98:お手元の材料をご確認下さい
近くの茂みを掻き分けて出た場所は秘密の庭といった名前がよく似合う、そんな所だった。
元は何かの建物があったのか、彫刻の施された柱や壁が飛び石のように散らばっている。
腰掛けるほどの大きさから拳ほどの破片まで大小様々。壊れて年月がたっているのか表面は苔むしてしまっている。瓦礫と岩の透き間を透明な魚の群がはねるように清流が流れていく。
目的地は泉と聞いていたが、源泉は離れたところにあるのか、蒼い草に包まれた窪地に透き通った水が溜まりこんでいる。
ぱっと見たところ小川にしか見えないが、冷たい空気と辺りの白い建物の欠片が清浄な雰囲気を醸し出す。
さわさわと風に撫でられる梢がまるで歌のように聞こえ。赤や黄色、彩り豊かな木の実が鈴のように揺れた。
「うわぁ」
「ん?」
見慣れない景色に感嘆の息を吐くと訝しげにエイナルの眉がひそめられる。
その反応に今の自分の姿を思い出し、ハッとなる。
うわっ、とと。今は吸血鬼一族の末裔だった。景色に見惚れて声音を変えるの忘れていた。見咎められぬ速度で急いで口元に手を当て、
「なかなか素敵な場所ですね」
見えないのが分かっていながらも薄く愛想笑いを浮かべる。
「涼しい場所っちゃ涼しいな」
首を傾げながらも同意してくる彼。今の声は気のせいという事にして貰えたらしい。
危ない危ない。
「綺麗な水ですね。そのまま飲んでも」
「平気ですよ」
振り返りセザルを見ると、馬の手綱を引きながら答えてくれる。
ふむ。
「火を起こしてすぐにご用意しますね」
めちゃくちゃに掻き回された棚からなんとか確保したティーセットをシリルが布を広げた地面に丁寧に置いていく。
「水を汲むならもう少し上の方に行きませんか」
よいしょ、と水を汲むための容器を持ち上げると、顔を一気に青ざめさせたシリルに奪われる。
そんなに怯えなくても良いと思う。過保護な対応は毎度のことだがちょっと寂しい。
「ここでも充分綺麗だと思うけど。マナって結構神経質?」
「そうかも知れませんね」
唇に指を当てての問いかけに見えない暗幕の下、目を細めた。ある種神経質な自覚はある。
それを補って余りあるほどの不安要素もあることだ、用心するに越したことはない。
「ああ、そうですね。飲むなら綺麗なほうが良いですね」
少しだけ間をおいての返答に察したらしいシリルがにこりと笑う。
察しの良い彼に思わず微笑む。人目を気にして説明する手間が省ける。
「ええ。では私もお手伝いします」
自ら手伝いを申し出るような素振りを見せつつ、芝生から立ち上がる。
言葉の内には人払いを宜しくお願いしますと込めている。
「私達も手伝いましょうか」
「いえ、水を少し汲むだけなので二人で充分ですよ」
人の良いセザルが声を掛けてきたが、シリルがやんわりと断ってくれた。
「少々お待ち下さい」
シリルに顔を向けた後、三人に軽く会釈をして上流に進む。
隣を歩く紫の瞳がこちらを伺ってくる。
後ろから付いてくる気配もないので彼にしか聞こえないよう口を動かした。
「聖水の補充を」
それだけで理解したのか無言で彼が軽く頷いてくれる。
予備はあるが、悪魔祓いのギルドで丸々二瓶使ってしまった。今後に備えて作っておいたほうが良い。
身も蓋もない言い方をすれば私が手を加えれば液体なら全てのものは聖水と化す。とは言え、簡単に作りたいなら材料にこだわる必要も出てくる。
例えば、綺麗な水とか。
「この辺りで良いでしょうか」
「そうですね。人も、居ないようですし」
「飲む分を汲んでしまいますね」
火に掛ける分だけ汲み上げるのを横目で見ながらマントを探る。
収納スペースが沢山あるのは良い事だが、探すのに手間取ってしまう。
指先に固い手応え。ん、これだ。
蒼い自然の絨毯に瓶を一つずつおいていく。入れてきて何だけど、割れ物をマントにしまうのは止めた方がいい気がしてきた。
転ぶうえ、たまにだけど昨夜みたいな事が起こったりするし。
瓶は六つ。まあこんな所か。飲料水を確保したのを確認して瓶を軽く洗っていく。
綺麗になったのを確認し、元の場所におく。
もう一度辺りを見回す。異常なし。
袖口に手を当てるとシリルがさり気なく横に移動してきた。
自分より大きな体の影に身を隠し、ほっとしながら指を露出させる。
守護者の定義はよく分からないけど、私にとって今のシリルが頑強な楯同然だ。マントから出た白い指先を確認し、覆面の留め具を内と外から一つ一つ外していく。
ガードが堅いのは良いけれど、この覆面脱ぐのも装着するのも一苦労。心でため息。
ようやく開いた隙間からまばゆい光が射し込み、目をしばたたかせる。布越しではない空気を胸一杯吸い込み、ほんの少し腕を伸ばす。いい気持ち。
聖女の中身として覆面をしている方が安全だが、ずっと付けっぱなしでは息が詰まる。
もう一度肺に空気を送り込んで作業を始める。瓶に水を注ぎ次々に置いていく。蓋はまだしない。
さて、と。
露出した左の人差し指を唇に押し当てた。ひんやりと濡れていたがすぐに体温であたたまる。
鎮座した小瓶の水面に掠めるよう指を入れていき、休む間もなく次の作業に取りかかる。瓶を一つずつ持ち上げ、息を吹き込み蓋をして上下に力一杯五回ほど振る。
これで完成。苦労も何もなく出来上がる聖なる水。世の聖職者が見たら絶望しそうだ。
作り方こそ眉唾ものだが、普通のものの数倍以上の効力がある。アオの『神に愛されし乙女の接吻は全てに聖なる祝福を』と告げられた言葉は真実だった。体のどこをつけても良いが、唇は何故か一番効力がある。
さすがにぽんぽんと聖遺物を作り出すわけにはいかないので直に口付けることはしない。
便利は便利だが、さっさとこんな力はアオ共々お引き取り願いたい。持っているだけロクな目に遭わない気がする。
「そんなに強い聖水どうするんです」
「行く場所が行く場所ですし」
悪魔退治依頼ではなく一時の宿を借りるつもりだが相手は貴族だ。なにが起こっても不思議はない。
一歩歩けばインプが蟻のように通過し、二歩目に正悪魔が輪になって踊りそうなところだ。
まあ、そこまでではない、と思いたいけど人や魔物に対しての備えができない分、自分のできる範囲で守りを固めるのは悪い事ではない。
容器の水滴を拭き取って懐に納める途中、視線を感じて手を止める。スミレ色の瞳が微かに伏せられる。
心配性な彼の不安をあおってしまったらしい。
「気にしないで下さい。これは昔からの癖のようなものです」
シリルの精神に重圧を掛ける気はないので瓶を仕舞いながら静かに口を開く。
癖。そう、幼少から悪魔につけ狙われていた後遺症みたいなものだ。
頼れるものはなく、信じられるものも見つからず、心を揺らす事すら許されない。
その環境下で私は身を守る術を自力で見つけ出し、あるいは創った。そうするしかなかった、と言うのが正しい言い方かも知れない。僅かな気の緩みが死へ直結する。
生か死か。そんな毎日を送っていれば自衛意識も自ずと高まる。
「そう、ですか……」
私の生い立ちを知っている為か、俯いて声を落とす。
フォローのつもりの台詞は、余計彼を落ち込ませる事となったようだ。
口を開こうとして断念する。言葉を重ねれば重ねるほど場を沈めてしまう気がした。
緩く流れる水面に映る自分の姿に目を落とす。マントの下に隠れた髪は見えないが金の双眸が真っ直ぐに見つめてくる。
これまでを考えれば私は幸せだと思う。悪魔に脅える事もなく、頼りになる人間もいる。
毎夜悩まされていた事を鑑みれば夢のような話だ。
執着心の強い神や姫巫女の問題が無ければもっと幸福であろう。
だからこそ思う、僅かな時間だとしてもシリルには年相応の体験をしてほしいと。
怒られる気がするので告げる気はない。考えている自分こそどうなのだといわれれば返す言葉もない。
元の年齢を考えれば……あれ、前は何歳だったけ。記憶が曖昧にぼやけている。
つい最近までは覚えていたのに掠れて破けかけた本のように細かなことが掬おうとした先からすり抜けていく。
呆ける年でもないのでなにかしらの操作をされているんだろう。もしくはされ続けているのか。
今度アオにあったらじっくり話し合おう。この長すぎる銀髪を持ち上げて談笑するのも一興だ。
沸き上がりかけたどす黒い気持ちを芝生をちぎることで紛らわし、開いた顔を隠そうと覆面に手をかける。
「え?」
目の前に赤いものが垂れ下がって間の抜けた声がでる。
顔を上げたら静かに微笑むシリルと目が合う。
摘み取ってきたらしい赤い実を片手に幾つか持ち、
「オーブリー神父に教えてもらったんですけど、疲労に効くそうです。美味しいですよ」
毒でないことを確認するようにそのうち一つを口に含む。目前で揺れる実をおそるおそる摘み、習うように口に放り込む。
ゼリー状の実が口内で解れ、ほんのりとした甘みが広がり――
「んむぐ!?」
甘いと思う前に舌先から脳天まで突き抜けるような酸味に背筋をそらす。
すっっっぱっ。
何とか叫ぶのはこらえたけど衝撃の余り目尻に涙が浮かぶ。
「体にはいいそうですよ」
悶絶する私とは対照的に、シリルは眉すら動かさず口内の実を咀嚼する。
か、体にはいいんだろうけど酸味なんて単語で収まらない味の暴力。
涙目で吐き出すことをこらえる私を見てシリルが楽しそうにくすりと笑った。