(6)夏期講習
満員電車に揺られながらの不慣れな通学であったが、夏期講習が始まった。日頃勉強していれば特に夏に集中して受験勉強をしなくていいし、もちろん受験生が日頃勉強していないわけではない。それでも、学校以外の受験専門の学習機関が行う講義には、受験に有利なことを何か教えてくれるのではないかという期待で、教え方のうまい人気の有名講師を配する夏期講習は、受験生で一杯になる。
大講義室に、大勢の生徒が窮屈に集まって、一斉に授業を聞くというやり方だ。ナナモにとって、イギリスでの授業スタイルが身についていたので、違和感が強かった。なぜこういう夏期講習を祖母が選んだのかはわからない。
おばは、ナナモの弱点を的確に補ってくれたし、理解するまで辛抱強く付き合ってくれた。しかし、ここでは、理解しようがしまいがは別にして、マイクを持った講師が、一人で黒板に向かって問題を解きながら、その要点とテクニックを淡々と解説していく。このスタイルが本当に実力をつける方法なのかはわからなかったが、ナナモは従うしかなかった。毎日小テストがあったから、その日受けた授業の復習と次の日の講義の予習で、あまり深く考える余裕さえなかった。
「さぼってないだろうね」
一週間ぶりにマギーに会う。
「ちゃんと勉強しているよ」
「そんなことは当たり前だよ。私が言っているのはお参りのことだよ」
マギーは、ナナモが六時前に起きて、神社をきちんと参拝しているのを知っている。だのにわざと聞いてくる。でも、どうせどこかで見張っているんだろうとは、ナナモは決して言わない。そんなことはありえないからだ。
「それで、授業にはついていけてるのかい?」
やっと本題に入る。
「なんとかね。というよりも、ついて行くしかないし。それに、ミチおばさんが基本を教えてくれていたおかげで、わからなくなりそうになったら、そこに戻ればいいんだってわかったんだ。特に数学はね」
「それは良かったじゃないか、ミチに感謝しなくちゃ」
「でもね。夏期講習ってものすごく変なところだよ」
「どうしてだい?」
「だって一杯人がいるのに、授業中はみんな黙って同じように前を向いているんだ。誰とも話さないんだよ」
「授業中だから当たり前じゃないか。遊園地じゃないんだから」
「でも一日誰とも話さないと気が滅入ってくるよ」
「へえー、話さないと気が滅入るのかい?」
マギーに驚かれるまではわからなかったが、そう言えばもう学校では誰とも話したくないって、日本にいた時はよく言っていたような気がする。きっとそのことをマギーは覚えているのだろう。だからわざと大げさなフリをする。
「話しても気が滅入ることもあるさ」
だから、ナナモは少しあまのじゃくになった。
「でも話してみなくちゃわからないだろう。どうして誰とも話さないんだい?休憩時間があるだろう」
「だってみんな休憩時間は頭を休めたがっているし、授業の復習なんかで・・・」
おかしな話だけれど、ナナモは日本に来て少しホームシックになったのかもしれない。
「何か言われたのかい?」
なぜかマギーは絡んでくる。それにそうじっと見つめられるとどきまぎする。
「別に。だって学校じゃないんだし、僕にかかわっても誰も得をしないからね」
ナナモは少し大きな声を出していた。すべてのことを過去に結び付けようとするのは良くないことだ。マギーがわざとそうしているのに、まんまと引っかかる自分にも腹が立つ。だいたい不確かな受験勉強をしに来ているだけだし、嫌になったらいつでもロンドンに戻れる。この講習を終わらせないと、マギーから色々なことを聞けないから我慢しているだけだ。
「ねえ、ナナモ、せっかく日本に来たんだし、誰か友達を作りな」
マギーはナナモに囁くように言った。
「友達が出来たら勉強そっちのけで遊びに行っちゃうかもしれないよ」と、あえて反対のことを言う。
「そんなに友達が嫌いかい?」
「そんなことはないよ」
マギーには素知らぬ顔を見せたが、実は、しばらくして、隣の席に座っている女の子から、あなたも帰国子女なのって聞かれた。ナナモは帰国子女って言葉の意味が分からなかったので、思わず、「どういう意味?」と、英語で答えてしまった。そしたら、その女子は、嬉しそうに英語で話しかけてきたので、つい、僕はハーフだけども英語があまりうまく話せないんだと、嘘をついて、それ以上の会話を続けようとしなかった。彼女はそれでも話しかけてくるのかなと思ったが、ごめんなさいと、身を縮めて、とても恐縮しているようだった。
家に帰り、帰国子女をスマホで検索した。親の関係で何年間か海外生活していたのちに、日本に帰ってきた子供たちのことを言うらしい。教育内容が海外と異なるために、日本の受験に不利になることがあると、書かれてある。
なーんだ、サマーアイズに通っていた生徒達のことじゃないかと、ナナモは急に懐かしさを覚えた。それからは、なぜか視線が自然と彼女に向くようになる。ショートの黒髪に小顔が覆われていて、一重だったが比較的大きな黒い瞳が際立っている。彼女がその後ナナモに不愉快な印象を与えるということは、一度もなかったが、講義を受ける席は自由で、早く来た順に座れることになっているのに、彼女がいるとつい後ろに座ってしまっていた。
日にちが経つにつれ授業が終わると、もうくたくたで、皆がそそくさと帰っていくのに、その女子は講師の先生のところに質問に行っているようで、たまたま忘れ物を取りに帰った時にばったり会った。
「あの先生、時間がないからって、もうこれくらいで勘弁してくれないかって、どういうこと!失礼だわ」と、彼女が早口の英語でまくし立てているのが聞こえてきた。
ナナモはついその言葉を聞いて、「気にするなよ」と、通りすがりに小声でつぶやいた。きっと彼女の耳には届いていないだろうと思っていたら、「やっぱり、帰国子女なのね」と、言われてびっくりした。
「ねえ、お茶しない?」
カリンと言う名前の彼女は、日本語でそうナナモに話しかけてきた。
たぶんはっきりとイエスとは言わなかったように思うのだが、しばらく話していると、彼女からもうナナモと、呼ばれていた。
「最初に会った時、帰国子女っていっても一~二年海外にいただけなんじゃないかなって思っていたよ」
「どうしてそう思ったの?」
「ごめんなさいって、丁寧に頭を下げられたんで、最初は日本的な奥ゆかしさというか、恥ずかしさのあまり自己主張しないというか、古風な日本の女性の印象だったから」
カリンは十年以上も海外で生活している。父親が貿易商だったので、それも同じ国ではなく数か国にわたっていた。
「中学の時に一度日本に戻ってきたことがあったんだけど色々あってね。だからまず謝って、それから黙っているのが一番いいのかなあって。特に初対面の人にはそうするようにしているの」
「いじめられたの?」
「確かに友達は出来なかったわ、でもそういう風になりかけたら、ちゃんと自分のことを言えたから大丈夫だったわ。日本人ってあえてそういうややこしそうな人には関わらないでしょう」
カリンは確かに前を向いている。ナナモは少し押されそうになる。
「でもどうして、僕に話しかけてきたの?」
「だって、ノートは日本語と英語が混ざって書かれてあるじゃない。あれって私もよくやるから」
ナナモは気が付かなかったが、おばがそういうナナモのノートの取り方を美しくないわねと、何度も修正しようとしてくれていたので、最近はあまりしていないように思っていた。しかし、その方が頭が整理されることがあるし、却って重要なことを忘れないこともあるので、自然とそういう癖が蘇ってきていたのかもしれない。
「それにどう見てもハーフだしね」
カリンはウインクするような笑い顔で、それでもすこし言いすぎねと付け加えてくれた。ナナモは少しも嫌な気持ちにならなかったので、「もう慣れたからその言葉には」と、同じような笑い顔で返すことができた。
「両親に色々あって、おじとおばのいるロンドンに預けられていたんだ」と、具体的なことは言わなかったが、カリンはそれだけで何かを感じてくれたのか、「そうよね。親は勝手よね」と、もう笑顔は無くなっていた。
授業が始まる前に毎日行われる小テストと、週一回行われる大テストで自分の今の実力を知ることになる。特に何かをしたくてどこかの大学のどこかの学部にはいりたいという目標がなかったので、おじの影響もあって、医学部を志望学部に書いたが、ナナモの偏差値はそう高いものではなかった。しかし、苦手なはずの数学の成績だけはいつも良い。きっとミチおばさんの魔術なんだ、と感謝する。
「ちょっと教えてほしいんだけど」と、つい数学の結果をカリンに自慢してしまってからファーストフード店に誘われることが多くなった。
「数学は苦手だから、たまたまなんだ」と、いくら言い訳を並べても、まぐれでこんな難問を解けないわと、一蹴される。だから、半分は仕方なく、半分は見栄で教えたのだが、ミチおばさん仕込みの数学の解き方はナナモでも分かったくらいだから分かりやすく、カリンは、あっ、うーん、そうか、の連発だった。もちろんカリンは、ナナモくん素敵ねとは、決して言わない。あくまでもフレンドリーな笑顔というか、そういうあまり遠慮しない態度で迫ってくる
「ねえ、僕も国語が苦手なんだけど」と、ナナモは思い切ってつぶやいてみる。
カリンは嫌な顔一つ見せない。
「日本語を読もうとするからわからないのよ。だから私はすべて同時英訳してるわ。そうしたらわかりやすいし、論理的に考えられる。日本語にはわびさびがあるからって、妙な考えは必要ないの。入学試験だからね。そういうあいまいさは忘れることね」
「古文や漢文は?」
「理系?それとも文系?」
「一応理系だけども」
「そしたら、漢文は漢字を覚えてその意味を素直に考えることね。古文は最小限の文法は憶えなきゃならないけど。あとは、漫画でもいいから現代文をまず把握してから、すこしずつ慣れればいいわ」
結構大雑把な教え方だったが、カリンは外国生活が長かったから、却って日本の国語を大切したと言っていた。それにナナモと違ってハーフではない。日本人は日本人だと思って接してくる。女性なので女性言葉や丁寧語も使い分けなければならない。そのことが嫌になることも正直あるが、避けられない。だったら完璧にしようと。でもその努力は却って国語をつまらなくしたらしい。受験と言っても、せっかくの機会だし、問題は解けるようになるのが一番だが、ナナモには日本の国語を嫌いにならないでほしいと、白い歯を見せていた。
「本当に数学が苦手だったの?」
ナナモの授業は問題のカテゴリーから始まって、そういうカテゴリーの中にはこういう考え方をする基本があって、その基本を働かせるために公式があって、それを順序良く使って行けば最後には必ず数式は解けるという教え方だった。どちらも教える方は簡単ですぐにでもできそうな気分になる。でも教えられる側はそうはいかない。だから、隔たりと苛立ちが生じる。
ナナモが教えていると、カリンの苛立ちがナナモに強く伝わってくることがある。教える方がもっと苛立っていることだってあるのに、でもナナモは根気強くカリンに教えてあげていた。
「カリン、焦ったって駄目だよ。時間がかかることだってあるんだ。それに僕にはわかっていると思ってもカリンにはわからないことがある。だからそういう時は聞いてほしいんだ」
「そうね。わかったわ。それにナナモに謝らないといけないわね。私、きっとものすごくイライラして、ひよっとしてナナモに当たっていたかもしれないわ。ダメだね」
ナナモはつい中学生の時のことを思い出した。あの時と今はまったくちがう。ナナモはいつもイライラしていた。ひよっとしてカリンの言うように自分では気づかないうちに誰かに当たっていたのかもしれない。だからナナモはいじめられることになったのかもしれない。自分よがりになっていると時間もわからない。周りも見えない。
「カリンは日本の大学を受験するつもりなの?」
「もちろんよ」
問題が一区切りついたところでナナモは聞いた。
「どこの大学かも決めているの?」
「うん」
カリンは急に語気を弱め、うつむきながらK大学と答えた。
ナナモはその大学をよく知らなかったが、カリンの表情から「難しいの?」と、聞くしかなかった。
「そうね。合格するにはもっと頑張らないとね」
カリンはそう答えながら、不思議そうにナナモを見つめる。
「ねえ、ナナモ。ロンドンから夏期講習を受けるためにわざわざ日本に来たんだよね。毎日それで勉強しているよね」
「うん」
「まさかだと思うんだけど、今、それも急にナナモと話していて思ったんだけど、ナナモって日本の大学へ行くつもりなんでしょう?」
ナナモはカリンの言葉に即答できなかった。それどころかカリンに改めてそう言われて考え込んでいる。ロンドンにいるときはこのままイギリスのどっかの大学に行くんだろうと思ったが、おばがナナモを、それも母から頼まれたからって、日本の大学に行けるように教育してくれた。しかし、それだけではまだ日本には来なかっただろう。それが、あの日本人の男、ルーシー、そしてマギーと、なぜかぐいぐいとひきよせられるように日本に来ている。朝、決まった時間に起きる。講習を受けるからにはちゃんと勉強したい。確かに今日まではそれだけで迷いもなく続けてきた。けれど改めてカリンに聞かれると答えられない。それにナナモの事情を説明しても理解してくれそうにない。だから、ついこう言った。
「僕の家は代々日本で医者をしていたから、医学部を受験するんだ」
カリンはナナモからそうはっきりとした答えが返ってくるとは思わなかったのか、大変ね。相当頑張らなきゃねと、急に揺れ動き始めた大きな瞳を止められずにいた。
「どこか行きたい大学はあるの?」
「いや別に。医者になるのが目標だから」
「そうね。それが正しい選択よね」
なぜかカリンはまだナナモを見ている。
「カリンはK大学でなんの勉強がしたいの」
ナナモは反対に聞いてみた。
「民族学。私ね、色々な国を回ってきたの。色々な国には色々な文化があるし、風習もある。だから、それをもっと知りたいの。それでね、最終的にね、日本人ってどうなのかってたどり着けたらいいなあと思うの」
「それって、日本でしか学べないの?」
「そんなことはないわ。けどね、K大学には私が影響を受けた先生がいるの。だからK大学に行きたいのよ」
カリンの瞳はもはや微動だにしていなかった。
カリンも何かに導かれたのかもしれないと思うとナナモはあの不思議な出来事をカリンに話してもいいのではないかと、いや、聞いてもらいたいと思ったが、その前にカリンの方から意外なことを聞かされた。
「それにね・・・」
「何だい?」
「絶対笑わないでね」
「うん」
「K大学に相撲部があるの。それで、女子も相撲部に入れるの」
ナナモは開いた口がふさがらない。そういう面持ちできっとカリンを見ていただろう。そして大きく首を振り、そんな馬鹿なと、薄ら笑いを浮かべている、そんな自分が遠くに見える。
「笑わないでねって言ったのに」
ナナモはカリンの残念そうな顔を見て、「違うんだよ、こんな不思議なことがあっていいのかなあ、まさかって思ったんだ」と大慌てで言った。そして、かいつまんでであるがルーシーの話をした。それを聞いてカリンの方も驚いている。
「でも、どうして、相撲をやるようになったんだい?」
誤解が解けたところでナナモは尋ねた。
「私が唯一日本人でいられるからよ」
カリンはそう言ったあと、少しだけ奥歯に力を入れたように思えた。
「どういうこと?」
「私、色々な国に行ったって言ったわよね。行くとそれなりに友達が出来るんだけど、結局また離れ離れになる。だから、もう面倒になって、友達を作ろうとしなかったら、いつの間にか一人になる。だからね、余計に私はどこの国にいても日本人だと思おうとしたの。でも、それを感じるものがなかなかなくて。でも、小さい時から、どこの国でもだいたいテレビで大相撲は観られたし、相撲好きな人はどこにでもいるし、でも、たいていは大人なんだけどね。今思えばおじいさんやおばあさんばかりだったのかもしれないけど、知らない人でもすぐに色々なことを教えてくれたわ。そのうち相撲以外のこともね。だから好きになったのかもしれない」
カリンはあまり後ろを振り返ることはしないという。なにも残っていないし、前を見るのに時間がもったいないからだと。でも今は少し後ろを懐かしんでいる。きっとカリンが前を向くためには必要だったのだろうが、ナナモはそんなカリンも嫌いではない。
「八月の最後の日曜日に国際大会があるの」
「国際大会って?まさかカリンも出場するの?」
「もちろんよ。でも、中南米代表だけど」
カリンは海外に居た時に相撲大会に出て、そこでチャンピオンになった。国籍の問題があったが、なぜか、特別枠で出場権が得られたらしい。
ナナモはその大会がいつどこで行われるかまで知らなかった。スマホで検索することが出来なかったからだし、本当はそんな大会はもともとないのに、ひよっとするとおばに頼まれたルーシーが、わざとそう言ったのかと疑い始めていた。しかし、それは嘘ではなかったのだ。こうしてカリンからその日程と場所が聞けてラッキーだった。
「でも、夏期講習中は練習ができないよね」
「確かに昼間は出来ないわね。でも、朝六時前に起きてちゃんと筋トレしてからここに来ているの」
カリンも毎朝六時前に起きているんだと、ナナモはその偶然に驚いた。
「ところでずいぶん先というか、あっという間かもしれないけど、ナナモは夏期講習が終わったらまたロンドンに戻るの?」
「ロンドンには戻るつもりでいるけど、いつかはわからない。でも相撲大会が終わるまでは必ず日本に居るよ」
「じゃあ、応援に来てくれる」
「もちろんさ」
カリンは目じりの下がる優しい笑顔でナナモを見ていたが、すぐに「そうね、ルーシーのためにもね」と、きりっとした口元でそう付け加えるの忘れなかった。