としていた。
考えごとに集中するあまり自分の状態に気がついていなかったのか。
「ご事情があるのでしょうけれど、考え事には向かない天気ですよ。
良ければこの傘お使い下さい。風邪を引いてしまいますから」
相手には見えない暗幕の下だが、構わずにこりと微笑んで傘を傾ける。表情が見えなくとも微笑むだけで空気位は多少変化する。
彼の視線がこちらの手元と薄闇に覆われた空を交互に見回した。
「それは」
濁すような声を漏らし、眉を潜める相手に静かに続ける。
「ああ、私からと言うのが抵抗あるのであれば、彼の分を借りて下さい。
この傘は結構大きいですから、二人で一つ差しても充分ですし。
良いですよね」
了承を得る為シリルに目を向けると、紫色の瞳を瞬き、柔らかく相好を崩した。
「あ、はい。僕は構いません。貴女の雨避けになれるのでしたら濡れても問題はありません」
一切躊躇いのない返答がきた。
それは私が構うので傘に入って欲しい。
「との事ですからどうぞ」
私が促すと、シリルが邪気のない笑みを浮かべ、傘を傾けて相手に示す。
「すまない。ありがたく貸して頂く」
青年は少し考える素振りを見せたが、つま先ほどの敵愾心も見つからない少年の姿に毒気を抜かれたように肩の力を抜く。
差し出された傘を静かに受け取り、傾かないように気を使いながら目礼してきた。
ずいぶんと礼儀正しい。感心していたら隣にいるシリルに傘をごく自然な動作で奪われる。
いつもならそのまま奪われるに任せるが、見慣れた道具と言うことも相まって過保護な彼にふつふつと反骨心が沸き上がった。
傘ぐらいは私にだって持つことが出来る!
その思いのまま反射的に取り返そうとしたら不思議そうな顔で傘をこちら側に傾け、にっこり微笑まれた。
うん。ムキになることでもないか。
屈託のない笑顔で微かに沸き上がった闘争の炎が跡形もなく蒸発した。戦意を喪失し、白旗を揚げる。
二人で小さな攻防を繰り広げていると、なにやら言いたげにしていた青年がゆっくりと口を開く。
「間違っていたら申し訳ないが……貴女はもしかして。マナと言う名前ではないか」
不意に名を呼ばれ眉を寄せる。彼とは正真正銘初対面のはずだ。
砂利がこすれる音が耳朶を打つ。隣を見ればシリルが庇うように前に出ている。
相手を見たところ敵意はない、軽くシリルの肩近くを叩いて落ち着かせながら首を傾け疑問を吐露する事にした。
「私、貴方に名前を言いましたか」
「いや、名前は身内に聞いた」
一瞬身を堅くしたこちらに僅かな困惑を瞳に浮かべていたが、淀むことなく答えてくる。
人差し指を顎に当て、名が漏れた出先の候補を探る。とはいっても、私は基本的に行動や交流が制限されているようなものなので範囲自体が狭い。浮かぶ人間はごく僅か。
近頃少々派手に手配悪魔の顔ぶれを消滅させたためほんのちょっとだけ人の口端に上ることはあったようだが、指名されるときも「あの人」とか、姿を見ていた人間から「黒い人」と容姿で指名される。
時折悪魔を払うためギルドにも顔を出すが、近頃ではやや畏怖の念を込められているらしい私に面と向かってマナと呼び捨てする輩はいない上、依頼の仲介はオーブリー神父が行う。
そのためマナという名を知る人間は随分と限られていた。教会やギルドの受付辺りの面々か、もしくは――
「ユハのご親戚の方ですか? 身分の高い方とは交流もありませんし、思い当たるのは彼くらいなんですけれど」
私が名乗りを上げた人間で貴族とつながりがありそうなのは、あのお坊っちゃんくらいだとアタリをつける。
彼は口を開く前に考え込むように視線を空にさまよわせ、「ああ」と倦怠感の混じったため息と共に肯定の言葉を吐き出した。
大きめの雨粒が彼の肩に当たって弾ける。
「ユハは、私の弟だ」
睫を少しだけ伏せさせた青年の持った傘から大きな滴が落ち、地面をえぐる音がした。世界が微かに停滞するのを感じる。
「名も名乗らず不作法だった。済まない。
私はウィリアム・アンシェ・バリエイトだ」
なぜか雨音にかき消されない静かな名乗りをどこか遠くに感じながら、先ほどの彼と同じような動作で黒く染まった空を見上げて凍り付いた思考をゆっくりと解凍させる。
『…………』
今この人はなにを告げたのだったか。
兄と言ったか。兄とはアレか、異世界の言語で貴族の一種とかでなく兄弟の「兄」って奴なのか。
おにいさんか。
兄。お兄さん。
凍結した思考が回り出す。吐き出された言葉の欠片が頭の中で組み上がっていく。頭の奥に鈍い痛みを覚えながら目の前の人物を再度注視する。
ユハのお兄さん。
ユハにお兄さん!?
取り敢えずのところ。
私は噛み合わない兄弟像に心で絶望のうめきを漏らしていた。
この奢り高ぶってなさそうな常識のありそうな方が身内だけではなく血の繋がった兄弟!? いやほんの少しばかり変わったところはあるけれど、やっぱり微塵も似ていないこの人が。お兄さんっ!?
表情の一切を悟らせない対悪魔用の分厚い鉄仮面をかぶりつつも内心絶叫する。
相手が初対面で多少の警戒をしていたから良かったが、これがオーブリー神父やシリルに告げられていたのだとしたら、我ながら情けなくもあるが分かり易く動揺していたに違いない。
先ほどから向けられていた瞳に見下す色はなく、対峙した相手の身の内まで見通すような鋭い光が見える。
本当に、私の知る弟の方とは随分印象が違う。
濡れた髪をよけるのは諦めたらしい青年は、こちらを眺めながら小さく肩をすくめて物憂げな表情になる。
「その、随分と驚かれているのが空気で察せられるが。
やはり、弟はなにか迷惑を掛けたのか。
いや、愚問か。貴女が来た理由の時点で既に充分すぎるほどの迷惑を負わせているはずだ」
返答を聞くまでもない、と言いたげに疲れたような息をまた吐き出して申し訳なさそうに言葉を紡いでくる。
確かに迷惑はかけられた。彼が想像するより何段階か上だろう迷惑をかけられはしたが、仮にも弟の所業に身内への甘さによる擁護もなくその他一切の疑問すら挟まないで弟に非があると納得している辺りユハへの信用度合いが見え隠れしている。
この沈痛きわまる溜息といい。普段なにをやらかしているのであろうか、あの坊ちゃんは。
まあともかく、先ほどの彼の態度について少々合点が行ってうなずく。
「ユハから私の事を聞いていたんですね。だから私を見ても驚かなかったんですか、納得しました」
「驚く?」
こちらの言葉に眉を跳ね上げ、何の話だと言いたげに首をひねる。予想外の反応に一拍ほど間を空けて口を開く。
「普通驚きません? 黒一色の不審者が門を通過しようとしたら」
「私は、空気を読む事に長けているとの自負がある」
彼が私とシリルへ視線を触れさせ、ぽつりと言葉を落とす。
「悪意を持つ人間なら、気が付くはずだ。ただ、貴女は悪意の片鱗も無かった。
……のだと思う」
そこで疑問が入るのか。自信満々に言ってるから確信してるんだと思っていたのに。
常識的な人物に見せかけてボケる人なのか。
「無かったから、自然と会話が出来たんだろう。無意識の間は、感覚の方が生きているからな」
ぶつきりの返答に、何となく納得がいって頷いた。きっと、言葉にしにくい感覚だと思う。
私が悪魔を探知する時のように、彼は人の悪意に敏感なのか。
「ユハが悪魔祓いの知人を招待すると言っていた。
弟に珍しく丁重にもてなせと言っていた辺り、何が原因で縁を持つ事になったのかは予想が付く。
口を割ろうとはしないが、酷く手間を取らせたのだろう」
ウィリアムは溜息を飲み込み、申し訳なさそうな声を漏らした。
「あ、ああ。それですか。まあ、手間が掛からなかったと言えば嘘になりますけれど、良い体験をさせて頂きましたし。
私達、事情があって短期間逗留できる場所探していたので今回の事は助かって居るんです。まさに渡りに船ですよ」
これは真実であり偽らざる本音でもある。
確かに彼の言うとおり酷く手の掛かる出来事だったが、それ以上にこの世界の悪魔の異常さを学べる機会でもあったし、逗留の件はとても助かっているのだ。
「ユハは人を褒める事はあまりしない。だが、貴女の事は褒めていた。
きっと素晴らしい腕前の持ち主なのだろう」
「どうでしょう。悪魔は祓えますけれど、私は、面倒なのは嫌いなんです」
トラブルやっかいごとなんて大嫌いだ。
出来ることならベッドの上で横になってぼんやりまどろんだり、シスターセルマのおいしい料理に舌鼓を打ってのんびり過ごしたい。
そんなことをぼんやり考えていると、「ところで」と彼が小さく前置きして。
「私に何か異変を感じないか。些細な事でも」
瞳を細めながらゆっくりと唇を動かす。
獲物を横切るのを前にした猫のよう目だなと、微かに張りつめた空気を余所にそんな暢気なことを考えた。




