(5)マーガレットおばあさん
おじとおばはヒースローまでタクシーで送ってくれた。めったに二人は乗らなかったのでびっくりしたが、迎えに行った時もタクシーで家まで行ったのよと、おばはその時のジェームズを思い出してもう涙ぐんでいる。そう話されてもジェームズは覚えていない。きっとそれはあの記憶の喪失ではなく、ロンドンに初めて着いた日、入国審査が終わるまで二時間近くかかって、やっとおじやおばに会えたので、ただ単にほっとして、その後のことが目に入らなかっただけだと思う。それにイギリス国籍以外の入国レーンで待たされていたので、母の生まれた国なのだという安堵感よりも、僕はイギリス人ではないのだ、日本人としてこの国に来たんだと、その思いも強かった。
ヒースローを夕方出発した羽田直行便では、到着は午後二時頃になるらしい。十一時間の飛行だが、時差があるので、早めの夕食が出ると、睡眠がとれるように機内は暗くなる。目を閉じると、「やあ愛しい孫よ」と、祖母が叫びながらジェームズを抱きしめ、顔中にキスを迫ってくる光景が映し出されて、結局、羽田まで一睡もできなかった。席は当然エコノミーだったが、アテンダントの女性は、どのお客さんにも笑顔で丁寧に接客をしていた。ジェームズがよほど体調の悪そうな顔をしていたのか、大丈夫ですか?と、心配そうに尋ねてくれた。英語だったのに、はい、大丈夫ですと、はっきりとした日本語で答えたものだから、余計にびっくりしたようで、それ以上の言葉はかけてこなかった。
飛行機はまるで何事もなかったかのように、すんなりと日本という国に着陸した。しかし、地球を半周してきた実感はない。リュックを背負い、飛行機から降りて到着ロビーに行くまでの数歩の間で、もはや、この時期の日本特有の湿気が歩行を妨げる。ロンドンに居たんだから雨には慣れてるよね、と言われるかもしれないが、ロンドンの雨が身体を重くすることはない。
中学生のジェームズが、梅雨という一年でもっとも長く雨が降り注ぐ季節を、北斎の風景画のように味わうことは一度もなかった。けれど、精神的には梅雨と同じようにじめじめした毎日を送っていた。だから却ってこの湿気が、なにか昔のことを連想させてくれるのかなあとなんとなく思ったのだが、「こんなにムッとした感じだったっけ」と、ただ単に不愉快だという感覚が優っているだけだった。
入国管理でクニツ・ジェームズ・ナナモさんですねと聞かれた時に、そういえば今日からはジェームズじゃなくてナナモと言われたり、言ったりするんだ、と改めて思った。なんかしっくりしないし、でもそのうちにと、以前ならついくよくよと考え込む癖があったのだが、今は全くないことに自分自身思わずにやけてしまう。
「あなたは今日からクニツ・ナナモと呼ばれるというか、もともとそう呼ばれていたのよ。クニツ・ジェームズ・ナナモ。それがあなたの正式な名前よ。だから日本に行けば、あなたは、Jamesではなく、七雲って呼ばれることになるわ。忘れないでね」と、おばの、そして、「マーガレットさんに会ったらよろしく伝えてほしいんだ。きっといろいろなことを教えてくれるはずだよ」と、おじの声が、日本に来てナナモと初めて呼ばれただけなのに、もうずいぶん遠くのように思い出された。
祖母が迎えに来ているはずだからと、おじが言っていたので、意外に早く済んだ入国審査をあとに、到着ロビーへ向かった。しかし、祖母の姿は見えなかった。ただし、見えなかったから居ないとは限らない。祖母は侮れないからだ。
スマホは切ったままだった。急いでオンにすると、メールが一件入っていた。
「空港に着いたら連絡してくるんですよ。ナナモさん」
もうジェームズではないんだ、ナナモなんだと言い聞かせてから一度大きく深呼吸する。そして、これ本当に、おばあさんからのメール?と、思った。なぜなら、以前なら、もっと強い命令口調で文字を連ねてくるのに、その文面は妙によそよそしいし、丁寧すぎるからだ。
「やはり侮れないな」と、スマホを前に凝り固まった指先を見て、ナナモはもう一度思った。そして、この時になって初めて日本に行くことをどうして納得したんだろうと後悔した。
日本に帰ったとしても父や母はいない。友達もいない。だったら、ロンドンにこのままいる方がましだ。しかし、アヤベの言葉がどうしても気になる。だから、ルーシーの意見が聞きたくて相談しに行ったのだが、反対にルーシーから、「肩の調子が良くなったらの話だけれど、日本で行われる国際相撲大会に出場できるかもしれないの」と、言われた。それも、八月。だから、つい、「じゃあ、待っているから」と、言えば格好よかったのに、それも言えず、この前みたいに黙って見に行って驚かせてやろうと、その勢いで日本行きを承諾してしまった。
「そうだよな。そううまくはいかないよな」
しかし、ナナモはそのことでものすごく憂鬱になることはなかった。なぜか却ってワクワクする不思議な気分だった。
[マーガレット]
確かにそう画面は表示する。それも日本語で。
「えっ、おばあさんの電話番号登録されていたっけ」と、思わず早口で日本語の口語文がすらすらと口から出てくる。
どうしようかなあ、出たくないな。いや、そういうわけには。えいっ、しょうがない。
「出るのが遅いですよ!ナ・ナ・モ・さん」
やはり不気味な丁寧語だ。
ナナモはなぜ祖母のことだけは記憶から完全には消えなかったのかよくわからなかった。この独特な声。少ししゃがれた低い声だ。それでいて耳障りではない。しかし、さらっと聞き流すほど軽くはなく、自然と身体に染みこんでくる。すべての人に対して威圧的かというとそうでもないのだが、ナナモに限っては祖母ということもあって、本来なら甘えてもいいはずなのに、鞭が飛んできそうな切れ味を感じて、ついしり込みしてしまう。
「マーガレットおばあさん?」
そう言えば、マーガレットおばあさんは、おばあさんと言われるのが大嫌いだ。だからと言ってマーガレットと言うこともできず、マギーって、言っていたのを今思いだした。
「そうだよ。まさか忘れたわけじゃないだろうね」
なぜだか背中が痒くなってきた。
「忘れていませんよ、マギー」
「やっと思い出してくれたんだ。そうだよ、おばあさんは余計だからね。それよりマレから聞いているのかい?」
「マレおじさんは、マギーが空港に迎えに来てくれるって言っていました」
「私はそんなことを言った覚えはないがね。もう子供じゃないんだから、ひとりで来られるだろうって、そう言ったんだけどね。マレは確かにそう言ったのかい?」
「そうです。だから僕はここでずっと待っていたんです」
ナナモは少しだけ語句を強めて言った。油断するとその声につい引きずり込まれそうだったからだ。
「ソファーで眠り込んでいますって報告をうけたんだけど。まあ、いいかね」
そんな威勢を簡単に打ち負かしてくるあの声。ナナモはつい後ろを振り返った。けれどそこにマギーがいるわけはない。だから、周囲を見渡して監視カメラを見つめる。たとえ映っていたとしてもそれをマギーが見る術はないのにだ。
「マギーの家を僕は知りません」
監視カメラを見つめたままでナナモは答えた。
「そうだね。私のことはちゃんと覚えてくれていたみたいだけど、もうずいぶん経つからね」
マギーがじっとテレビモニターを見つめながら、しばしの間何かを考えている風にナナモにも見えてくる。
「これから言うからちゃんと頭に入れなよ」
マギーはおじ達と違って、久しぶりに日本に帰ってきたナナモに優しくはなかった。だから、タクシーなんて高価なものには乗せてもらえず、マギーの家までの道順を事細かく教えられた。ナナモはマギーと話しているうちに、いつしかタイムバックしたようで、日本生まれのハーフの日本人として、自然と周囲に違和感なく溶け込んでいた。
日本に居た頃はまだ中学生になったばっかりだったので、そう頻繁に地下鉄に乗っていたわけではなかったが、ロンドンの地下鉄で慣れていたので、その移動は案外容易だった。それに、観光客のために英語表記もされている。あたりまえだが、周囲はすべて日本人だ。通勤時間ではなかったので列車内はすいている。だからではないが、車両はロンドンの地下鉄に比べるとずいぶん広く感じる。それに静かだ。日本語が全く聞こえてこない。みんな黙っている。そのことだけは違和感を覚える。
ナナモはマギーに教えられた地下鉄の駅で降り、改札から地上に登り出ると、スマホに従って歩き始めた。
晴れて空気が透き通っていれば富士山が見えるであろう超高層マンションを通り過ぎると、なぜか贅沢な小空間があり、そこに建てられている、こぢんまりとしたレトロな木造の一軒家の前に、マギーは立っていた。
ナナモはマギーを上から下にまっすぐに見下ろす。マギーは髪の毛を染めているのか、長い黒髪を垂らしている。瞳はナナモと違ってヘーゼルだ。きれいな鼻筋にはところどころにシミが出来ている。やたらに皺の深くなった頬が以前よりくぼんでいるようにも見える。そして、一番驚いたのは、ずいぶん小さくなったマギーの身長だった。
「マギー、身体の具合でも悪いの?」
以前より疲れている様に感じて、ナナモはついそう話しかけていた。マギーはその言葉にきょとんとする。そして、大きな声で笑いだした。
「ナナモがそんなことを言ってくれるとは思わなかったよ。マレが言っていた通りだね。ずいぶん元気になったんだ」
その笑い声は、嘗てのマギーそのものだったので、ナナモは少なからず安心した。
マギーは夕食を用意してくれていた。ご飯に味噌汁、焼き魚と野菜の煮物、という純和食なメニューだったが、緊張と長旅が少なからずナナモに影響しているのかあまり食欲はなかった。それにおばがロンドンでは毎日食事を作ってくれていたので、和食に対しても特に懐かしさは感じなかった。だから、つい欠伸をしてしまう。一瞬、マギーの目が鋭く光ったようにも見えたが、結局ほとんど何も話さずに食事を終えた。
ナナモは湯船に浸かり、何度も沈みそうになりながらも、そう言えば、マギーとは一緒に暮らしたことがなかったというよりも、そう頻繁にも会っていなかったような気がしてきた。きっと、突然現れた時の印象が強くて記憶に強く刻まれているだけであって、母といつ日本へやってきたのかも知らないし、一度も聞いたことがなかった様な気がする。もちろん記憶の曖昧さは否めない。
「ばかだね、ここは日本で、今は梅雨だよ。そんな長風呂に入って、のぼせたんじゃないのかい」
パンツ姿のままで体を拭きながら、妙に喉が渇いて、まるで爬虫類館の熱帯雨林のコーナーにいるみたいな蒸し暑さが続いている。
しかたないねと、マギーは、氷の入ったジュースと、あまり私は使いたくないんだけどねと、言いながらもクーラーを付けてくれた。ナナモはそのジュースを一気に飲み干してから「あれ?」と、思った。
レモン風味の少し酸味がある、それでいてほんのりとした甘みが喉越しを優しく包んでくれる。
懐かしい。そう。懐かしい。そして、もう少しで手が届く。何かに手が届く。そうだ。日本に来たのはその懐かしさを知るためだ。それは、心穏やかな気分になるとは限らない。悲しみや憎しみを抱くのかもしれない。それでもかまわない。かまわないから来たんだ。それに、父や母のことも気になる。目の前にはその窓口であるマギーがいる。なぜか恐ろしく仕方なかったが、やっと会えたような気もする。だから、この機会にいろいろなことを聞いてみようと思った。それはこの数年間でナナモが爆発しそうなほど抱え込んでいたことだからだ。
「ねえ、マギー、母さんはどこで生まれたの?」
「ダブリンだよ」
「ダブリン?」
「そう、アイルランドにある都市さ。船でリバプールまで来てね。それからロンドンでしばらく暮らしていたんだけど、日本に来たんだよ」
「なぜ、日本に行こうと思ったの?」
「ナナモは知らないけどね。別れた私の旦那が日本文学の研究者だったんだ。それでね、私も興味を持って、のめり込んだんだよ。だのにあの人は私が日本へ行こうと言ったら、しり込みしたのさ。やっと大学教授の職にありつけたときだったからね」
「母さんはいくつだったの?」
「いくつ?さあ、どうだったかね。あの娘は私の前では齢をとらないからね。それにあの娘もしばらくはあの旦那と一緒に住んでいたからね。それが日本の大学に行くって転がり込んできたのさ」
「じゃあ、僕と同じゃない」
「そうだね。そうなるね」
「母さんはどうして日本へ来ることになったか知ってる?」
「さあ、よく覚えてないけど」
「お告げだとか言っていなかった?」
「知らないよ、あの娘がそんなことを言ってたのかい?」
「ううん。なんとなくさ」
「お前のなんとなくはあてにならないからね。けど、なんとなくって、日本に来て最初の頃ははっきりしなくて、とてもいやな言葉だったけど、今じゃいい言葉に聞こえる時もあるね」
「マギー・・・」とナナモが声を掛けようと思った時、目覚ましが鳴った。
五時三十分。時差がまだ取れ切れていない。だから、目覚ましのスイッチだけを止めようと思った時に、ハッとして飛び起きた。
マギーが立っていた。昨日と打って変わって、髪の毛を丸くボールのようにきれいに束ねている。薄化粧に少し口紅を引いて、それでも日によっては色が変わるヘーゼルの瞳の奥は決して穏やかではない。
「グッドモーニング、ナナモ」と、それでも聞こえてくる。だから、「おはよう、マギー」、と日本語でしっかりと答えた。
クーラーのあるリビングのソファーで眠ったらしい。勿論今はクーラーは入っていない。だからか、妙に体がねばねばする。
シャワーを浴びて、歯を磨いて、下着はこれに着替えて、そしてこれが服と、容赦はない。いつの間に用意していたのかわからなかったが、だからと言ってあらがう術もない。それに楽ちんだ。けれどマギーは今日だけだよと、やはり釘を刺す。
六時ちょうどに家を出た。どこに行くのかマギーは言わない。ナナモはついて行くしかない。
東京はロンドンに比べてずいぶん緑の少ない都市だ。コンクリートだらけで殺風景だ。その記憶は変わらない。けれど、ずいぶんきれいになった印象だ。それに雑然としているようで、かえってそれが一様ではなく、それなりの個性を醸し出している。だから、どんよりとしたこの季節特有の鉛色がのしかかってはいても、嫌悪感ではなく、優しさに包まれながらナナモはゆっくりと歩いていた。
ビルとビルの間を入って行くと程よい空間が拡がった。密閉された容器のように、都会の喧騒が勝手に入り込んでくることはない。静かさが透き通って停滞している。神社に来たのだ。目の前に鳥居が見える。少し色褪せているが、石材でできていて大地をしっかりと支えている。マギーは背筋を伸ばし、頭を下げて一礼すると、真ん中ではなく端をくぐっていく。小さな社が見えた。ここでお参りするのだが、その前に手水舎で、杓子に水を汲むと、左手、右手と交互に清めていく。最後に左手の窪みに少し注ぐと口元を濡らして清める。それからゆっくりと歩を進め社の前に立った。一礼すると、お賽銭箱に硬貨を投げ、取り付けられている鈴を鳴らす為に垂れ下がっているひもを揺らす。気をつけの姿勢で頭を二回下げ二礼、そして両手を顔の前で二度叩く。それから、目を閉じ、無言でお祈りをするとまた同じように一礼する。
ナナモは、そう言えば神社をお参りしたのはいつぶりだろうか、と思った。初詣には家族で行っていたはずだが、どこに詣でていたのかさえ憶えていない。なぜなら、カミ様に縋りつくというよりも、もうこの世にカミ様などいないと、追い込まれていたからだ。
マギーはこの間一度もナナモを見なかった。そして、黙って鳥居をくぐると、また振り返って一礼した。ナナモも同じように一礼した。まだどこかに行くのだろうかと思ったが、マギーは無言のまま、また来た道を戻っていく。
べっとりとイチゴジャムのついたカリカリのトーストとミルクティーを、ナナモにはそれに焼きトマトとベーコンエッグを付けた朝食を食べ終わると、マギーはやっとナナモに話しかけてきた。
「夏期講習は明日からだからね。テキストは用意してあるから大丈夫だよ。ここまで一人で来たんだから、ここには行けるね。授業は 八時から五時までだからね。昼食は自分で買いな。お金はここにあるから自由に使えばいいよ。でも、使いすぎたらいけないよ。朝もちゃんと食べるんだ。シリアルとミルクは一杯あるし、冷蔵庫にゆで卵を入れて置くから。夕食は届けて置いてくれるように頼んであるから、それをレンジで温めて食べな。ただし、火には気を付けるんだよ。火事になったらすべて灰になっちまうからね」
「マギー、いなくなるの?」
「あんたの世話だけのためにここにずっと居られるわけはないだろう。私にもすることがあるんだ。心配しなくていいよ。時々は帰ってくるから。それにね、この夏期講習はスパルタだからね、予習復習だけでくたくたになるはずだよ。特にナナモにとってはね。でもミチがしっかり教えてくれているってマレから聞いているから、頑張ればついて行けるはずさ」
そう言えば、マギーは昔からそうだった。突然いなくなり、突然現れる。しかし、それはいつもナナモが本当に困った時だ。だからあの時も。
「なにめそめそしてるんだい。もう子供じゃないんだからね。寂しいなんて気持ち悪いから言わないでおくれよ」
ナナモはマギーを見た。めそめそしているのはマギーじゃないのかと思ったが、それは幻だったのかもしれない。なぜならいつもより強い口調で、これは命令だよと、すでに叫んでいた。
「これから朝は六時前に起きるんだよ。これは厳守だからね。私が居ようと居なかろうと、雨が降ろうと槍が降ろうと、夏期講習中は必ず毎朝あの神社に参拝するんだよ。一日でもさぼったらここから追い出すからね。わかったかい。私はちゃんと見てるからね」
「マギー、僕は知りたいことがあるんだ。だから東京に来たんだ」
ここに来た日に初めて聞いた母の話は幻だったのかもしれない。だからもう少し具体的なことが聞きたくてナナモは思い切って聞いてみた。マギーは今までだったらハイと言うだけだったナナモの勢いに驚いている。だからと言って温和な表情は作らず、こう言った。
「もし、きちんと夏期講習が終えたらゆっくりと話してあげるよ。でも途中で投げ出したら、なにも知らないままロンドン行きだからね」