93:ゆりかごの側
何気なさを装った言葉は水面に落ちる一滴の水のように辺りに波紋を広げ、波立たせた。
やっぱり雰囲気で騙されてはくれないらしい。
「え、な、なんで僕が。む、無理だと思うんですけれど」
気を取り直したシリルの狼狽した呻きが微かに響き。
「ふ、ふふふ封印! どゆこと、どういう事っ!?」
震える声が呼び水となったか、今まで何があっても動じなかったスーニャがかぶりを振って喚き出す。
「その姿を更に封印、か?」
上手く状況に追いつけていないエイナルが本人を目の前に失礼な事を呟いた。
確かに漆黒の衣で姿を封印していると言えばそうなのだけど、なんとなくカチンと来る。
ご自慢そうな鎧に金属片で傷を付けたくなった。子供っぽいからやらないけれど。
「どうして、そんな、まさか」
セザルは真っ青になって腰を引いている。気持ちはよく分かる。
この状況下でシリルが探知、私が『封印』と告げれば答えは一つだけ。
最悪の回答“悪魔”の単語しか出てこない。普通に冒険者をやっているだけではきっとお目に掛かれないものでもあり、出会えば最後今生の終わりだ。
「まあ、お気になさらない事です。悪魔が居るだけですから」
口元を押さえ、布の下で静かに言葉を紡ぐ。
シスターセルマに教わったように可能な限り優雅に、上品に。
和ませようとした行動は逆効果だったらしく、追いつめられた小動物の如く噛み付いてくる少女。
「気になる! 悪魔って何。なんでここにいるのよっ」
それはこちらが聞きたい。
なにゆえ一介の冒険者の古馬車に悪魔が手ぐすね引いてお待ちなのか。
獲物は限られているだろうに。
「さあ、そればかりはそちらの品物なので。悪魔は悪魔ですよ。
正悪魔ではない下級悪魔ですから、下手な事をしなければ問題ありません」
迂闊に弄らなければ問題はない。興味本位で開いたら数日後に死ぬかも知れないが。
「そんな無責任な! 悪魔よ悪魔、もう駄目終わりだわ。取り憑かれるのよ全員!」
不吉な事を口の中で呟いているスーニャは放置してシリルに視線を向け直す。
「ともかく、シリル。素手で触ったら駄目です。耐性があっても品物によっては危ないかも知れません」
ふらふらと悪魔の入った品に触れようとしたシリルをたしなめた。
「あ、ごめんなさい」
かすかに鋭く突き刺した忠告に、宙にさまよわせていた指をはっと引っ込める。
迂闊ではあるが多少は仕方ないとも言える。
彼は人型の悪魔しか見た事がない。開かなければ平気と心の隅にでも思ったのだろう。
下級で箱に潜んでいても悪魔は悪魔、誘惑の力がある。金、権力、人の感情の隙間を縫って甘く囁く。
ここから出せと、自由にしろと。そうすれば思うままにしてやろう。
幾ら悪魔への耐性があっても無防備なら無意識に微かな引力にでも引かれるのかもしれない。
安心できる環境は素敵だと思う、けれどそれは悪魔が居ない場所での話だ。
しかし、無防備になる原因の大半が私にあるはずだから強くも責められない。
私は奴らに対して強すぎる。隣にいれば悪魔への絶対たる盾になりうる。
けどそれは私が気を張っている時と、油断していない時に限る。
そこをまずちゃんと覚えて貰わないといけない。
相手は、正悪魔より弱い下級悪魔だけど。前回の下級悪魔が正悪魔に見える位、格差があるけど。
前の相手は空気が重く感じるほどの圧力を孕んでいたが、今の相手は空気の曇りに少し眉をひそめる程度。
それ故に彼が油断したわけでもあるし、厳しく叱りにくい。
難しいところだ。
ただ、悪魔とお付き合いの長い私から言わせてもらうと、無策で持ち上げようとするのは良くないと思う。
「紙は持ちましたね、それで封印しちゃって下さい」
「えっ。あの、無理」
持っている紙が封印用だと気が付いて微かに羞恥と自己嫌悪に染まった顔が焦りに変わる。
「頑張れば出来ます」
きっと。
教えられる事は少ないけど。
「シー君封印できるの?」
「や、やったことないですよ!」
期待に満ちたスーニャの瞳に気圧され、珍しく彼の悲鳴じみた訴えが聞こえた。
「やる前から諦めるのは良くありません。これも成長する一歩です」
「や、やり方も……知らない、ですし」
嘘は良くない。前の封印時、隣にいた彼が知らないわけはない……が、あえて突っ込まず布の下でニヤリと口元を釣り上げる。
こちらの不穏な気配を敏感に感じ取ったかびくりと震えたシリルの表情が悲痛なものになる。
「貼り付けて、念じるだけですよ。それだけです。簡単な事ですよ」
あんまり簡単じゃないかも知れないが、成功した事がないのでそう元気づける。
私の場合封印の前に悪魔が吹っ飛んだ。きっと馬車内の悪魔なら持ち上げようとするだけで消えてしまう。
スーニャ達の手前派手な事はしたくないし、何よりこれは覚えておくべき事だからシリルに頼んだ。
「意外に単純なのね」
恐慌状態から抜け出したらしく、やや元の明るさを取り戻したスーニャが杖を一振り。
「この位できるようにならないと、一緒に来る時大変ですよ。駄目ですか?」
諭すよう告げたら、はっと彼が顔を上げた。
今の台詞が私の本心だと気が付いて。
たとえるならばこんな所だろうか。
一緒に来るなら覚えないと困る。出来ないのなら、来ないほうが良い。
あなたが心配だからなんて柔らかく言わない。足手まといは必要ない。
心の拠り所が消えるとしても死人が出る可能性があるなら、冷酷になる。
たとえ他人に私自身が悪魔と蔑まれても。
何度も付き添うと言っていたシリルには何よりも残酷な宣言。
告げた言葉の裏をくみ取って彼が紙を握りしめる。
精神集中する為にか、数呼吸。
「や、やってみます」
自分で言っておいて酷いヤツだとも思う。絶対に女神や聖女の台詞じゃない。
闇の司祭の方が似合いかも知れない。悪魔は大嫌いだけど。




