(3)サマーアイズスクール
ジェームズは、ロンドンの中心部に近いテムズ河の南側にあるこの学校に、中学生の時に日本から転校してきた。父は日本人だったが、母がイギリス人だったため、英語を話すことには不自由しなかった。
「両親とは死別しました。だから今は父方のおじおばと一緒に住んでいます」
消極的な挨拶から始まったが、特別な感情が伝わってきている風には感じなかった。この学校が、仕事のために世界中からやってきた海外赴任者のためにもともと開設されたので、ジェームズ自身がとびぬけて異国感を強く漂わせているという風でもなかった。義務教育期間が延長されたこともあり、16歳で一度共通テストを受けなければならないが、18歳まで在校でき、十分な授業を受けられることと、海外の大学を受験することを考えていたり、自由でグローバルな校風にあこがれている地元の生徒も、最近は多くなってきていた。
ジェームズはアメリカからやってきたビリーと、地元の生徒が多いクラスに入った。本当なら、日本からやって来たというと、その英語力からまずこのクラスには入らないし、ジェームズ自身も、英語力という意味ではなくて環境という面からも入りたくなかったが、筆記試験はともかく、面接試験ではなぜか緊張しなかったので、このクラスでも大丈夫でしょうと、半ば強引に振り分けられた。
最初ジェームズは学校生活になじめなかった。それはイギリスという環境の異なる地に来たからという意味ではない。誰かがジェームズに最初から悪意を持って接してきたわけでもない。ジェームズ自身が学校という社会生活自体を、あまり快く受け入れられなくなってしまっていたからだ。
それでもジェームズはいたって普通にしようと努めていた。しかし、日本人はおとなしくてあまり話さないし、内気で恥ずかしがり屋というレッテルはすぐに貼られた。ビリーが陽気で社交的なこともあって、余計にそう感じさせたのかもしれない。
「ねえ、黙ってないでなんか言えよ」
この学校に通っている生徒たちは比較的自由を重んじている。それにロンドンっ子もそれほど陽気ではない。それでも、ライトブラウンの瞳ではあったが、明らかに東洋系の要素の入った顔立ちのジェームズに、イライラしてくる男子もいた。しかし、誰かがジェームズは武道の達人だというデマを流してくれたおかげで、胸ぐらをつかみそうな勢いで挑んでくる度胸のある生徒はいなかった。
ジェームズは次第に一人になっていったが、寂しさよりも、煩わしさから解放されてほっとしていた。
そんな時にルーシーが声を掛けてくれた。
「ねえ、ジェームズ、日本のことを教えてくれない」
ジェームズはこのクラスに来てからずっとルーシーのことを見ていた。もちろん異性としての感情がないわけではないが、それ以上に、さらっとしたブロンドヘアーの隙間から射す大きなブルーの瞳の木漏れ日を、まるで美術館の絵画のように感じたのだ。
「僕、本当は武道の達人じゃないんだ。きっと先生がいじめられないようにって、噂を流してくれたんだと思うんだ」
ルーシーがなぜ自分に近づいてきたのかを知らないわけではなかったが、ジェームズは正直に答えた。ルーシーはそれでも一切怪訝な様子を見せず、却って笑顔を見せてくれた。だから身構えることもなく自然と話せたのかもしれない。
「例えば柔道みたいに、日本では必ず「道」ってつくけど、何か意味があるの?」
ルーシーは聞きたいことは必ず聞いてくる。ジェームズみたいに、どうかなあとは思わない。きっとスマホを見ればそれなりの答えは見つけられるのだろうが、それは機械の答えであって生身の声ではない。そういう機会をルーシーはとっても大切にしている。
「むずかしいなあ……」
格好つけてもいいのに、ジェームズはルーシーの前では、素直になれる。
「ジェームズがどう思っているかでいいから教えて」
「格闘技で例えるなら、道というのは、ただ単に強くなるために努力するということではないんだよ。もちろん強くなるためには徹底して技を究めないといけない。けど、そのことで自分自身の人格も同様に高め、そして究めないといけないんだ。だから、その終わりのない修業という意味でそう呼ぶんだよ」
ジェームズはものすごく簡単に説明したが、へんな気負いはない。
「じゃあ、日本ではサッカー道とかラクビ―道って言うの?」
ルーシーの素朴な疑問につい笑ってしまう。しかし、すぐにごめんと頭を下げた。
「そうだね。でもさすがに海外からやってきたスポーツに対してはそうは言わないけど、選手はきっと究めたいと思っているから、そうとも言えるね」
そんなたわいもない会話が続き、ジェームズは次第にルーシーに心を許せるようになった。そして、ルーシーが架け橋となって、次第にクラスメートと行き来するようになってくる、もはや、はるばる極東からロンドンにやって来た一人ぼっちの日本人だと、誰もジェームズのことを思わなくなったし、ジェームズ自身もそう思いたくなくなっていた。
それでも、ルーシーには言えないことがあった。もちろん個人的なことだ。ひよっとしてルーシーにとっては困惑以外の何ものでもないのかもしれないが、ルーシーにだけは聞いてもらうだけでもいいから話しておきたかった。
「僕の顔って変?」
「どうしてそう言うことを聞いてくるの?」
「だって、僕、死のうとしたんだ」
ルーシーがとても驚いているのが目に見えてわかる。
「でも不思議なことに、誰かにロンドンに行けって。それで知らない間に飛行機に乗って、あっという間に着いたら、おじさんおばさんが迎えに来てくれていて…… それ以来記憶がとぎれとぎれになってしまったんだ。特に両親の記憶がね」
その声はきっと母だったように思うのだが、ルーシーには言えなかった。
「でも、どうして?」
「僕は日本の学校でいじめられていたからだと思うんだ」
「どういうこと?」
「きっと僕がハーフだったから……」
ジェームズは、自分の過去なのに、のぞき込もうとすると、頭痛がして、誰かに首根っこをつかまれたような気分になる。それでも、ルーシーに何とか伝えたくて、懸命にほつれた糸を紡ぎなおそうとした。
「小学生の高学年になると急に背が伸びて、そのうちみんなが僕を見上げるようになってきたんだ。僕はだからと言って誰かに喧嘩を仕掛けるとか、威圧的な態度をとることはしなかったんだけど、みんな僕のことを怖がって…… そう、白いライオンって呼ばれていたよ」
まだ子供だったので、それほど気にせず無邪気にしていればよかったのに、友達が特に悪気がなくても、「ガオー」って、ライオンの鳴きまねで笑いながら近づいてきただけで、急に気分が萎えてしまったような気がする。
ジェームズは少しずつ孤独になっていった当時のことを、まるで吐物のように思い出そうとする。
「でも、まだ小学生の時はましだったのかもしれない。中学に入ったら、身長もさることながら、僕の顔がきっと邪魔したんだと思う。多分ルーシーはわからないだろうけど、日本人って、ハーフのイケメンが好きなんだ。それもきっと大人になれば変わるんだろうけど、思春期の始まりだから、かっこよさに憧れるんだと思う。それで、女子は僕に好意を持ってくれる。でも正確に言うと僕の見た目だけにだけど。僕も何となくそういうことがわかっていたから、無視したら、なに気取ってるんだって、へんなやっかみが生まれてくる。そういう、ちょっとしたきっかけだったと思うんだけど」
「気に食わないって殴られたの?」
「殴られたのかもしれないけど、肉体的な痛みの記憶はあまりないんだ。それよりも、みんなが僕を無視する。朝来たら真黒な花瓶に花が活けてある。机の中に生ごみがはいっている。便器に教科書が投げ込まれる。そう言うたぐいのことだったと思うんだ。結構続いたんで、僕は学校に行きたくなくなったんだ。でも、家に居たら母さんが心配する。だからどうしようって……」
「どうしたの、学校の先生に相談したの?」
「そんなことはしないさ。だって彼らは巧妙だったから。それにそうすると、もっとエスカレートしてくるんじゃないかって……」
「だったら、一人一人と話せばよかったんじゃない?」
「彼らは個人じゃないんだ。影のように、存在があるから影なのに、影のようにやってくる」
「私だったら闘うわ」
誰に対して、何に対してと、ジェームズは思ったが、あえて言わなかった。
「そうだね。君ならそうするだろうね。でもね、今の僕を見て思うだろう。僕はそうできなかったんだよ」
ルーシーはそれ以上何も言わないというか、言えなくなっているようだった。
「でもね、ある日こう言われたんだ。「きみ以上に楽しいものはないって」」
ルーシーは微動だにしないでジェームズの言葉を聞いていたが、もうこれ以上は聞きたくないとばかりに、「記憶が曖昧なんだったら、ご両親はどこかで生きているかも知れないわね」と、優しく寄り添ってくれた。
「ありがとう」
ジェームズはやっとルーシーの瞳を直視できた。
「ロンドンにきて良かった?」
ルーシーは心に優しい音色を響かせてくれる。
「まだ、よくわからない」
ジェームズは、ルーシーに会えただけでもロンドンにきて良かったと言いたかったが、恥ずかしくて、その気配すら感じさせないようにすることだけで精一杯だった。そして、「僕の顔って変?」と、もう一度聞いてみた。
ルーシーはしばらくじっとジェームズの顔を見ていたが、「もう二度とその質問はしないでね」と、くぎを刺してから、静かにジェームズにある話をし始めた。
「私にはね、ジュードっていう弟がいてね、でも、顔の半分に大きなできものがある状態で生まれてきたの。それに喉もそのできものが圧迫して、生きるか死ぬかですぐに手術が始まって、だから、しばらく家に帰ってこられなかったの」
ルーシーはジェームズを見ているが、瞳は完全にジェームズの向こう側に視線を合わせている。
「だからママも、ジュードを生んだのに、そのまま病院に居て、しばらく会えなかったの。もう小学生だったから学校があるし、でも私にとって初めての弟が生まれたのよ。うれしくてうれしくて、早く会わせてってパパに頼んだんだけど、呼吸のことがあるからって。パパは顔のことは私には一切言わなかったの。いま、ジュードは必死になって生きようと頑張っている。だから、会えないけど我慢して、一緒に応援してあげようって」
「お母さんは?」
「ジュードにつきっきりで」
「寂しくなかった?」
「寂しかったわ、でも、ジュードにはママが今一番必要だと思ったから」
ルーシーはジェームズより数段しっかりしている。自分だったら、母に会いたいって駄々をこねているかもしれない。
「じゃあ、いつ、ジュードに会えたの?」
「喉の手術が無事済んで、呼吸状態が落ち着いて、やっと顔の手術が出来るようになった時かな」
「手術前に会ったの?」
「そう、その日ママが久しぶりに家に帰ってきて、ゆっくりと時間をとってくれて、私に、ジュードのこれまでのことや顔のできものことを色々話してくれたの。ママは手術したら良くなっていくんだけど、その前にちゃんと生まれた時の顔を見てあげてってね」
「どうだった?」
「私、子供だから、想像できなかったの。でもね、初めてジュードを見た時にね、そりゃあ、全く驚かなったというと嘘になるけど、それよりも、気持ちよさそうに息をしていたし、ちゃんと私を見て笑ってくれるの。それにあたたくて、ふわふわしてて、かわいいって、しばらく抱いて離さなかったってママが言っていたわ」
ルーシーの頬が少し緩んだ。
「その後に何回かに分けてできものをとって行きながら、同時に顔の形成手術を受けたんだけど、傷痕ははっきりと顔に残っているし、目や鼻の形も多少は違うことは誰が見てもわかったわ。それに、ジュードの体はとても小さかったの。成長が遅れているだけだって、最初お医者さんも話していたそうなんだけど、そうじゃなかったみたいで、ホルモン治療を始めていたわ」
「ジュードはどう思っていたんだろう」
ジェームズは自分が恥ずかしかったが、それでも聞いてみたかった。
「はじめは何も思わなかったと思うわ。それはジェームズも一緒でしょう。でも、幼稚園くらいの時かな?ママに僕の顔って変?って聞いてきたの」
「おかあさんはどう答えたの」
「ちゃんとジュードに病気のことを説明していたわ。そしてこれからもっといろいろなことを言われて悲しい思いをするかもしれないけど、あなたには私達がいるから大丈夫よって言っていたわ」
「お母さんはやさしいね」
「そう、だから、私もジュードを絶対に守っていく、もし、いじめるようなことがあったら私が喧嘩してやっつけてやるって思ったの」
ルーシーの場合それがプラスの方向に働いて、社交的になっていったのかもしれない。
「でもね、ジュードはしばらくしてから私にこう言ったの。僕は男だって」
「どういうこと?」
「パパがね、ジュードは男の子なんだから頑張りなさいって言ったらしいの。見た目のことでこれから悲しい思いをしても、ジュードはそこから逃げられない。それに人間は見た目だけで生きているんじゃない。ちゃんと心と心で通じているからって。だから、我慢することも、反対に喧嘩することもない。ちゃんと話し合いなさって、そうしたらちゃんとわかってくれるからって」
ルーシーはねえそうだったんでしょう。ジェームズもそうお父さんに言われたんじゃないの、だってジェームズだって男なんですもの、と言いたかったのだろう。でも、ジェームズは父からは別になにも言われなかったような気がする。ジェームズはハーフであるが病気ではない。だから、言われなかったとしてもジェームズがそう自分で思えば済むことだ。でも、ジェームズはそう出来なかった。それにいじめはそんなきれいごとではないんだ。別にハーフであろうがなかろうが起きるときは起きる。僕はそれを見た目のせいにすることで気を落ち着かせていただけなんだ。だからそうできなくなった時に、僕は死のうとしたんだと思う。
「それがね、ジュードは、そうでもなかったんだけどね、周りはジュードに遠慮するというか、あえて近づこうとはして来なかったの。だから、なかなかうまくコミュニケーションが取れなくて困っていたみたい」
「ジュードはどうにかして解決法をみつけたのかい?」
「ジュードはできもので喉を圧迫されていたからかもしれないんだけど、はじめの頃は声がしゃがれて困っていたの。けどね、ある先生が手術をしてくれたおかげで、私達もびっくりするくらい声が良くなって。はじめはとっても恥ずかしかったんだと思うんだけど、音楽が好きだったから、たまたま歌ってみたら、みんなが反対に集まってくれて、それからは・・・」
ジュードはたまたま奇跡の声を手にしたのかもしれないが、そのことよりも、手術を含めて今まで多くの大人たちや病院など家とは異なった場所で生活してきて多くのことを学び、そして自分で考え、可能な限りの解決法を見出そうと努力してきたんじゃないかと思った。きっと、ルーシーにそのことを尋ねたら、そうなの、そうなのよと、ひよっとしたら、わかってくれてありがとうって、満面の笑みで抱き付いてくれたかもしれない。でも、もしそうされたら、ジェームズは、自分が情けなくて情けなくてしかたがないくらいに落ち込んでいたに違いない。
「ジュードは僕より体は小さかったのかもしれないけど、ずいぶん大人だったんだね」
「そういうところもあったのかもしれないわね。でも、私にとってはかわいい弟だったから」
親にも言いたくないことは、子供といえ少しずつ出てくるし、子供同士のことは親にもわからないことがあるし、男と女は多少違うところもあっただろうが、それでも思春期前ではその差は小さい。だから少し前を歩いているお姉さんは、たとえ何もしなかったとしても、ジュードにとってどれだけ心強かっただろう。
ジェームズは一人っ子だった。
「ねえ、ジェームズ。ジェームズはハーフで生まれてきたことを恨んだことはない?」
「そりゃあるさ」と、返事をしてから、ハッと気づいて、すぐに、「でも両親のことを恨んだことは一度もなかったよ」と、付け加えた。
「具体的な記憶が無くなっているからといっても、僕は父さんも母さんも大好きだった。だから、どうして僕はハーフなんかで生まれてきたんだろう。生まれてこなかったら良かったんだと、両親のせいにすることは決してなかったよ。だから余計に辛かったし苦しかったのかもしれない」
ルーシーは珍しく黙っている。
「ジュードもそう思っているのかって知りたいんだろう。きっと僕と同じで家族がジュードを本当に愛していたら、ジュードは決して思わないだろうと僕は思う。それにね、僕もそうなんだけど、これだけははっきりしているんだけど、僕が生きている限りその事実は変わらないんだ。ただ、周囲の環境でどう感じるかが変わるんだけど」
ジェームズは最期まで本当のことを両親には言えなかった気がする。だからその事実を終わらせようと思ったのかもしれない。ジェームズは心の中でつぶやいた。
きっといつか周囲の環境は変わっていくのだろう。でもある意味その環境を変えるのも自分自身だ。ひよっとしたらそれはほんの些細な変化かもしれないし、ほんの些細な勇気かもしれないし、ほんの些細な助けかもしれない。しかし、闇の世界にどっぷりつかっているとなかなか身動きできないし、果てしない時間が体に延々と絡みついていって、誰がきても逃れられないのではないだろうかと思うし、誰かがほのかな蝋燭のともし火を掲げても、それは何かの罠に違いないと疑ってしまうだけなのかもしれない。きっとジュードもそういうことを何度かは考えたに違いない。でもそのことを今ルーシーに言うべきではない。
「ジュードは僕を気に入らなくなるかもしれないけど、僕はジュードと会いたいな」
ジェームズにはジュードの心の傷は見えない。同じようにジュードにもジェームズの心の傷は見えない。しかし、ルーシーのパパが言ったように、話し合うことは大切だ。
「それに僕達男同志だし」
ジェームズは少しだけルーシーに茶目っ気ある笑みで歯向かってみる。
ルーシーにはジェームズの声が全く届いていなかったのか、いつもと違い、黙ってジェームズをじっと見つめていたが、ふと視線をずらした。瞳から大粒の涙がとめどなく流れ落ちていて、必死に大声を出すことをこらえている。
「ジュードはあの爆発事故で死んじゃったの」
ジェームズの高まる鼓動は、飛来していた渡り鳥が、誰かの声で一斉に湖面から飛び立ったあとの静けさに変化していた。でもその声はルーシーの声だったのかどうかわからない。それにそれを問い直すことは、もはやジェームズにはできなかった。