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(7)コトシロ

 ナナモは日本に来て夏期講習が始まった時に、いったいどうなるのだろうかと思った。マギーは留守がちだし、久しぶりの東京に戸惑いもある。それになにより孤独だった。しかし、カリンと知り合ったことで気分が楽になり、勉強に集中できて、もう少し勉強したいなあとまで思っていたのだが、あっという間に終わりを告げた。

 大学受験まではまだ数か月あるが、夏期講習の最後には模擬試験があり、今の実力を知ることになる。講習会中のテストでは確かに日々手ごたえを感じていたが、この講習だけで飛躍的に偏差値があがるほど世の中は甘くない。しかし、ナナモにとっては、おばから教えられたことを再確認するよい機会となったし、初めて目に見える形で自分を知ることになった。

「八月一杯は日本に居ていいんだよね」

 ナナモはカリンとの約束を思い出していた。

「ほおーっ、日本に居たいのかい?」

 マギーはナナモを珍しく直視する。そうされると何もかも見透かされているような気がする。

「相撲大会があるんだ。ロンドンからルーシーっていう女子がやってくるから、応援に行こうと思って」

 マギーに嘘を言ってもしょうがないが、ナナモはカリンのことは黙っていた。それに、夏期講習が終わってからが気になる。ナナモがロンドンに帰らないとして、何もしないまま東京に居られるとは思えない。なぜなら、最近マギーは不気味だ。留守にする時間が少なくなっている。だから、ナナモが講習会から帰ってきたら、たいていは食事をきちんと作って家で待っている。相変わらず何かを話すということはなく、ナナモが机に向かうと、どこかにす~っと消えていく。それでも朝になると、またす~っと現れて、六時のお参りに行く。マギーはナナモと初めてこの神社に来たときと一つも変わっていない。その所作もデジャブのようで、変化がまったくない。ナナモははじめマギーはロボットなのかと思った。しかし、ナナモがこの数日間、自分なりに同じ所作で同じ時間をかけてお参りをしようと思っても、決して同じようには出来なかった。

「今日の模擬試験で夏期講習は終わりだね」

 マギーは珍しく朝のお参りの後に話しかけてくる。

「六時にここに来な、夜は外で食べるから」

 ナナモはびっくりした。マギーとは初めての外食だ。どうしてそんなことを今日突然言うんだろう。気になって試験に集中出来ないじゃないかと、マギーの方を向いたが、わざとだと、台所に行こうとしているマギーの後ろ姿で思った。もはや昔のナナモではない。気にしても前を向くしかないし、止めない限り未来は必ずやってくる。その未来が幸せなのか不幸せなのかを考える前に、好きなことを選べばいい。不思議なことに、今ナナモは、試験で自分の実力を知ることにワクワクしている。

 六本木の神社下にあるレストランに、ナナモは約束の時間の二十分前に来た。マギーはもう来ているのだろうかと、一度中をのぞいてみたが、まだ来ていなかったので、店の前で今日の試験のことを思い出していた。試験が終わってから少し時間があったので答え合わせをしてみたが、案外些細なことでミスをしていた。特に数学はあれほど自信があったのに、最後の問題は難問で、おばの教えを思い出した時にはもう時間があまりなかった。それでも模擬試験ということもあったのか、意外と平静を装えたし、これまでの勉強の成果と自分の実力がわかるという高揚感で一杯だった。

 六時きっかりに、マギーは突然ナナモの目の前に現れ、何も言わずに店の中に入って行った。ナナモが急いでついて行くと、マギーは不気味なほどの笑顔で「ご苦労だったね」と、ナナモに言った。

「夏期講習が終わったら、すべてを話してくれるって言ったよね」

 まだ料理を注文する前にナナモに言われたので、マギーは、「まあ待ちな」と、ナナモを威圧するように制すると、店員に何種類かの料理を頼み、「お前は、まだ、未成年だからね」と、自分用にワインのボトルも頼んでいた。

 ナナモは料理がきても全く喉を通って行かないだろうと思っていた。だから、今夜は外食するよりも家でマギーとゆっくりと話したいと思っていた。もし、マギーが食事をする前に話してくれないのなら、それはそれでいい。だったら、さっさと食べて早く家に戻ろうと、だから一応聞いてみたのだ。しかし、マギーはのらりくらりで、結局料理が運ばれ、マギーはそれらを小皿にとりわけ、ゆっくりと味わいながら口に運んでいる。ナナモは目の前にある料理を素早く口に入れ、飲み込もうとすると、「はしたないでしょう。どんな時も料理を作ってくれた人に感謝しないとね。それに、食材にもね」と、マギーは急に丁寧な言葉でナナモを窘めた。

「で、試験の出来はどうだったんだい。マレは、お前を医者にしたがっているみたいだけど、合格しそうかい?」

 ナナモはカリンと話した時のこともあって医学部の偏差値を調べてみたが、かなり高いことが分かった。今の実力からいって、もっと頑張らなければ、合格しないだろう。しかし、ミスはしたが、それなりの手ごたえもある。だから、「未来は誰にもわからない。それに、医学部に入るためだけに夏期講習に来たんじゃないから」と、ナナモは言った。

「じゃあ、何のためなんだい」

「自分を知るためさ。自分を知らなきゃ、何もはじまらないからね」

 ナナモはマギーと始めて会った日に言ったことをもう一度繰り返した。それでもマギーは顔色一つ変えずに、ナナモを見ているだけだった。以前のナナモならやっぱりダメなのかと諦めていただろうが、それならと、リバプールでの出来事を思い切って話してみた。

「オホナモチねえ・・・」

 マギーは意外にも一蹴せずに、ナナモから視線を外すと、聞こえるか聞こえないかの声で、その言葉を繰り返していた。

「オホナモチになりたいのかい?」

 マギーはしばらく黙っていたかと思うと、急にそう言った。ナナモは知りたいのかいではなくて、なりたいのかいって尋ねられたことが不思議だった。

「夏期講習はまだ終わっていないよ」

 マギーはナナモが返事をしないので、唐突に低い声で言った。

「夏期講習はまだ終わっていない。どういうこと?」

「新しい夏期講習講習が始まるのさ」

「新しい夏期講習?」

「そうさ、その講習を受けるときっとお前が知りたがっている扉が見えてくると思うよ」

「それは父さんや母さんのこと」

「どうかね。ただこれだけは言えるよ。扉はナナモでないと開かないんだ」

 ナナモのかすかな記憶では、マギーは一度もナナモとの約束を破ったことはない。しかし、マギーはそれからは無言で食事を進めていた。なぜか楽しそうで、鼻歌が聞こえてきそうだった。


「明日、相撲部屋に見学に行けることになったの。夏期講習も終わったし、ねえ、一日ぐらいいいでしょう」

 模擬試験が終わり、マギーとの食事までの時間、カリンに誘われた。ナナモは相撲部屋に行ったことはない。だからうれしくて仕方なかったし、何よりも、カリンともう会えなくなるんだと思もうと寂しかったので、余計にワクワク感が倍増していた。

 神社への参拝は夏期講習までだとマギーに言われていたので、二つ返事で答えた。しかし、今夜、まだ夏期講習は終わっていないとマギーが言った。それは、新しい夏期講習が始まるという意味で以前のものとは違うはずだ。だから、明日参拝に行かなくともナナモは悪くない。都合の良いようにもとれるが、間違ってはいないような気もする。

 カリンは六時に集合よと言って、場所を教えてくれた。マギーは六時前に必ず起きる。だからナナモが五時前に起きればマギーに見つからなくて家を出て、十分に間に合うことになる。目覚まし時計はセットできない。物音をたてずに出て行かなければならないからだ。ナナモはベッドに入らず、服を着たまま、机にうつぶせのままでいた。

 それでもいつしかナナモは眠りについていたのか、ハッとして目覚めた。目の前にはマギーが立っていた。

「遅れるよ」

 あっと、マギーの顔を見る前に時計の方を向いていた。

「ねえ、マギー、僕、今から行かなきゃならないところがあるんだ」

「神社に行けないって言ってるのかい?」

「そうだよ、マギーは僕に言ったよね、夏期講習が終わるまではちゃんと参拝しなきゃダメだって、だから、僕はちゃんと約束を守ったよ」

「昨日も言ったね、まだ夏期講習は終わってないって」

「ずるいよ。模擬試験で夏期講習は終わりだって、マギーは言ったじゃないか。それに、夏期講習が終わったらすべて話してくれるって言ったくせに」

「じゃあ、なぜ、昨日、私にそのことを話さなかったんだい」

「言ったって、マギーは聞いてくれないだろう」

「もう忘れたのかい。あの時もわたしゃ、ナナモに言ったよ。何でも私に話すんだよって。でもナナモは約束を守らなかった。だからナナモはどうなったんだい」

 マギーの言葉は痛烈だった。

「行けばすべてがなくなるよ」

「かまわないさ」

 ナナモは後ろ髪を引かれる思いであったが、あえて振り切るように家を出るとすぐにタクシーに乗った。東京にきて初めて乗ったタクシーだったが、ナナモが行先の住所を言ってもなかなか発車しない。

「運転者さん、行き先がわからないの?」  

 ナナモは日本語ではっきりと言った。しかし、ドライバーはナナモのイライラを全く気にせず運転席のナビを設定している。

「いえ、一番の近道を探しているんです」

 そう言うと、明らかにまだ設定が終わっていないのに走り出していた。

 大丈夫なのかなあとは思ったが、まだ、道路は混んでいなくて順調に走りだしていた。カリンはナナモの家からだったら、タクシーで十五分もかからないねと、言ってくれた。もはや六時を過ぎていたので、果たして、遅れてきたナナモを、相撲部屋は受け入れてくれるのだろうかと心配だった。少しくらいならと、ナナモはそれでも小刻みに膝を振るわしていた。

 発車して十分を過ぎたころから、運転手の様子がおかしくなった。それにやたらと道を曲がっていく。

「運転手さん、同じところを回っているように・・・」

 ナナモが言い終わらないうちに急ブレーキをかけてタクシーは止まった。

「すいません、お客さん。私、東京に来てからまだ日が浅いんです」

 ナナモは何を言っているのか理解できなかった。タクシーの運転手なのだ。日が浅いってどういうことだろう?

「でも、タクシーの運転手さんなんでしょう。だったら、東京の地図は頭に入っているんでしょう」

 運転者は苦笑いで、「細かいところはここに」と、ナビを指さした。

 ナナモは信じられなかった。勿論こういう運転手ばかりではないだろう。こんな大事な時に。「だったらなぜもっと早く言ってくれなかったんだ」と、ナナモはついこの運転者を怒鳴りつけたい衝動に見舞われた。しかし、さっきマギーと同じような言い合いをしたばかりだ。そのことが思い出されてナナモは何も言えなくなった。

「あの、どうされます?」

 運転手は弱弱しい声でナナモに尋ねた。

 ナナモは何をこの運転手は言おうとしているのかわからなかったが、どうやら降りて違うタクシーを拾われてもかまいませんよ、運賃は要りませんからと、そういう意味で尋ねてくれている。ナナモはタクシーの窓から周囲を見ても今居る場所がどこかはわからない。だから、ナビに目的地を入れたら着くんですか?と尋ねると、今度は正直に、大体のところまでしか行けませんと運転手は答えた。ナナモは仕方がないので、降りようとすると、念のためですけどどこに行かれるんですかと、住所ではなくその具体的な場所を聞かれたので、カリンに教えられた相撲部屋の名前を言った。運転手はその言葉を聞くと、なぜもっと早く言ってくれなかったんですかと、すぐに車を発車させていた。

「その相撲部屋の横綱は、私の郷里の誇りなんですよ」

 運転手は大の相撲ファンで、その相撲部屋を一人で訪れたことがあったらしい。番地は忘れてしまっていたから、ナナモの問いにはすぐには答えられなかったが道は覚えている。あそこは少し入り組んでいて奥まったところにあるから、初めての人にはなかなかわかりづらい所なんですよと、あっけにとられているナナモを尻目に、いつしか自慢げに話し出していた。

「何しに行くんですか?」と、少し落ち着いたのか、バックミラーでナナモの顔をみる。

「友達が朝稽古の見学に誘ってくれたんです」

「そうですか、それはうらやましいですね。じゃあ、急ぎましょう」

 目的地近くまで来たのか、くねくねした細道を器用に右折左折しながら、それでも最短で着きましたよと、本当に目の前には相撲部屋の看板が掲げられていた。

 時計を見ると七時を過ぎていた。朝稽古がすでに始まっていて、掛け声とともに体同士がぶつかる重い音が、時々混ざって外まで聞こえてくる。その重みは内側から外側に向かって、物凄い力で空間を押し広げているようだった。

 ナナモは壁伝いに移動してみる。小窓があって、少し背伸びすると中をのぞくことが出来た。

土俵が見える。力士たちがひしめいてかなり狭く感じるその空間は、熱気と砂ぼこりで一杯だった。しかし、なぜか厳かで、清められた色彩がそこには漂っている。

 ナナモはしばし見とれていたが、つま先に力を入れすぎているのか、足元が震えだしてきた。カリンはどこだろうと、もうひと踏ん張りして周囲を見ると、一段高くなっているところから、何人かいる見学者に混じって、カリンが一生懸命稽古を見ている。「カリン!」と、たとえナナモが大声で叫んでも、決して微動だにしないだろう。カリンからはそういう熱意が伝わってくる。

 もうひと踏ん張りと中から力士の声が聞こえてきそうだったが、つま先は限界で、これ以上覗き見することはできなかった。朝稽古が終わるまで待って、カリンにきちんと謝ろうと思ったが、きっとカリンは、ナナモを気にせず今見てきたことを夢中で話すだけだと思うと、急に気分が萎えて、カリンに申し訳なかったけれど、一人とぼとぼと歩き出していた。

 どこをどれだけ歩いたのだろう。いつの間にか毎朝参拝している神社の前に来ていた。

 ナナモは朝のことがあったし、マギーが居たらと思うと億劫になって参拝するかどうか迷った。しかし、夏休みで子供たちがいてもおかしくない時間なのに人影は全くなかった。

 ナナモはいつものように一礼してから鳥居をくぐる。いつもと同じように手水舎で清め、そしていつもと同じように柏手を打っていた。今までその所作のどれをとってもぎこちなかったが、今日は自然な振る舞いとしてすんなりと出来ている。いつもなら両親の無事を祈るのに、その日は自分のことを考えていた。

「カミ様、僕はどうしたらいいんでしょう」

 ナナモはあの時も同じ気持ちになったことを思い出す。カミに願っているだけで何もしなかっただろう、だからお前は負けたのだと、声がする。しかし、ナナモはナナモなりに精一杯やったのだ。悩み、なんとか這い上がろうともがいたのだ。それでもその時のナナモの力では解決できなかった。だからカミ様に願ったのだ。

 ナナモは途方にくれながら、いつもは素通りする社務所へ行った。誰かいないのかなと周りをきょろきょろするが、誰もいない。おみくじが透明なガラス箱の中にゆったりとそれでいて数多納められている。硬貨を奉納し、一枚引いた。

 山雪色の紙が短冊状に巻かれていて、表にはおみくじと書かれてある。糊付けされている端をはがし、その紙を拡げていった。たいていの日本の神社のおみくじには、吉凶などとともに個人の運勢について色々なことが書かれてある。吉凶は一般には大吉が一番良いと言われ、凶が一番悪いと言われている。大吉はそこから下降していくだけだし、凶はそこから登っていくだけだからと、解釈でどうとでもなる。それでも、落ち込んでいる時の大吉は心強くなるし、順調に言っている時の凶は戒めになる。要は気の持ちようなのだが、カミのお告げと思えば気が引き締まり、思わず姿勢を正し、ありがたいと頭を垂れる。

 ナナモが引いたおみくじには吉凶はなく、おみくじ番なのか、第一番とだけ書かれてあった。前を向き、いつも正直にカミに祈りを深めれば、何事においても幸縁に結ばれるでしょうと、病に縁なし、西方よしなどとともに、カミのお告げとして記されていた。

 ナナモは今朝マギーの言う通りに参拝しなかった。ここに来てからでは間に合わないと思ったからだ。しかし、もし参拝していれば、カリンに会え、偶然にも遅れてきたナナモを相撲部屋の力士は中へと導いてくれたかもしれない。

 前を向き、と、もう一度そのおみくじを読みなおす。そして、心に刻むように何度もうなずくと、そのおみくじを境内にある木の枝に優しく結び付けた。

「吉報でしたか」

 目の前に神主さんが立っていた。真っ白な宮司の衣装を着ている。なにか懐かしい顔立ちだ。

「吉報かどうかはわかりませんが、おみくじが一番だったのですごくうれしいです。でも、おみくじの事を人に話すとご利益が薄れるって本当ですか?」

 ナナモは黙って、じっくりと神主さんの顔を見ていようと思ったのに、勝手に口が開いていた。

「そんなことはありませんよ。嬉しいことであっても、悲しいことであっても、それはカミからのお告げなのです。誰かに話したければ話せばいいし、話したくなければ話さなくていいのです。そのお言葉、もうすでにあなたのものなのですから」

 神主さんは哀れむようではなく、ナナモに微笑えんだ。

 ナナモはこの神主さんの顔が、誰だが今はっきりとわかった。しかし、その物腰はナナモが感じたものとは全く違う印象だ。だから確かめなかったのだが、突然体がのけぞるような疾風が、ナナモの体を貫いていったかと思うと、あの言葉を思い出した。

「やっと思い出していただいたようですね」

 神主さんの顔はみるみる変わって行く。いつ着替えたのか、スリムな体型にぴったりとしたスーツ姿の男性が立っている。神主さんの時はかなり年老いて見えたが、今見るとそうではない。立派な大人ではあるが、あの時と同じようにまだまだ凛とした若さが伝わってくる。これは幻なんだろうかと、ナナモは頬をつねろうとする。しかし、息もできないほどその場に固まってしまっていて動けない。それでも何とか声帯だけは震わすことが出来た。

「ア・ヤ・ベ」

 ナナモはつぶやくだけで精一杯だった。

「アヤベ?」

 その男はしばし何かを考えている風であったが、合点が言ったのか、

「私はコトシロなのです。カミの意志つまり託宣たくせんを告げるものです。だから名前など意味を持ちません」と、言った。ナナモの顔を見て、「本当はあのときアベと、言ったのです。でも、今日からあなたの前ではアヤベにしましょう。でもせめてアヤベさんと言ってほしいですね」

 アヤベの笑顔は先ほどと変わらない。

「本当にアヤベ・・・さんに会えるとは思いませんでした」

「そうでしょうね、あなたは私に会うために日本に来たのじゃないのですからね」

 ナナモは返す言葉がなかった。

「あなたが日本に来た目的は、自分の記憶を蘇らせることと、ルーシーの出場する相撲大会に応援に行くことですよね」

「夏期講習も大事だったよ」

 ナナモはすでに終えていたのでそう言えたのかもしれない。

「あなたの希望は達せられましたか?」

「ルーシーの相撲大会はまだです。それと・・・マギーは夏期講習が終わったらすべて話してくれると言ったのに・・・」

「夏期講習の間、一日も休まずにこの神社にお参りに来るのですよと、マーガレットさんは言いましたよね。それが私に会える唯一の方法だったのです。私はコトシロです。けれどそれを直接言うことは出来ません。だからそのことをマーガレットさんに毎朝託宣していたのです。そして昨夜、もし、オホナモチというキーワードを、あなたが言ったらと・・・」

 アヤベは諭すようだった。

「でもマギーはアヤベさんに会えるなんて言わなかったよ」

「マーガレットさんは、私のことは知らないのです。それにもしそれを前もって聞いていたら、あなたは夏期講習を受けましたか?」

 ナナモは自信がなかった。

「じゃあオホナモチのことって本当なの?」

「マーガレットさんのいう夏期講習は、オホナモチを知ることなのです。そして、それがあなた自身を知ることにつながるかもしれないのです。だから、マーガレットさんは夏期講習はまだ終わっていないと言ったのですよ」

 ナナモは黙ってアヤベの言うことを聞くしかなかった。

「もし、あなたが夏期講習の続きを受けたいと思っているのなら、今度は東京から離れて西の方角に移動しなければなりません。今夜六時に臨時の寝台特急が東京駅の八番ホームから発車します。あなたの目には、その列車は一面ブルーに見えるはずですから、きっとわかるはずです」

 ナナモはいきなり言われてもと、すぐに返事が出来なかったが、あの時にアヤベが言ったもう一つの言葉を思い出して質問した。

「僕は必ず行かないと行かないの?その夏期講習を受けたらルーシーに会えなくなるんじゃない?」

「正確にはルーシーとカリンですね」

 ナナモは戸惑いを隠せない。

「未来は誰もわからない。けれど未来は自分で変えられる。だからあなたは日本に来たのでしょう」

 アヤベの言葉は重かったが、すでにナナモが心に刻み込んだ言葉でもあった。

「もし行かなかったら・・・」

 アヤベはその問いには答えてくれなかったが、その沈黙は、きっと今までの記憶がすべてなくなってしまうだろうと、そして、ロンドンに来るまでの自分にまた戻ってしまうのだろうと、思わせるものだった。

「もう一度マーガレットさんに会ってください。そして今朝のことを一生懸命謝ってください。きっとマーガレットさんはきょとんとした顔をされるでしょう。けれど、それでもかまわないのです。きっと何かが伝わるはずです」

 ナナモの心は決まっていた。だから、おおきくうなずく代わりにこう言った。

「アヤベさん、僕は「あなた」ではありません。ナナモという名前があるんです」

「そうでしたね。すいませんでした。ではもう一度言います。すべてはあなた次第です、ジェームズ・ナナモさん」

 アヤベのコトシロはそう告げると、スーッと目の前から消えて行った。


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