陶酔感を伴った匂いは夢だけのもの。
姉の姿を見て、それが昔の夢を見ているのだとわかった。
人間へ擬態する方法を教えてくれた姉は、家族のなかでも変わり者だった。顎を擦り合わせ出す蟻にしか聞こえない音と、前脚と触覚で体に触れる意思表示、その蟻のコミュニケーションをあまり好まない。人一倍饒舌だった姉が蟻としての会話を拒むようになった原因はわからない、しかし理由は確かにあった。
「人と話す、の大事。擬態がバレる、見た目、ではない。 会話、動き。学ぶ、より慣れる、大事」
姉の語る擬態の教えは、ほとんどの姉妹にとって意味不明で彼女の教えを受ける蟻はみるみる減り、最後には有村ひとりになっていた。姉も妹も好きだったが、それはそれとして有村は大勢といるのがあまり好きではなかった。むやみやたらと触れ合う体から受け取る絶え間ないコミュニケーションは、姉妹のなかでも特に感受性の強い有村にとって、とてつもなく疲れるものになる。だから誰も居ない姉の講義は楽だったし、姉の教えることも有村にとってはよく理解できた。
「私、たち、匂い、仲間、わかる。 人、同じ、わかる、わかる……見える、ない、あれ、吸う、吐く、近い、それ、あれ」
どう表現すればいいのかわからず、蟻の言葉で伝えたくなるがきっと姉は良い気持ちにはならないだろう、とグッと堪える。もどかしさを抱えて悩む妹の姿を見て、姉は微笑みの表情を作りながら助け舟を出す。
「雰囲気?」
「それ! フンイキ! 人、匂い……フェロモン? 同じ、仕事、フンイキ!」
「仕事、ああ、役割。 それ、とても良い、理解。花まる」
姉は蜜をたたえたツツジの花を取り出すと、有村の口にそっと根元から咥えさせた。広がる甘みに嬉しくなって顎を大きく開きそうになるが、我慢してちょっとずつ蜜を吸う。
「食べ方、も大事。 とても、とても、良い子」
姉が手を伸ばして、首の関節を爪先でくすぐる。教えていることを感動するほど理解してもらったときにだけ、その喜びを伝える方法として蟻のコミュニケーションを使って褒める姉の手。有村はその手が大好きだった。
「うれしい」
首をなでる手に顔をすり寄せる。
「あれ?」
気がつくと姉の姿が消えていた。遠くから姉妹たちが怒り、怯え、興奮している独特のフェロモンが流れ込んでくる。その先に何が待っているかすでに知っている有村は、前に進みたくは無かった。なのに自分の意思に反して脚が勝手に動く、まだ6本とも健在だった頃の脚が。近づくと擦りあわされる顎の声がはっきりと聞こえてくる。
《裏切り者! 人間の味方! 殺せ! 殺せ!》
「違う! 裏切り、違う! あの人、は危なく、ない!」
体を植物のツルで縛り上げ高く高く吊るされ、脚も2本もがれ、左の複眼にも大きな傷跡がある。そんな風になっても人間の擬態を保ったまま、姉は人の言葉で話していた。
《人間の言葉はやめろ!》
「私たち、は人になる、しかない! みんな、生きたい、ならそうする!」
《人間になどなれない! お前は敵だ!》
「わかって、ない……姉妹、家族、大事、守りたい!」
《お前は危険……人間に近すぎる。 母。》
姉を取り囲む姉妹たちから少し離れた場所に鎮座している、他の蟻よりも遥かな巨体を有した蟻へと視線が集まる。家族唯一の母親であり、この巣の女王の決断を仰ぐ。
《迷うことが~あるのですか~?》
大きく膨れた腹を揺らし、間延びした知性の感じられない声で母の裁定が下る。あれだけ声を上げていた姉妹たちは、いよいよ処遇が決まるとなると割り切れない気持ちがあるようだ。母にとっては大勢いる子の一人でしかない、しかし姉妹にとってその関係は親子よりも濃い血で繋がっている。それは半倍数性という蟻などの特殊な生まれ方に起因する、親子よりも姉妹の繋がりが濃密な蟻たちにとって姉妹を殺すということに感じる抵抗感は大きかった。
有村と姉の目が合った。その瞬間、姉に後悔とも決意とも、あるいは期待にも見える表情が浮かんだ。(逃げて、生きて)泣き出しそうな、いや泣いている有村の顔を見て、人の口の動きだけで姉はそう伝えた。それだけでわかるはずだ、という最愛の妹への信頼を込めて。
「殺しなさい」
姉は目の前にいる蟻に自らそう言い放つ。躊躇していた蟻は周囲の姉妹と母、そして姉を見た後、大きく顎を開いて首の関節に齧りついた。元より弱い関節部分、さらには姉妹の中でもそれほど強い体を持っていない姉の首はあっけないほど容易く切断された。
「姉、さんッ!」
思わず口から漏れた叫びが人間の言葉だったことに有村は自分で自分に驚いていた。地面を転がる姉の首に駆け寄ろうとするが、脚を引っ張られ進めない。真ん中の脚を掴んだ一番生まれの近い妹が、有村を行かすまいとしていた。
《ここにいたぞ!》
妹が叫ぶ。いま処刑された姉の唯一の愛弟子である有村もまた、「人間に近すぎる」と思われ危険視されていた。姉を殺した悔恨と死の匂いによる興奮がない交ぜになった姉妹たちの、殺気のこもった目線に射抜かれ恐怖が湧き上がる。
「離、せ!」
逃げ出そうとするが妹に強く引きづられ走り出せず、他の姉妹たちが一斉に向かってくるのが見える。姉が最期に伝えた言葉が有村に決意を促す。大きく顎を開いて、捉えられている真ん中の脚に自ら噛み付いた。顔を捻り関節からへし折り、切り離す、激痛に顎を食いしばりながら自由になった体を巣の出口に向かって走らせる。
まさか自ら脚を切り離すとは思っていなかった妹は、引っ張っていた勢いのまま後ろにもんどりうって転がる。頭を振って起き上がったところを殺到してきた姉妹に押し飛ばされる。
《何をする!》
《邪魔だ!》
裏切り者を捕らえた功労者になるはずが、みすみす逃がした上に追跡する道を塞いだうすのろになってしまった。その原因である有村の後姿を、妹は憤怒して見つめていた。
姉と有村、そして有村が指導していた幼い妹たちにしか知られていない巣の抜け道を必死で走る。出口から差し込む逆光の中に、数匹の蟻のシルエットが見えた。
(知られて、いた?)
待ち構える姉妹を噛み殺す決意を一瞬で固める。そうした集団の利益よりも、個人の生を優先する決断ができるところが、姉や有村が他の姉妹ともっとも違っていて、もっとも恐れられていた部分なのかもしれない。走る速度を緩めず顎を開き、まずは勢いに任せて一体を屠る算段をつける。
「おねえ、ちゃん!」
出口から覗く顔が嬉しそうに呼びかけられ、慌てて顎を閉じて走る速度を緩める。そこにいたのは有村に懐いていた3匹の幼い妹たちだった。
「お前、たち……」
「おおきい、おねえ、ちゃん、かなしい……」
姉からの指導と同じ、できる限り人間の言葉で話せという教えを、妹たちの指導に有村も取り入れていた。姉の死を悼む妹たちに有村は少しだけ慰められた気がする。血ではない何か別の、見えないものが姉と自分と妹たちを結び付けているように思えた。
「帰る、しろ」
それでも幼い妹たちを自分の傍にいさせるわけにはいかなかった。「逃げろ」といった姉のように、私にも妹たちを安全に生かす義務がある。今ならば妹たちは家族に受け入れてもらえるだろう、それならば巣に帰させるべきだ。ここで着いてきたら一緒に命を狙われるに違いない。
「イヤ!」
「嫌、だめ! 帰、れ!」
「イヤ! おねえ、ちゃん、同じ、いる!」
一番体の小さい妹が、ちっちゃな顎で爪先に噛み付き「なにがあっても離さないぞ」という目で有村を見つめる。
「かえる、あぶない。 ころす、される」
「無い。 殺す、無い」
「姉、ちゃん、私、同じ、殺す、される」
一番体の大きい妹が、有村が切り離した脚の切断面を優しく撫でながらそう言う。
「私たち、は教える、をもらった。 もう、知った、から戻れ、ない」
3匹の中ではもっとも喋るのが上手く、姉に似た話し方をするものが有村を説得する。いまの興奮しきった姉妹のもとに帰すのは確かに危ないし、姉から何か教えられてる以上、絶対に許される保証も無かった。
爪先に齧りついたままの妹を抱き上げ、擬態を始める。
「あなた、たち、人、変わる」
「?」
「いっしょ、行く、準備!」
有村の言葉の意図を知って、妹たちは大喜びでまだまだ下手くそな擬態を始める。それを確認しながら、地面に落ちている針金を体に巻きつけ切り落とした脚の代わりに擬態の助けに使う。はしゃぐ妹たちを見ながら、たぶん一緒に行くことに一番喜んでいるのは自分だな、と顎を擦り合わせて笑い声をあげた。
つづく(04/11 20:00アップ予定)




