(20)イナサの大相撲
すべてが赤々と燃え上がっていた。それほど強い西日が、ただ一色に周囲を包み込んでいた。
ナナモとヤズはゆっくりと注連縄をくぐった。目の前では、テズが怯えながら一塊になっている男衆に刃を向けていた。影として姿を見せた邪鬼達も、ナナモ達が見えるのか、色めき立ち始めていて、二人に歩調を合わせるようにその半円を狭めてくる。ヤはその気配に慌てて飛び立ってしまう。
「聖剣はどこだ」
ずいぶん待たされたのか、つり上がった目が、テズの苛立ちを深く眉間に刻みこんでいる。
「ありませんでした」
「なんだと!」
テズの気迫が、もはや沸騰しそうなほどの熱気で押し寄せてくる。しかし、ナナモはまるでガラス越しにでも見ているように後ずさりしない。
「その代わり聖なるケラがここにあります」
ナナモは固く握られていた右手を差し出した。そして、ゆっくりとその手を開いてみた。
あれほど執拗にその姿をあわらすことを拒んでいたのに、意図も簡単に手は開き、真黒な光沢のある小さなケラが、手のひらに乗っていた。
「聖剣がなかったなんてことはない。きっと何かの術を使って、ケラの形にしているだけなのだろう」
テズはそのケラをナナモから取り上げたりはしなかった。うかつに触ってはまた鎌鼬が現れると思ったのかもしれない。
「聖剣なんてもともとなかったんです。あれは村人達が創った戒めに過ぎないんです」
「戒め?」
「そうです。聖剣は救世主しか手に取れない。だったら、もし、救世主が現れなかったら里は滅んでしまう。でも、救世主を誰も見たことはない。そういう言い伝えがあるだけで、本当かどうかわからない。だから、そう信じることは大切だけど、決してそのことに頼るのではなく、そうならないように一生懸命里を守っていくことが大切だと、そういう戒めなのだと僕は思うんです」
「そんなことはどうでもいいんだ、お前に説教される筋合いはない。目の前にお前が現れた。木簡の文字を読んだ。救世主だと俺は思った。だったら、二度と来ないこの機会を俺は利用しようと思った。別に、特別な理由などない。目の前にお前が現れなかったら、俺は、何もしなかった」
「だったら・・・」
「お前がいるんだ。目の前にお前がいるんだ。何度も言わせるんじゃない。お前は救世主だ。さっさと、このケラを聖剣に変えろ」
テズの言い方は荒々しかったが、比較的一定の口調でナナモに語りかけてくる。テズにとっては特別ではない。普通なのだ。たまたま大きな魚を誰かが釣ってきたので、それをもらって食べようと、それだけなのだと言いたげだった。
ナナモは、ふと、自分さえ現れなかったたらこんなことにならなかったのではないかと思った。それはナナモがいじめられている時にも思ったことだ。
ナナモはもう一度そのケラを強く握りしめた。もし、あの言葉を大声で叫べば、このケラは聖剣に変わるような気がした。ナナモは迷った。もし、そうすればこの聖剣は善ではなく悪に変わる。
テズは男衆の一人の喉もとに刃を突き刺した。男はヒエーっと甲高い声を出し、それでも身動きできないほどの恐怖で震えている。首筋には濃赤の血がゆっくりと流れ落ちていく。
「やめろ、男衆に手を出すな」
ヤズが叫んだ。
「お前がこの人を救世主だと言って俺のところに連れてきたのに、この若者は救世主でも何でもなかったんだよ。だから聖剣など手に入れられなかったんだ。それにこの人は聖なるケラと言っているが、俺はムラゲとしてこんな小さなケラなど作らない。どこかで拾ってきた小石かもしれない」
テズに多少動揺の色が見られた。すくなくともそのことで少しは何かを考えられる時間は得られた。しかし、何を考えるというんだ。ナナモは二人を見つめるしかなかった。
「こいつは救世主だ。今証拠を見せてやる」
ヤズはナナモに勾玉の首飾りと袋を渡した。ナナモはそれらを受け取り身に着けると、握りしめた右手が熱くなって、胸元に電気が走っていくような衝撃が伝わった。
「あっ」と、ヤズが声を立てたその瞬間に、テズがナナモの胸元を自らの刃で力強く突き刺した。その瞬間勾玉が輝きだし、その刃をテズの体ごと押し返した。
「兄者、見たか。こいつはやはり救世主だ。勾玉が輝いてこの刃をはじき返したじゃないか。俺はこの輝きを里で見たんだ。そして、言い伝えのように箸が流れてきた」
ヤズは初めてナナモの奇跡を見て驚いていたが、ナナモだけは知っている。ヤズの刃を防いだのは勾玉ではなく、ナナモの右手から陽光に導かれて瞬時に伸び、キラリと輝いた聖剣の切っ先だったことを。きっとそのことに二人は気付いていない。そのことに気付いた数多の影だけが、西日を背に襲いかかってきた。
「皆逃げるんだ、ジャキが近づいてくる」
聖剣を手にしたナナモの右腕は、ドクンドクンと拍動を伴いながら肥大してくる。次第にナナモ自身の体を大きくする。このままでは聖剣は悪になる。ナナモ自身も悪になる。もしそうなれば、見境のなくなった聖剣は、あたり一面のいのちを奪い取ってしまうに違いない。
ナナモは自身の心に聖剣の力が及んでくる前に、なんとしてもそのことを食い止めたかった。しかし、ジャキ達は妖艶な青色光を吐きながら何度も襲ってくる。ナナモの聖剣はそれらを立ち切ったり、反射させたりするだけで精一杯だった。それでも光線の一部が聖剣をかいくぐったのだろうか、ヤズやテズや男衆は体中を傷つけられ、意識さえはっきりしなくなっていた。それでも巨大化したナナモは邪鬼に立ち向かおうとはしなかった。それどころか彼らを抱え込むと、石の社の方に戻って行った。
ゆっくりと目の前から社は音を立てて崩れていく。砂ぼこりが宙を舞い視界をさえぎる。
ナナモは砂塵の中で立ち止まった。眼下には注連縄があったからだ。ナナモはその注連縄を聖剣で躊躇なく真っ二つにした。きっとそのことで、この聖剣の主が戻ってくるかもしれない。それでもかまわない。ナナモはそう思った。
落陽が、ものすごく長い赤毛で、ナナモ達を守るように巻き付いてくれていたが、ゆっくりと暗闇にほどかれていく。鉛色の雲が重くのしかかり、疾風とともに迫ってくる。ナナモの聖剣だけは四方八方から突き刺さってくる稲妻を何とか切り裂いていたが、ところどころ周囲の木々から炎が上がる。
今度は大地が唸りだした。崩れ去った社は、ぽっかりと穴が開いて、沸々といやらしい音をまき散らし始めた。
封印が解かれ、ツワノモが帰ってきたんだ。ナナモは瞬時にそう思った。ここから一刻も早く逃げ出さなければツワノモに飲み込まれてしまう。いのちという言葉をもう一度思い出す。絶対ツワモノに飲み込まれたくない、いのちを失いたくないと、ナナモは強く自分に言い聞かせた。
この聖剣を悪にしないために注連縄を切ったが、本当にそれで正しかったのだろうか?聖剣を自分のために使ったとしてもナナモ自身は困らない。たまたまここに来ただけであって、すべてが消え失せてもナナモには関わりがない。この聖剣を使えば、難なく夏期講習に戻れるかもしれないし、ヤソナはナナモにひれ伏してすぐに戻ってくるかもしれない。継承者になるためにもっと学ばなければならないと言われたが、簡単に王家の継承者になれるかもしれない。
きっとそれは善なのだ。悪ではない。
ナナモが妙に懐かしい香りとともにそう思い始めた途端、ナナモの身体はまるで風船のようにどこからか空気が漏れてしぼんでいく。あんなに光り輝いていた剣も消え、手掌にはもとのケラが何事もなかったように収まっていて、また無意識に拳で覆い隠されてしまった。
ナナモは救世主ではなくなったのだ。より激しく揺れる大地に足がすくわれ、もはや皆を抱きかかえる力もない。あの社跡の穴からは溶岩が見え隠れする。痛い。そう、熱いではなく、痛いのだ。けれど、痛みを感じなくなったら溶かされる。ナナモの記憶が一本の細道を照らそうとした時、細道をかき消すような稲妻の閃光が、あたりの音をかき消し、昼間のような明るさをもたらした。
ナナモはやっと正気に戻った。痛みが感じられるうちは生きられる。こんな時に妙な自信が湧いてくる。
「死にたくない」
ナナモのポケットから無意識に鏡がこぼれ落ちていた。ナナモは自分の顔を映し出す。もう鏡に映る自分自身は最後になるのかと思ったが、それでもなんとかならないかとあきらめなかった。
鏡には時間が止まったかのように、一羽のヤがゆったりと静かに旋回している姿が映っていた。
ナナモは思わず上空を見上げ、乾ききった声帯に絡んでなかなか出てこない音源を、それでも絞り出した。
「ヤよ。僕達は未練が一杯だ。ヤは死肉を食べ、僕達がオンリョウになることから救ってくれると聞いた。けれど、僕達はこのままだとこの溶岩に溶かされ跡形も無くなってしまう。ヤは僕らを見つけられない。もちろん僕達はカミではない。けれどオンリョウにならないとは限らない。僕達はオンリョウになりたくない」
ヤが呼応して鳴いてくれているのかと思えるほどの大きな雷鳴が、時間と空間を再始動させた。
一匹のヤが急降下してきて、ナナモ達の前に降り立った。そうか、そうだと。ナナモはヤの背中にヤズ達を乗せた。最後の一人を乗せ終わった時に、その背は一杯になった。ナナモはヤに彼らをタタラノ里に送っていくように頼んだ。ヤはそれでもなかなか飛び立とうとしない。ナナモを待っている。
しかし、ナナモは彼らと一緒にタタラノ里に戻るべきではないと思った。彼らの記憶にはナナモは救世主として残っている。でも、いま、ナナモは救世主ではなくなった。むろんカミでもない。彼らにはもはやナナモは必要ないのだ。
彼らが目覚め、その時に彼らはどのような思いでそれぞれが生きるのかはわからない。朦朧とした意識の中で、もはやここで起こったことが記憶として残っていないかもしれない。しかし、それはタタラノ里の村人が自身で決めることだ。それが彼らのいのちなのだ。
ここにケラがある。このケラは彼らの物だ。ナナモのものではない。ただし、このケラにはナナモのいのちが吹き込まれている。
ケラを握っている右手は、最初なかなか開かなかったが、それでもナナモの意志が伝わったのか、ヤの鼻先が触れた途端に、手掌はさっと開き、ヤはそれを口にくわえた。ナナモはそのことを確認すると、優しくお尻を撫でながら飛び立つように促した。
「ヤよ、タタラノ里に皆を連れて行ってくれ。あの里の社にそのケラを納めてくれ」
創られた灯りは少しずつ拡がって、闇夜を押し返していく。どこからか月や星々が眺めているのだろうが、噴煙が遮っている。それでもナナモは、ヤがはるかかなたへ飛び去って行くまで眺めていた。ジャキはもはや灯りに慄いて逃げ去っていた。ケラがあの社で守られている限り、きっと、二度とタタラノ里にジャキは現れないだろう。ムズもきっと帰ってくるはずだ。ナナモはそう信じた。
噴口からは天空を突っ切るように溶岩の柱が聳え立つ。大地は軋み、そして、幾度も倒れそうになる。ナナモは袋から注連縄を取り出すと、自らを封印するかのように強く腰回りに締め上げ、自らの意志で動かなかった。
もはや痛みは感じない。恐怖すら沸き起こってこない。それでもナナモは何かを拒んでいる。
「いのちはいらないのか?」
たった一人になったナナモに誰かが話しかけてくる。ナナモはそれが誰かはわかっている。
「そんなことはない」
「だったらどうしてここから逃げないのだ」
「ヤソナを返してくれ」
ナナモは叫んでいた。
「どうして俺に聞く?」
「あなたが灯りを遣わしてヤソナを連れて行ったんだろう」
「なぜ俺が連れて行かなければならないのだ」
「僕を試すためさ、僕の決意を試すためさ」
ナナモは一瞬時を止めたが、言葉が詰まったわけではない。
「僕は試されるのも試すのも嫌いだ」
「でも試さないとわからない」
「だったら、ヤソナ自身が僕を試せばいい。あなたがどうして僕を試すのだ」
ナナモの言葉が谺のように周囲の山々に響いていく。と同時に、あれだけ勢いよくひしめいていた灯りが、周囲の山々から弱まっていく。
「今言ったことはお前の決意だな」
「ああそうだ。僕の決意だ」
「彼はお前を憎んでいるのかもしれないぞ。会えば喧嘩になるかもしれない。それでもかまわないのか?」
「かまわない。無視されることと無視することを僕は好まない。それにお互いを知るためには時には勝負も必要だ。けれどそれは勝ち負けじゃない。きっとヤソナはわかってくれる」
ナナモが言い終わると、すべての灯りが、蒸気のようにスーッと消えていた。あれほど荒れ狂るっていた大地も石ころ一つ動かなかった。ナナモは腰に巻いていた注連縄をほどくと、自らが切った注連縄に繋ぎ直した。一礼し、一度だけ柏手を打つ。すると、まるでヨナオシがナナモの意をくみ取ってくれたかのように、すべては元に戻っていた。
闇夜が視界を遮ることはもはやなく、ナナモが夜空を見上げると、数えきれないほどの星々がナナモを優しく癒してくれる。そして、彼らを従えるのではなく、にこやかに囲まれながら、まんまるに輝く巨大な月が、太陽の光を鏡のように反射していた。
「あ、ウサギだ」
ナナモがウサギを追いかけるように歩きはじめると、天地を揺るがすほどの雷鳴が鳴り響いた。
「ナナモ・・・、ナナモ・・・、ジェームズ・ナナモ!」
最後にそう聞こえたかと思うと、それを打ち消すかのような大きな歓声が、ナナモの鼓膜に飛来してきた。身体中の筋肉が悲鳴を上げているようで全く動かない。それでもゆっ くりと目を開けることは出来た。
目の前には、ナナモではなく視線をその先に向けている大勢の気配がいた。ナナモもその視線に合わせる。社が宙に浮かんでいた。
「ここは・・・」
ナナモはタタラノ里に戻ったのではないかと最初思ったが、ひよっとして、ここはヤソナが言っていた宙に浮かぶ社ではないのかと、思い直した。なぜならヤソナはヒラサカではなく、宙に浮かぶ社に本当は行きたかったのではないかと、脳裏を横切ったからだ。しかし、社に行けるのはオホクニだけだ。ヤソナはオホクニではない。その継承者ですらまだない。だったら、ここは反対にヨミの国なのか。ヨミに社があっても不思議ではない。ナナモはやはりあの時に灯りに飲み込まれてしまったのだろうか。物の怪として生まれ変わったのだろうか。
いや、ナナモは確かあの時、ヤソナに会いに行くとツワモノに決意したのだ。一緒に夏期講習に戻るためなら、勝負をしてもかまわないとさえ思ったのだ。
ナナモはもういちど社を見た。社は確かに宙に浮いているが、大勢の気配は皆その社を見降ろしている。勿論ナナモもそうだ。
社を見降ろせるのはカミガミだけだ。やはり、天上に通じる社なのだ。もしそうなら、カミガミの見守る中で勝負をするのだろうか。ナナモは社の中にはいない。外にいる。社は唯一カミと交わえる場所だと聞いている。カミになったのか。いやそんなことはない。自分は継承者になるのだ。カミになるのではない。
社の中にヤソナがいるのだろうか。ナナモは、「ヤソナ」と、語りかけてみる。何度も語りかけてみる。もちろん返事はない。その声はすぐに大勢の気配でかき消されてしまう。
ナナモの声に呼応して、大勢の気配は次第にその輪を大きくしていく。ナナモはその気配に少しずつ前の方に押されていく。
社の前で誰かがナナモを見ていた。しかし、その気丈な輪郭は、頑として動かない。まるで入道雲を見ているようだ。
「誰?」
ナナモは弱々しいしい声で尋ねた。
「私はカタスクニの校長だ」
重厚な声が周囲に拡がることはなく、直接ナナモに返ってくる。
「カタスクニ?」
ナナモはまだ弱々しい声のままだ。
「そうだ、継承者が進むべき学校だ」
ナナモは驚いた。と同時に嬉しさがこみ上げてくる。
「僕の声が届いたのですね」
ナナモは無意識に柏手を大きく一つ打つと、今度は確認するように力を込めて叫んでいた。
「決意はついたか?」
そうはっきりと聞こえてくる。
「はい」
ナナモは大声で答えた。
「そうか、わかった。それなら、継承者になるための学校に行くことを許可しよう」
「ありがとうございます」
ナナモは柏手を打つことはなく、大きく目を見開き、頑強なその輪郭に対峙する。
「知っていると思うが、その前にキミは来年大学に行かなければならない。継承者は王家の仕事以外にも職業につかなければならないからだ」
「職業に就くだけなら大学に行かなくてもいいのではないのではありませんか?」
「それはその通りだ。でもキミは医者になるのだろう?そうであるならば医学部に行かなければならない。医学部があるのは大学だ。だから大学に合格しなければならないのだ」
「もし、合格しなかったら?」
「そのことはもう知っているな。合格するまで入学は延期される。そして、その間の記憶はなくなる。もう一度夏期講習を受けてから、選択するかどうか聞くことになるだろう」
「決意をですか?」
「ああそうだ」
ナナモにはこれまでの記憶がまだ鮮明に残っている。だから少しだけためらいがある。
「つらいか?」
ナナモは正直にハイと答えた。それはナナモだけではない。ナナモが関わった人たちのことを思うと余計につらかったからだ。
「記憶はつらいものだ。だったら、記憶を失くして前だけを見ることにするのだな」
「いや、つらくても振り返ることは大事だと思います。もし、そうしなければ、たとえ前に進んでも、僕は僕自身の心がずいぶん切り取られるような気がするし、僕の身体は大きくならなかったと思います」
ナナモは心から思った。
「たとえ何度失敗しても、継承者になるための授業を受けたいと思います」
ナナモはしっかりと前を向いた。
「残念だが継承者になるための機会には限りがある」
「えっ、そうなんですか?」
「ああ」
「だったら、何度チャンスがあるかだけでも教えてくれませんか?」
「それを聞いてどうする」
ナナモはそうだ、そうだなと頷くしかなかった。
「いいか、何事にも限りがある。いのちもそうだ。それは尊いことなのか、それとも愚かなことなのか、キミならわかるだろう」
ナナモはもちろんと言ったような気がする。
「ヤソナは?」
ナナモはヤソナのことを思い出した。ヤソナは二度目なのだ。
「気になるのか?」
「はい」
「そう思うのなら助けてあげるといい」
ナナモはなんども首をキョロキョロと動かしながら周囲を見渡したが、ヤソナはいない。
「ここはどこですか?カミガミが集う社ですか?」
「いや違う。イナサだ」
「イナサ?」
「そうだ。忘れたのか?大相撲が行われる」
「けれど、社が宙に・・・・」
ナナモはもう一度はっきりと前方を見た。社の屋根だと思っていたのは、実は屋形で、その下にははっきりと土俵が見える。
「あの・・・・」
ナナモはもう少し聞きたいことがあった。それは両親のことだ。しかし、大歓声に包まれて、もはやその軌跡すら届かない。
目の前から校長はいなくなっていた。その代り、遮られていた空間をはっきりと際立たせてくれる。
土俵の向こう正面に行事が厳かに立っていた。シャキッと背筋を伸ばし、呼び出しが大声で誰かを呼んでいる。ナナモは二人をじっと見た。行事はアヤベで、呼び出しはオホノだ。二人ともきちんと正装していたが、アヤベはスーツ姿ではないし、オホノからは口髭が消えている。それでもナナモはずいぶん懐かしい香りに包まれた。
そうか、戻ってきたんだ。ナナモはすべてを忘れるほど周囲を見渡していた。ナナモが出会った多くの顔がいる。おじやおば、サマーアイズや、夏期講習の人々。マーガレットおばあさん。ヤズ親子もテズ夫婦もいる。その顔はナナモの心を映しているだけかもしれない。ナナモはだからもう一度注意を向けて今度は探してみる。けれども父と母はいなかった。幼かった自分も見えなかった。ナナモは落胆しなかった。皆がいる。今は一人ではない。そう思えるだけで良かった。
そう言えばルーシーとカリンは相撲大会に出ると言っていた。必ず応援に行くと約束したんだ。ナナモは間に合ったんだと安堵した。だから、二人がどこに居るのか探した。
目を細め、片手を水平にかざしながら探していると、二人は土俵下で東と西に分かれて座っていた。二人とも肩を上下に動かし、はあはあと何度も息をしている。顔からは無数の汗粒が噴き出していたが、キラキラと光っていて眩しかった。ナナモはどっちが勝ったんだろうと思ったが、もはやそう想像することを拒むかように、二人はすがすがしくそして何よりも美しかった。
ナナモはどちらに先に会いに行けばいいんだろうと迷った。しかし、そう思った途端に二人とも急にナナモの目の前から消えた。
どこに行ったんだろう?と、ナナモは何度も周囲を見渡しが、二人はいない。すると、急にどこからかナナモを呼ぶ声が聞こえてきた。二人の声ではない。太い重い声だ。そしてナナモの心を強く揺さぶってくる。
「ジェームズ・ナナモ!」
今度ははっきりと響き渡る。オホノの声だ。土俵にはアヤベも凛として立っている。
まだ、大相撲は終わっていないのだ。ナナモは校長の言葉を思い出していた。
ナナモの身体は綿菓子の様にだんだんと大きくなっていく。けれど軽くはない。ずっしりとした重みが感じられる。きっと皆の想いが詰まっているに違いない。
ナナモは丸裸になっていた。いや、正確にいうと大きな注連縄で回しを付けていた。みんながナナモを呼んでいる。ルーシーやカリンの声も聞こえる。ナナモは一歩一歩踏みしめながらゆっくりと歩いて行った。土俵が見えた。思ったより小さく見える。
「やっと会えたね。さあ、勝負だ」
ナナモはいのちを滾らせながら土俵に上がり、しっかりと両足で掴むと、心の中で力強く叫んだ。




